第71話 少年アレンの事情
今日は町長に用事があるため、視察は明日に延期となった。時間に余裕ができたクラリスは、町を散策することにした。
「ふふ、こうして気ままに町を歩くのも悪くないわね」
市場を歩きながら、クラリスは活気あるカサンガの雰囲気を楽しんでいた。そこには異国の品々や珍しい食べ物が並び、人々が賑やかに行き交っていた。
だが、その穏やかな空気を突然破る声が響いた。
「ど、泥棒だー!」
市場の人々がざわめき、一斉に騒ぎ始める。
「えっ、何かあったの?」
クラリスが声のする方を見ると、少年が何かを抱えて走ってくるのが見えた。その後ろからは怒鳴る店主と、数人の客が追いかけていた。
「追え! あいつが盗んだぞ!」
クラリスの護衛騎士の一人が素早く動き、少年の行く手を塞ぐ。少年は驚いた表情で立ち止まるが、逃げる隙はない。
「……くっ!」
少年は必死に抵抗しようとしたが、大人の力には敵わず、あっという間に捕まってしまった。
「ご、ごめんなさい……!」
少年は怯えた表情で震えている。その手には、硬く握りしめたパンがあった。
クラリスは静かに少年に近づき、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「どうして盗んだの?」
少年はしばらく沈黙していたが、やがて小さな声で答えた。
「……お母さんが病気で……食べ物を買うお金がなくて……」
「……」
クラリスはそっと少年の手を取った。
「あなたの名前は?」
「アレン……」
「アレン、あなたのお母さんのところに案内してくれる?」
「えっ……?」
少年は驚いた顔をした。
「事情を知りたいの。あなたを責めるつもりはないわ」
アレンはしばらく迷っていたが、やがてコクリと頷いた。
「こっち……」
少年に案内され、クラリスたちは市場の外れにある小さな家へと向かった。
アレンが案内した家は、町の端にある古びた小屋だった。扉は半分壊れており、窓には割れたガラスがあちこちに見られる。
「ここ……」
アレンが扉をそっと開けると、中には痩せこけた女性が横たわっていた。
「お母さん!」
アレンは駆け寄り、そばに座る。女性は薄く目を開け、かすれた声でアレンの名を呼んだ。
「アレン……? どこに……」
「ごめんね、お母さん。僕、ご飯を……」
その言葉に、クラリスは小さく息を呑んだ。
「……これはひどいわね」
カインがクラリスの肩に止まり、低く呟いた。
「栄養失調と病気の併発……このままだと、長くはもたないかもしれん」
「そんな……」
ヒカリも表情を曇らせる。
クラリスはそっとアレンの母に近づき、声をかけた。
「初めまして。私はクラリス。あなたの息子のアレンが、あなたのために食べ物を探していたの」
「……申し訳ありません……あの子にそんなことを……」
「謝る必要はないわ。でも、あなたの体のことをもっと詳しく知りたいの。何か病気の症状は?」
「……ずっと熱が下がらなくて……咳も……それに、体が……だるくて……」
クラリスはアレンの母の手を取り、額に触れた。熱はかなり高く、顔色も悪い。
「……すぐに治療が必要ね」
クラリスは護衛騎士に指示を出した。
「町の診療所から医師を呼んできて。急いで!」
「はっ!」
騎士がすぐさま駆け出す。
「……お嬢様、私たちにできることは?」
執事が静かに尋ねると、クラリスは真剣な目で答えた。
「私たちができることは、彼女の病気を治し、アレンが安心して暮らせるようにすることよ」
ヒカリが力強く頷いた。
「うん! きっと助かるよ!」
カインも低く唸るように言う。
「問題は、この町の貧困層がどれだけの数いるかだな。アレンの母親だけがこういう状況とは限らん」
「……そうね。この町の抱える問題についても、しっかり見ていく必要があるわね」
そう話しているうちに、診療所の医師が駆けつけた。
診療所の医師は、アレンの母親を慎重に診察した。クラリスたちはその様子を静かに見守る。診察を終えた医師は、深刻な表情で言った。
「……栄養不足もありますが、それだけではありません。もともと持っていた病気が、この環境によってさらに悪化してしまったようです」
クラリスの心がざわめいた。
「それは、治るのですか?」
「……申し訳ありません。私の手ではどうすることもできません」
静かな宣告が、部屋の空気を一変させた。
「そ、そんな……!」
アレンが膝から崩れ落ち、母親の手を握りしめる。
「どうか……どうか助けてください……!」
彼の必死な声が、胸に突き刺さる。
ヒカリがふわりと浮かび、神妙な表情をした。
「……俺の癒しの力で、どうにかならないかな」
その言葉にクラリスは目を見開いた。
「試してみましょう」
「わかった! じゃあ、クラリスは治すふりをして」
「ええ、そうするわ」
クラリスはアレンの母親の手をしっかりと握り、静かに目を閉じた。
もちろん、クラリスとカイン以外にはヒカリの姿も声も見えない。
「じゃあ、いくよ……シャイニングシャワー!」
ヒカリの声とともに、彼の小さな手から温かな光があふれ出し、アレンの母親を包み込む。
光が彼女の体を優しく撫でるように降り注いだ。しかし、しばらくしても変化は見られなかった。
「……だめだ。もとからある病気は治せないみたい……」
ヒカリが肩を落としながら呟く。
「まだよ。諦めちゃダメ……!」
クラリスはそう言うと、さらに母親の手を強く握りしめた。
(絶対に治す……!)
強く願う。
すると――
聖女の髪飾りがかすかに光を放ち、そこから微細な魔力がクラリスへと流れ込んできた。
「っ……?」
クラリスはその感覚に驚いたが、拒むことなく受け入れる。
すると、その異変を察知したカインがすぐに叫んだ。
「クラリス! 何をしている!」
だが、その声はクラリスには届かなかった。
次の瞬間――
アレンの母親の体が黄金の輝きに包まれた。
「えっ……?」
アレンの母親が驚きの声をあげる。
「苦しさが……なくなった……?!」
彼女はゆっくりと体を起こし、自分の手を見つめた。さっきまでのだるさが嘘のように消えていた。
アレンは目を大きく開き、信じられないというように母親を見つめる。
「お母さん……?」
母親は優しく微笑み、アレンの頭を撫でた。
「ええ、大丈夫よ……不思議なくらい、体が軽いわ……」
クラリスは小さく息をついた。
「……よかった……」
ヒカリは驚いた表情を浮かべながら、聖女の髪飾りを見つめる。
「……もしかして、これって……本物の『聖女の力』……?」
カインも険しい表情で呟く。
「クラリス、お前……また厄介な力に触れてしまったかもしれんぞ……」
クラリスはそっと髪飾りに手を触れた。その輝きは、まだかすかに光を放っていた。
(今のは……いったい?)
確かに感じた、聖なる魔力の流れ。
しかし、それが何を意味するのか、この時のクラリスはまだ知らなかった――。




