あの日弟になった少年1
夕暮れの図書館。
高い窓から差し込む橙色の光が、本棚の影を長く床に落としている。
静まり返った空間に、紙をめくる音だけが微かに響いていた。
――あ、あそこにいるのは。
「トワ」
声をかけると、机に向かっていた少年が顔を上げる。
「あ、お姉様」
柔らかく、少し照れたように微笑む。
「勉強熱心ね」
「いえ。レオと相談して、孤児院のボランティアを今後も続けられるように、できることをまとめているんです。書類にしようと思って」
「さすがね。レオからも聞いたわ」
机の上には、丁寧に書き込まれた紙が何枚も並んでいる。
「できたら、見せてね」
「はい」
素直な返事に、自然と頬が緩む。
「それと……ボランティアの手伝い、ありがとう」
「いえ……」
少しだけ視線を泳がせてから、トワは小さく息を吸った。
「色々ありましたね…」
そう前置きし、こちらを見上げるトワに声をかける。
「トワは、大丈夫だった?」
「はい。僕は大丈夫です」
けれどすぐ、今度は心配そうに眉を下げた。
「それより……お姉様は、大丈夫ですか?」
揺れる瞳には、年齢以上の思慮深さが滲んでいた。
「平気よ」
そう答えると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。
「……よかった」
私は椅子を引き、彼の隣を示す。
「ねえ。私も隣で仕事しててもいい?」
一瞬きょとんとしたあと――
「はい!」
ぱっと表情が明るくなる。
夕暮れ色の光の中、並んで机に向かう二人。
羽ペンの擦れる音と、紙をめくる小さな気配が、静かな図書館に溶けていった。
昼の喧騒も、不安も、争いも。
今はすべて、遠くにあるような――穏やかな時間だった。
隣に並んで座るトワを見ながら、
私はふと、彼との出会いを思い出していた。
――随分、馴染んできたな。
そう感じられるほどには、彼はこの場所に溶け込んでいる。
◇
2年前。
トワは、まだ8歳だった。
父・アドルフの遠縁にあたる親戚の息子。
両親を不慮の事故で亡くし、身寄りを失った子ども。
そう説明されたけれど――
彼は泣いていなかった。
怯えも、混乱もなく、
ただ静かに、周囲を観察するような視線だけを持っていた。
父は冷淡で、
母も兄のマルクも、彼に特別な関心を示さなかった。
まるで最初から“いないもの”として扱うように。
だから私は、声をかけた。
「私、ティアナ・ラピスラズリよ。よろしくね。
今日からお姉さんになるから、何でも頼って」
そう言った私を、トワはじっと見つめた。
感情の読めない瞳で。
「……いえ。お構いなく」
拒絶というより、
必要性を感じていないような声音だった。
それから何度話しかけても、
返ってくる言葉は短く、淡々としていた。
悲しんでいるようにも、
怒っているようにも見えない。
――まるで、人の感情というものを知らないみたいだった。
それでも。
それでも私は、放っておくことができなかった。
あの子がここに「いていい」のだと、
誰かが伝えなければならない気がしたから。
その後も、私は諦めなかった。
「散歩しよう」
「川に行こう」
「花を見に行こう」
「クッキー、焼いたの。一緒に食べない?」
思いつくままに声をかけ続けた。
あまりのしつこさに、ついにトワは観念したように小さく息を吐く。
「……わかりましたから」
呆れと諦めが混じったその声に、私は思わず笑ってしまった。
それから私は、次々と周囲を巻き込んでいった。
レオには一緒にお弁当を作ってもらい、庭で並んで食べた。
ルイにはトワのためにオーダメイドの服を仕立ててもらい、
ユウリには基礎学問や礼儀作法を教えてもらった。
アリスにはトワの身の回りのお世話も手伝ってもらった。
セナには剣の持ち方を――まだ子ども用の木剣で――教えてもらい、
その少し離れた場所では、テオが気まぐれのように、その様子を眺めていた。
私は、皆を巻き込みながら、
トワを少しずつ“外の世界”へ連れ出していった。
最初は無表情で、必要最低限の言葉しか発さなかった彼も、
次第に逃げなくなり、
黙ったままでも、私の隣を歩くようになった。
それだけで――
十分すぎる変化だった。
穏やかな日々が続く中で、事件は起きた。
トワが、他の貴族の子どものブローチを盗んだ――
そんな疑いをかけられたのだ。
ざわつく声の中で、私はすぐに気づいた。
トワの少し後ろで、
口元を歪め、ほくそ笑んでいる子どもがいる。
――ああ、そういうことか。
年齢のわりに落ち着きすぎている態度。
大人びた物言い。
感情を表に出さないその様子が、気に入らなかったのだろう。
ただの嫉妬と、幼い悪意。
けれど、当のトワは――
疑いの視線を向けられても、声を荒げることもなく、
弁解すらせず、ただ静かに立っていた。
怯えも、怒りも、悔しさもない。
まるで、自分に向けられた非難が
最初から“関係のない出来事”であるかのように。
その姿を見て、胸の奥がひどく痛んだ。
傷ついていないのではない。
――傷つくという感情そのものを、まだ知らないのだと。




