第二章:琥珀色の交換日記
四、琥珀色の交換日記
時雨と言葉を交わしたあの日から、紅野と時雨の文通は始まった。最初は貸出レシートの裏から、ノートの切れ端、自分の持っているおすすめの本の余白、使えるものすべてを使って、互いを探り知りあった。
ある日、紅野は勇気を出して時雨に質問をしてみた。なぜ、マグカップでアールグレイを飲んでいるのですか、と。時雨はそれに応えようと紅野の方を向いて口を開く。けれど、言葉は紡がれなかった。
旧図書館は、人気は少ないと言っても、二人きりというわけではない。たまに本館図書館にない本を求めに旧図書館に来る生徒もいる。
一人の女子生徒が横を通り過ぎる。二人は何事もなかったかのように席に戻り、読書を始める。
時雨が紅野の前を横切る時、本の横に一枚、小さなメモ用紙を置いていった。
その小さなメモには、彼女の少し内気な、けれど細く整った文字が躍っていた。
『大きな声で話すのが、少し恥ずかしかったので……ごめんなさい。アールグレイを飲んでいるのは、これが私にとって「静かになるためのおまじない」だからです』
おまじない、という言葉の響きに、紅野の胸の奥がトクンと小さく跳ねた。
彼は手元のシャープペンシルを握り直し、彼女の文字の下に、自分の言葉を書き加えていく。
『おまじない、ですか。素敵な理由ですね。でも、どうしてアールグレイなんですか?』
紙片を三つ隣の席へとそっと滑らせる。時雨はそれを両手で大切そうに受け取ると、白磁のマグカップから立ち上る湯気の向こうで、小さく微笑みながらペンを走らせた。カチ、とシャープペンシルが静かにノックされる。
『アールグレイの香りは、ベルガモットという柑橘の果実から作られているんです。柑橘の瑞々しさと、古い紙の少し枯れた匂いが混ざり合うと、なんだかこの世界に私一人だけが取り残されたみたいに静かになれる気がして。……先輩は、この香りは嫌いですか?』
紅野は首を横に振る代わりに、少し強い筆圧で返事を書いた。
『いいえ、むしろ逆です。最近は、この香りが届くのをどこかで楽しみにしている自分がいます』
書き終えてから、少し素直に伝えすぎただろうかと、紅野は耳の後ろが熱くなるのを感じた。戻ってきた紙片を見ると、時雨の文字の最後に、小さく、照れたようなひよこのイラストが手書きで添えられていた。
大人しい性格の二人のやり取りは、いつもこうして、誰にも邪魔されない静寂の中で深まっていった。スマートフォンを介した文字には体温がないけれど、この破り取ったルーズリーフの切れ端には、確かに彼女の指先が触れた温もりが残されている。
数日後、雨は相変わらず旧図書館の地下窓を濡らし続けていた。
いつものようにメモを交わそうとした時、紅野は時雨の右手の親指と人差し指に、新しく小さな白い絆創膏が貼られていることに気づいた。隙間からのぞく指先は、細かな紙やすりで擦ったように少し赤くなっている。
心配になった紅野は、美術書の余白にこう書き込んで、彼女に本ごと手渡した。
『指先、どうかしたんですか。怪我でも?』
本を受け取った時雨は、自分の指先を少し気恥ずかしそうに見つめ、すぐに小さなメモ用紙に理由を書き記した。
『大丈夫です。実は、自宅で古い本の修復の練習をしていて、和紙を小刀で断裁するときに少しだけ滑ってしまって。職人さんへの道は、まだまだ遠いです』
国文学科の二年生である彼女は、将来「図書修復家」を目指して自主的に勉強をしているのだという。紅野は、彼女がただ大人しい女の子なのではなく、自分の夢に対してこれほどまで一途に向き合っていることに、深い尊敬と愛おしさを覚えた。
『無理はしないでくださいね。時雨さんの手は、古い本に新しい命を吹き込んで、何百年も先に繋ぐための、大切な手なんですから』
紅野がそう返すと、時雨は動きを止め、しばらくの間、じっとその文字を見つめていた。白磁のマグカップを包み込む彼女の白い頬が、ほんのりと朱に染まっていくのが、三つ隣の席からでもはっきりと分かった。
それから、彼女の文字にはいつもより少しだけ、甘えるような柔らかさが混ざるようになった。
『ありがとうございます、先輩。実は、今やっている練習は、先輩の卒論に少しだけ関係があるんです。十九世紀のイギリスの書籍は、綴じ方がとても複雑で、でも美しくて……。先輩の卒論、少しでも良いものになるといいですね』
美学芸術学科の四年生として、ウィリアム・モリスの装丁芸術を研究している紅野。その難解なテーマを、彼女は自分の視点から一生懸命に理解しようとしてくれていたのだ。二人の学ぶ世界は、この薄暗い空間の中で、アールグレイの香りに包まれながら、静かに、深くリンクし始めていた。
ある日の夕方、時雨の書いた文字の最後に、一つの小さなお願いが書かれていた。
『先輩。明日の十五時、もしよければ、私のお気に入りのアールグレイを、少しだけ飲んでみませんか。タンブラーをもう一つ、持ってきますから』
紅野は、自分の心臓がドクンと大きな音を立てるのを聞いた。
これまでは、香りが届く距離にいるだけだった。文字を交わすだけだった二人の距離が、ついに「同じ味を共有する」という場所まで進もうとしている。
『喜んで。楽しみにしています』
そう書き置きを残して、その日の時計が十六時を告げた。時雨はいつも通り、静かにトレンチコートを羽織って席を立つ。
すれ違いざま、彼女は紅野の方をちらりと見て、悪戯が見つかった子供のように、ほんの少しだけ、いたずらっぽく微笑んだ。その笑顔は、これまでに見たどんなものよりも眩しく、紅野の心に、消えない琥珀色の足跡を残していった。
しかし、時計の針は残酷に、薫の「卒業」というタイムリミットを刻み続けていることを、二人はまだ、忘れたままでいた。
前のとちょっと書き方が違いますが、気にしないでください。気の迷いです。




