第四章 冬の栞とタイムリミット
一、白く染まる季節
年が明け、一月になると、旧図書館の地下窓から見える景色は、冷たい雨から時折混じる白い雪へと変わっていった。
地下閲覧室の白熱灯は相変わらず優しく二人を照らしていたが、窓際から伝わってくる空気は日を追うごとに冷たさを増している。それでも、時雨詩織が淹れてくれるアールグレイの湯気と、机の上を静かに滑るノートの切れ端だけは、いつも変わらない温かさを紅野薫の心に届けてくれていた。
けれど、二人のやり取りの端々には、どうしても隠しきれない寂しさが滲むようになっていた。
四年生の紅野には、大学の卒業、そしてこの街を去るという現実がすぐ目の前まで迫っていたからだ。東京のデザイン事務所への就職が決まった紅野は、三月の末にはこの街のすべてを引き払い、遠く離れた新しい場所へと引っ越さなければならない。
ある日の筆談の途中、時雨のシャープペンシルが、ぽつりと一つの文字をノートに残した。
『先輩の卒業論文、無事に提出されたんですね。おめでとうございます』
紅野は手元のシャープペンシルを走らせる。
『ありがとう。時雨さんが貴重書庫からあのモリスの本を借りてきてくれたおかげだよ。本当に感謝してる』
『……よかったです。先輩の役に立てて』
時雨の文字はそこで一度止まり、少しの余白を空けてから、いつもより小さく、震えるような筆圧で続きが書かれていた。
『先輩が卒業して、ここからいなくなってしまうの、なんだかまだ実感が湧きません』
紅野はその文字を見つめたまま、胸の奥を鋭い刃物で擦られたような痛みを覚えた。大人しい彼らは、お互いに「好きだ」という言葉を一度も使っていなかった。連絡先さえ、まだ交換していない。けれど、この静寂の中で重ねてきた時間は、どんな言葉よりも深く二人の心を繋いでいた。
『僕も、この場所を離れるのが、本当はすごく寂しい』
紅野の本音に対して、時雨はもう返事を書かなかった。ただ、白磁のマグカップを両手で強く包み込み、俯いたまま、立ち上るアールグレイの湯気をじっと見つめていた。
二、不器用な職人の指先
それからの数週間、時雨は時折、ひどく疲れたような顔をして図書館に現れるようになった。
三つ隣の席に座る彼女の手元を見ると、かつて貼られていたあの白い絆創膏が、今では両手の何本もの指に増えている。指先だけでなく、手の甲にまで細かな擦り傷ができていた。
紅野は心配になって、ルーズリーフを破って文字を滑らせた。
『時雨さん、手の怪我がすごく増えていませんか。図書修復の勉強、あまり無理をしないでくださいね』
時雨はそのメモを読むと、慌てて両手をトレンチコートのポケットに隠した。そして、紅野の方を振り返り、困ったように眉を下げて、小さな声で囁いた。
「大丈夫、です。ちょっと……どうしても、出来るだけ早く、仕上げたいものがあって」
筆談を破って発せられた彼女の声は、少し掠れていた。急ぎで仕上げたいもの。それが何なのか、紅野には分からなかった。けれど、彼女が自分の夢に向かって、指を傷だらけにしながら必死に奔走していることだけは分かった。
「応援してる。でも、本当に。自分の体だけは大切にしてね。それ以上は、何も言わないから」
紅野が小さな声で返すと、時雨はポケットの中でぎゅっと拳を握りしめるようにして、こくりと頷いた。
その日を境に、彼女は図書館に来ても、すぐに自分の席を立って書庫の奥へ籠もるようになってしまった。並んでアールグレイの香りを共有する時間は少しずつ減っていき、すれ違いの寂しさが、冬の寒さと共に紅野の心を支配していった。
三、残された時間の価値
二月も終わりに近づいたある日、大学内は学年末試験や、卒業を控えた学生たちの騒がしい声で溢れていた。しかし、旧図書館の地下だけは、変わらない静けさを保っていた。
紅野はその日、自分の荷物を整理するために、久しぶりにあの閲覧席に座っていた。
手元には、時雨とこれまでに交わしてきた何十枚ものノートの切れ端が、一冊の小さなファイルに綺麗に収められている。スマートフォンの中に残る文字とは違い、この紙の束には、彼女の息遣いや、あの雨の日のアールグレイの香りが、今でも微かに残っているような気がした。
ふと見上げると、三つ隣の席に、主のいないベージュのトレンチコートだけが掛けられていた。
時雨は今日も、書庫の奥で作業をしているのだろうか。
紅野は一枚の白いメモ用紙を取り出し、そこに自分の今の気持ちを、ゆっくりと、一文字ずつ丁寧に書き込んでいった。それは、これまでの筆談の中で、一番長くて、一番不器用な手紙だった。
『時雨さんへ。
君とこの場所で出会えて、本当に良かった。アールグレイの香りが届くあの距離が、僕にとってどれだけ救いだったか、言葉では言い尽くせません。もうすぐ僕はここを去るけれど、君が指を傷だらけにしながら守ろうとしている本の世界を、僕は遠くからずっと応援しています。僕のこれからの毎日に、きっとあの香りがお守りとして残り続けると思います』
手紙を書き終え、彼女の席の、いつもマグカップが置かれている場所にそっと置いた。
時計の針は、すでに十六時を過ぎている。
紅野は、彼女が戻ってくる前に席を立つことにした。面と向かって「さようなら」を言うには、自分の心がまだ、十分に大人になりきれていないことを知っていたからだ。
旧図書館の重い扉を閉める間際、紅野はもう一度だけ、あの薄暗い地下閲覧室を振り返った。
白熱灯の光の下で、自分が残した一枚の白い紙片が、静かに時雨の帰りを待っていた。
二人のピュアな純愛は、お互いの未来を思いやるがゆえの、切ない距離感を保ったまま、いよいよ最後の「三月」という時期を迎えようとしていた。




