第7話 いざ魔王領へ! 走る執務室(モバイル・オフィス)でのブリーフィング〜同情はしませんが、国家ぐるみのブラック労働は合法的に粉砕いたします〜
三日後の朝。
ルチア・フォン・クライスは、湖畔の別荘の玄関先に整然と並べられた荷物を見て、満足げに小さく息を吐いた。
といっても、その量は公爵令嬢の長距離の引っ越しとは思えないほど少ない。
数着の機能的で質の良いドレス、最高級の茶葉のストック、大量の魔導筆とインク、参照用の分厚い王国法令集、そして前世の記憶を頼りに独自に書き起こした『訴訟戦略ノート』。
最後に最も重要な――王太子ユリウスから合法的にむしり取った慰謝料(一時金)の小切手を収めた、堅牢な小型金庫。
(完璧ね。最低限の装備で最大限の利益を生む。これぞプロフェッショナルの流儀よ)
「お嬢様、本当にお一人でよろしいのですか……?」
見送りに付き添った専属侍女のエマが、心細そうに眉を八の字に下げている。
ルチアは純白のシルクの手袋の皺を優雅に整えながら、静かに頷いた。
「一人ではないわ。雇用主が自ら迎えを寄越すのでしょう?」
「それはそうですが、よりによって赴任先が魔王領ですし……あの恐ろしい魔王様ですし……!」
「契約上、私の身の安全と快適な労働環境は全面保証されているもの」
「契約上、というのは少し怖い言い方でございます……」
「大丈夫よ。この世で本当に怖いのは、感情論で動いて『契約を軽視する馬鹿』であって、損得勘定で『契約の重みを理解している相手』ではないわ」
エマは納得したような、していないような、それでも主人の決してブレない強さに少しだけ救われた顔で黙り込んだ。
やがて、別荘前の静かな石畳に、地響きのような重厚な車輪の音が響く。
現れたのは、漆黒の車体に銀の紋章(魔王家の家紋)を刻んだ大型馬車だった。
だがそれは、王都の貴族が見栄を張るために使うような、過剰な金細工で飾られた悪趣味な代物とはまるで違う。装飾は極限まで削ぎ落とされ、かわりに軍用装甲車のような堅牢さと機能性が前面に出ている。
馬もまた普通ではなく、闇色のたてがみと血のように赤い瞳を持つ、筋骨隆々の『魔馬』が四頭、寸分の乱れなく並んでいた。
馬車の重い扉が開く。
中から降りてきたのは、黒衣の従者ではない。漆黒の軍服風の正装に身を包んだ、魔王レオンハルト本人だった。
「……雇用主殿が直々に送迎ですの?」
ルチアが少しだけ眉を上げると、レオンハルトは平然と答えた。
「初出勤初日に、道中で下らない事故があっては困る」
「私の安全保証、徹底していらっしゃるのね」
「超高額報酬を払うVIP人材は、丁重に扱う主義だ」
「結構ですわ。待遇が良いに越したことはありませんもの」
(それ以上に、一刻も早くこの案件(火消し)に着手させたいのね。国のトップが自ら運転手代わりに動くなんて、よほど切羽詰まっていると見えるわ)
ルチアは内心で、魔王領の台所事情をシビアに評価した。
簡単な見送りを終え、荷物が積み込まれる。
エマは最後まで名残惜しそうだったが、ルチアが乗り込む直前にぐっと拳を握って言った。
「お嬢様、もしあちらで何か理不尽なことがございましたら、いつでも呼んでくださいませ! 飛んでまいります!」
「ありがとう。もっとも、貴女を呼ぶ前に、たいていの理不尽は私が法的に消し炭にすると思うけれど」
「それはそれで、少しだけ相手(魔族)の方が気の毒でございます……」
「あら、私はいつだって『正当防衛』よ」
ルチアはフフッと完璧な淑女の笑みをこぼし、そのまま馬車へ乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
車内は、想像以上に快適――というより、完全に『実務仕様』だった。
深い色の極上の革張りの座席。揺れを完全に吸収する魔術が付与された固定式の書類机。インク壺や茶器を載せても一滴もこぼれない設計の小卓。側面に備えつけられた、引き出し付きの資料棚。
移動手段というより、これはもう『走る簡易執務室』だ。
窓には外からの視線を遮るマジックミラー加工が施され、内側からはうららかな春の景色がよく見えるが、外からは中の様子は一切窺えない。
「……悪くありませんわね」
「悪いと言われると困る。君が仕事しやすいように特注した」
「褒めていますのよ」
向かいに腰掛けたレオンハルトが、小さく目を細めた。
どうやら彼はこの馬車を、単なる送迎ではなく「移動中の数時間すら無駄にせず、即座に仕事を始めるための空間」として用意したらしい。
(超絶ホワイトな待遇だけど、仕事に関しては徹底した『成果主義』のワーカホリックってわけね。……嫌いじゃないわ)
実際、馬車が滑らかに動き出してすぐ、レオンハルトは側面の棚から分厚い書類束を取り出した。
黒革の重々しい表紙に、銀文字で『戦後通商協定関連資料・極秘』とある。
「もうタイムカードを切るおつもり?」
「移動時間は無駄にしたくない」
「大賛成ですわ」
ルチアは即座に一冊を受け取る。
紙質は最高級。資料の整理手順も悪くない。インデックス(目次)と色分けされた付箋まで丁寧についている。
(雇用主としての事務能力と情報整理力は、現時点ではかなり高評価だわ。現場の状況を把握していないポンコツ上司を持たなくて済んだのは幸いね)
「では、まず案件の全体像から入る」
レオンハルトが、低くよく通る声で言う。
「君には先日、魔石の不当な安値輸出条項について説明したな。あれが今回の主戦場だが、問題(地雷)はそれだけではない」
「でしょうね。不平等条約のセット販売なんて、悪徳商法の基本中の基本ですもの」
ルチアはパラパラと頁をめくる。
通商協定、労務補助覚書、宗教施設設置制限、越境監査規定、資源搬出手数料の押し付け……。
案の定、胃液が逆流しそうになる嫌な文字列(ブラック条項)がずらりと並んでいた。
「うわ……」
「どうした」
「まだ目次しか読んでいないのに、吐き気がしてきましたわ。これを作った人間の性格の悪さが透けて見えます」
「順調だな」
「褒められても困ります」
レオンハルトは小さく口元を動かした。
最近分かってきたが、この男は時折、本当に微量だけ、皮肉げに笑う。
「まず、戦後処理の前提から説明する」
彼は卓上へ一枚の広域地図を広げる。
人間国、世界最大の宗教国家である神聖帝国、そしてその間に位置するヴァルツェンベルク魔王領。
魔王領は豊かな資源に恵まれているが、地理的には大国に挟まれ、常に政治的干渉を受けやすい地政学的リスクを抱えていた。
「二十年前の大戦で、我が領は『敗北』していない」
「……はい?」
ルチアが顔を上げる。
「あれは敗戦国へのペナルティ条約ではありませんの?」
「人間国はそう喧伝しているが、実態は違う。実際には『相互消耗による痛み分けの停戦』だ」
「なのに、なぜこんな屈辱的で一方的な条件を呑んだのです?」
「それを説明する」
レオンハルトの声音が、わずかに低く、重くなる。
「停戦直後、我が魔王領は未曾有の飢饉と疫病に見舞われた。戦争で農地が荒れ果てたところに、数十年ぶりの大寒波が来た。さらに人間国の焦土作戦によって薬草の主要産地が焼かれ、治療資材が完全に枯渇したのだ」
「……そこへ、人間国が“人道的支援”を持ちかけた」
「そうだ」
ルチアは資料の背景説明を読む。
食糧支援、医療支援、交易の再開、そして和平の国際承認。
一見すると敗戦国への温かい救済に見える美しい文言の横に、『魔石の独占的優先供給義務』や『各種関税の免除制限条項』が毒針のように忍び込んでいる。
(……ひどい)
本当にひどい。
極限まで弱り切った相手に「生きるための条件」を突きつけ、その引き換えに数十年単位の『合法的搾取契約』を結ばせる。
前世で言えば、借金まみれで首を吊る寸前の人間に、法外な利息と一生ものの奴隷契約を押しつけるヤミ金の手口そのものだ。
「国際承認、というのは?」
「神聖帝国が、停戦監視を名目に介入していた。人間国は帝国に対し、“野蛮な魔王領が再び牙を剥かないことを保証するには、我々による徹底した『経済監督』が必要だ”と主張したのだ」
「つまり、搾取と略奪を『安全保障』と『平和維持』という綺麗事でコーティングしたのね」
「その通りだ」
ルチアはパタンと静かに頁を閉じた。
腹が立つ。
だがその怒りは、魔族への安っぽい同情や感情的なものではない。法という『公平であるべきツール』を悪用し、搾取を正当化している構造そのものへの、プロとしての強烈な嫌悪感だった。
◇ ◇ ◇
馬車は王都を離れ、やがて街道の景色はなだらかな丘陵と深い森へと変わっていく。
窓の外にはうららかな春の陽光が広がっているというのに、卓上の資料はどれもこれも、カビが生えるほど陰湿だった。
「次」
ルチアが短く要求する。
レオンハルトは別の束を差し出した。
『労務補助覚書』
「……嫌な予感しかいたしませんわね」
「正しい予感だ」
頁をめくった瞬間、ルチアの端整な眉間に深い皺が寄る。
「『魔族鉱夫および加工術者の優先派遣義務』……?」
「魔石の採掘と魔法付与加工に熟練した我が国の技術者を、人間国の指定施設へ一定期間『送る』取り決めだ」
「対価(賃金)は」
「最低賃金以下の低額固定だ」
「安全保障(労働環境)は」
「すべて人間国側の裁量に委ねられている」
「労災補償は?」
「曖昧だ。事実上ないに等しい」
「帰還拒否や、不当拘束時の対応マニュアルは」
「規定なし」
ルチアは資料を机に置いた。
置いたというより、軽蔑を込めて少しだけ投げ捨てた。
「お話になりませんわ、これ。ただの合法的な『奴隷制度(ブラック労働)』じゃないの。前世の言葉で言えば、技能実習生制度の最悪な悪用パターンそのものよ」
「知っている」
「知っているなら、なぜ二十年も放置したのですか」
「代替手段がなかったからだ」
そこで初めて、レオンハルトの平坦な声に、わずかな硬さと苦渋が滲んだ。
ルチアは顔を上げる。
彼は窓の外を見ていた。
赤い瞳の奥にあるのは、他国への怒りだけではない。自国の民を護るために、不条理な契約に屈し続けなければならなかった長く重い無力への、血を吐くような苛立ちだ。
「食糧の輸入を止められれば、民が餓死する。薬を止められれば、病人が死ぬ。魔石の輸出を拒めば、莫大な違約金でさらに国庫が縛られる。人材派遣を断れば、今度は『治安上の脅威』として帝国が聖戦をチラつかせて騒ぎ立てる」
「典型的な『依存固定型』の不当契約ね。生かさず殺さず、永遠に搾取し続けるためのシステム」
「そう呼ぶのか」
「前世……いえ、私の知る法理でも、似たような悪質な構図は腐るほどありましたわ」
ルチアは、シルクの手袋に包まれた指先で、覚書の文面をトントンと叩く。
「最初に相手を極限まで弱らせる。次に助けるふりをして、一方的な条件を飲ませる。最後に、その条件でしか生きられない『構造』を作る。卑劣極まりないですけれど、悪党としてはとても実務的でクレバーなやり口ですわね」
「実務的、か」
「褒めていません。むしろ軽蔑しています」
「分かっている」
短いやり取りのあと、馬車内に重い沈黙が落ちる。
精巧な車輪の音だけが、一定のリズムで揺れを刻んでいた。
ルチアは再び資料へ視線を落とす。
労務補助覚書の末尾には、実際に人間国へ派遣された魔族の人数と『帰還率』のデータが記されていた。
その異常な数字に、彼女の目が止まる。
「……帰還率が低すぎますわね。毎年一定数が戻ってきていない」
「事故死、過労による病死、失踪、そして『契約延長』だ」
「契約延長?」
「向こうの施設に残ることを、本人の自由意思で選択したとされている」
「本気で言っていますの? パスポート代わりの身分証を取り上げられて、借金で縛り付けられているのがオチでしょうに」
「報告書にはそう書いてある」
「その報告書を書いたのは」
「人間国側の労働監督官だ」
「ふざけていますわね。全面却下です」
ピシャリと氷のように言い切ってから、ルチアは深く息を吸った。
もう、「可哀想」という同情では済まない。
これは法と制度の顔をした明らかな人権侵害であり、しかも継続的に他国の有能な人材を吸い上げる最悪の構造だ。
「雇用主殿」
「何だ」
「私は、人間国が好きではありません。建前ばかりで中身が腐っていますもの」
「奇遇だな。私もだ」
「ですが今のは、好き嫌いの問題ではありませんわ」
「……」
「法律違反(ブラック労働)は、絶対に許せません」
その断固たる一言に、レオンハルトがゆっくりと視線を戻す。
彼は何も言わない。
ただ、その紅い瞳の奥で、確かな熱のようなものが静かに動いたのが分かった。
「この覚書、通商協定、補助規定。全部まとめて、構造的に法理で崩します」
ルチアは、プロフェッショナルの顔で淡々と告げた。
「条項の一部無効化、解釈による制限、安全確保を理由とした履行停止、不当な価格改定の要求、未払分および違法労働への遡及請求。取れる法的手段は全て取ります」
「頼もしいな」
「勘違いなさらないでくださいませ。私は魔族の皆さんに同情して動くのではありませんわよ」
「ほう」
「不当契約と、違法な運用を平然と行う『法の敵』が嫌いなだけです。徹底的に、合法的にボコボコにして、むしり取ってやりますわ」
レオンハルトは、そこで本当に少しだけ、面白そうに笑った。
「それで十分だ」
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎた頃、馬車は厳重な国境検問を越えた。
人間国側の街道はよく整備され、花壇まであるほどだったが、境を越えて魔王領に入った途端、景色の色が変わる。
荒れ果てているというほどではない。だが、明らかに『手入れの行き届き方』が違った。
道幅は狭くなり、石橋の補修は遅れ、遠くに見える村々の屋根も古びて色褪せている。
窓からその光景を見たルチアは、無言で手元の資料の数字と、目の前の現実を照合した。
「……深刻な予算不足が、景観に如実に出ていますわね」
「鋭いな」
「鋭くなくても分かりますわ。真っ先に公共補修費(インフラ予算)が削られている」
「魔石輸出の不当な価格負担と、理不尽な違約金の支払いで、長年そこが削られてきたからな」
「学校(教育インフラ)は?」
「あるが少ない。指導者も不足している」
「診療所(医療インフラ)は?」
「都市部以外は手薄だ」
「食糧事情は」
「平年ならなんとか持つ。だが、大雨や凶作が来ると一気に脆くなる」
淡々とした返答。
だが、その一つ一つが、国家としての体力を奪われているという重い事実だった。
ルチアは黙って窓を見続ける。
街道脇を歩く魔族の親子が見えた。
頭に小さな角のある男、灰色の肌をした女、手をつないだ愛らしい子供。服は清潔に洗われているが、あちこちが擦り切れている。
村外れでは、若い魔族たちが重い荷車に積まれた鉱石を泥まみれになって運んでいた。働いている。ちゃんと生きている。だが、決して豊かではない。
(搾取された国の景色だわ……)
ルチアは胸の内でそう結論づけた。
国が完全に崩壊してはいない。領民が飢え死にもしていない。
だからこそ、外(人間国)から見れば「魔王領は問題なく回っている」と誤魔化される。
けれど、二十年間じわじわと血(富)を抜かれ続けた結果の『慢性的な貧しさ』は、こういう色になるのだ。
「見ての通りだ」
レオンハルトが、低く絞り出すように言う。
「我が領は滅んではいない。だが、豊かになる機会(未来)を長く奪われてきた」
「だから、武力で奪い返すのではなく、契約で『合法的に』取り返したいのですね」
「ああ」
ルチアはそこでようやく彼を見た。
この男は、冷酷なのだろう。
情を切って合理性に徹するタイプであることは間違いない。
だがそれは、民を数字のコマとしか見ていない冷酷さではない。
『護るべき民』がいるからこそ、無謀な戦争を避け、己の屈辱を殺して、損失を最小限にする方法を選び続けてきた者の、深く静かな冷たさだ。
少しだけ、彼に対する見方が変わる。
(この人は、良いトップ(経営者)ね。少なくとも、己の感情と見栄だけで動く人間国の王太子より何百倍も)
「一つ確認を」
「何だ」
「もし私が『法でひっくり返せる』と判断した場合、どこまでやって構いませんの?」
「どこまで、とは」
「人間国の外交官を公開の場で論破して追い返す(現状維持)だけで済む案件か。それとも、裏帳簿まで引きずり出して、過去の違法行為の『損害賠償請求』まで完全に通す(逆襲する)案件か、という意味です」
「後者でいい」
「遠慮は?」
「一切不要だ」
「上限は?」
「我が国の奪われた利益がすべて戻るまで、ない」
「……素晴らしい」
ルチアの声に、隠しきれない熱が混じる。
もう完全に『仕事』の顔だ。
「では、まずは現行条約の無効・修正論から入り、その過程で相手方の運用違反を徹底的に掘り返します。密輸、価格操作、代金未払い、派遣労働者の不当拘束。このあたりの客観的証拠が出れば、こちらは一気に『被害者』から『請求者』へ回れますわ」
「期待している」
「それと」
ルチアは資料をめくりながら、矢継ぎ早に要求を出す。
「対外窓口になる優秀な人材の選定も必要です。私一人で勝てる案件ではありませんわ。数字(会計)に強い者、現場の記録を正確に読める者、外交慣行の裏を知る者。少なくとも三系統の補助人員が要ります」
「既に候補は選別してある」
「手際が良いですわね」
「雇った顧問がうるさいから、事前に準備した」
「当然ですわ。スピード感はビジネスの命ですもの」
また少しだけ、レオンハルトが満足げに笑った。
◇ ◇ ◇
夕刻が近づく頃。
馬車の窓の遠方に、黒い巨大な城郭が見え始めた。
険しい山肌に沿うように築かれた、堅牢な城塞。
尖塔は鋭く天を突き、石壁は夜の色を吸い込んだように重厚だ。いかにも魔王城らしい威容だが、不思議と下品な威圧感や悪趣味な装飾はない。
むしろ、実務と防衛機能のみを追求して積み上げられた、機能美に近い印象だった。
「あれが魔王城ですのね」
「そうだ」
「悪くありませんわね」
「褒めているのか」
「ええ。仕事場としては高評価です」
ルチアは窓の外を見つめたまま、静かに言う。
「雇用主殿」
「何だ」
「先ほどの村の件ですが」
「……」
「私は『可哀想だから助ける』というボランティア精神で仕事はしません」
「知っている。君は慰謝料(金)が好きだからな」
「ですが、違法に奪われている不当な利益を取り戻すのは、きわめて合理的です」
「ああ」
「なので、人間国は法的に完全に粉砕します。覚悟しておいてくださいませ」
あまりにも静かな宣言だった。
だが、その内容は苛烈を極めていた。
レオンハルトは数秒だけ黙り、それから腹の底から響くような声で低く答えた。
「……頼もしい専属弁護士だ」
「ええ。超高額な報酬を頂いておりますもの」
「報酬以上の働きを期待している」
「条約を無効化した場合の『追加報酬条項』は有効でしたわよね?」
「もちろんだ」
「では安心ですわ。国庫を空にしないよう、せいぜい節約しておくことですわね」
馬車は重厚な城門へ向かって進んでいく。
魔王領の空は、人間国のそれと同じ夕焼け色なのに、なぜか少しだけ濃く、美しく見えた。
ルチア・フォン・クライスは膝の上の資料をパタンと閉じる。
慰謝料で隠居してスローライフを送るはずだった人生は、気づけば魔王領専属法務顧問として『国家規模のブラック条約』を叩き潰す方向へ全力で走り始めていた。
だが、不思議と悪い気はしない。
むしろ胸の奥では、前世から引きずっている実務家の血が、冷たく、鮮やかに沸き立っていた。
次に会うのは、自分を疑う魔族の幹部たちだろう。
「人間の小娘に何ができる」と、そういう値踏みする目で見てくるに違いない。
(結構。言葉で分からない相手には、圧倒的な『結果』で理解させて差し上げるわ)
やがて馬車は、巨大な魔王城の門の前で、ゆっくりと速度を落とした。
最強のリーガル・ウェポンによる、異世界での反撃がいよいよ幕を開ける。




