あの日弟になった少年2
ざわめきの中、私は一歩前に出た。
「そんなわけありません。トワが盗むなんて――」
声を張り上げた、その瞬間。
「ティアナ様」
背後から、静かな声が私を呼び止めた。
振り返ると、トワがいつもの無表情のまま立っている。
「問題ありません」
淡々と、事実を述べるように言った。
「疑われる理由があるなら、受け入れます。
騒ぎを大きくする必要はありません」
まるで自分のことではないかのような口調。
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……どうしてそんな言い方をするの」
思わず、強い声が出た。
「あなたがやっていないなら、黙って受け入れる理由なんてないでしょう!」
周囲が静まり返る。
普段、感情を荒らげることのない私の声に、
大人たちも、子どもたちも息を呑んだ。
その中で――
トワだけが、明らかに動揺していた。
「……なぜ、怒るのですか」
わずかに見開かれた瞳。
ほんの小さな、けれど確かな揺らぎ。
「私は、困っていません」
「困ってなくても!」
言葉を遮るように叫ぶ。
「傷つけられていい理由にはならない!」
トワは言葉を失っていた。
自分のために声を荒げる人間を、
彼はこれまで一度も見たことがなかったように
責められても、奪われても、
ただ静かに受け入れるしかなかった、
そんな彼の感情が初めて揺れた瞬間だった。
ざわめきが再び広がり始めた、その時だった。
私がもう一度前に出ようとした瞬間――
きゅ、と。
小さな力が、私の手を掴んだ。
「……待ってください」
驚いて振り返る。
トワだった。
細い指が、確かに私の手を握っている。
これまで一度も、彼のほうから触れてきたことなどなかったのに。
「トワ……?」
視線を落とすと、彼は俯いたまま、唇を強く噛みしめていた。
すぐに離してしまいそうなほど弱い力。
それでも、離そうとはしなかった。
「……大丈夫です」
けれど、その声はいつもよりわずかに震えている。
「ティアナ様が、そんなふうに怒る必要はありません」
私は何も言えなかった。
トワはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、相変わらず感情らしい色は薄い。
けれど――そこには、はっきりと“迷い”があった。
「私は……」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「私は、どうでもいいと……思っていました」
周囲の視線など、彼の耳には入っていないようだった。
「疑われても、責められても。
そういうものだと、そう処理すればいいと」
“処理”。
子どもの口から出るには、あまりにも冷たい言葉。
それでも彼は、続けた。
「でも……」
握る手に、わずかに力がこもる。
「あなたが怒ったのを見て、わからなくなりました」
初めて、感情に近い揺らぎが声に滲む。
「なぜ胸が苦しいのかも、
なぜ離したくないのかも、説明できません」
一度、息を吸い。
そして――自分の意思で、言った。
一度、息を吸い。
そして――自分の意思で、言った。
「だけど……これだけは言えます」
小さな手が、私の指を強く握り直す。
「僕は、ブローチを取ったりしていません」
はっきりと。
逃げるようでも、諦めたようでもない声だった。
それは初めて、
誰かに言わされた言葉ではなく――
自分の意思で選び、口にした言葉。
ざわめきが、ぴたりと止まった。
まっすぐ前を見据え、
世界に対して初めて「違う」と告げていた。
――ああ、この子は今、変わろうとしている。
感情を持たないまま生きる子どもが、
初めて“自分を守る言葉”を手に入れた瞬間だった。
ユウリが、一歩前に出た。
「では――事実を確認いたしましょうか」
穏やかな声だった。
だがその一言で、場のざわめきは不思議と静まった。
「まず前提として」
手袋をはめた指で、静かに周囲を示す。
「ブローチが紛失したと騒ぎになったのは、つい先ほど。
その時点で、この場にいたのは――こちらの皆様です」
視線が、子どもたち一人ひとりをなぞる。
「トワ様は、先ほどまで私と書庫におりました。
戻ってこられたのは、騒ぎが起きた直後です」
周囲が、ざわりと息を呑んだ。
「つまり、盗難が起きたとされる時間帯、
トワ様がその場にいなかったことになります」
「……っ」
誰かが言葉を失う音がした。
ユウリは表情を変えないまま、続ける。
「次に――紛失したとされるブローチですが」
そう言って、掌の上にそれを示す。
「こちらで、お間違いありませんね?」
「な、なんで……!
どうして、あなたがそれを……!」
少年が声を荒らげる。
「確かに……確かに、ポケットに入れたはずなのに……!」
はっとして、少年は口を押さえた。
ユウリは静かに視線を向ける。
「挙動があまりにも不自然でしたので。
トワ様の衣服に忍ばせた直後、後ろから回収いたしました」
淡々とした声が、容赦なく事実を積み上げていく。
「ご自身のポケットに入れていた物を“盗まれた”と騒ぎ、
混乱に乗じて他者に罪を着せる――」
「幼いながら、よく考えた自作自演です」
「ち、違う……!」
少年の叫びが、空しく響く。
その瞬間。
場は、完全な静寂に包まれた。
ユウリは一度だけ視線を伏せ、淡々と告げる。
「――以上が、事実でございます」
そして最後に、静かにトワへと視線を向けた。
「疑いは、晴れました」
トワはしばらく、その場から動かなかった。
やがて――
そっと、私の袖を握る。
ほんのわずかな力。




