第三十二話:炎の子
夜の風が吹き、アスイェの薔薇が揺れていた。
今夜の月は明るく、セラフィナは自分のマントをしっかり着ていた。
顔を上げると、アスイェは廊下の奥に立っていた。
彼はセラフィナを促すことなく、ゆっくりと彼女に近づき、見つめた。
「靴紐はしっかり結んだか?」
「うん!」
「武器は?」
「はーい」
アスイェは頷き、 セラフィナを連れて階段を降りた。
通りは少し濡れていて、灯りも暗く、
セラフィナはアスイェを見た。
彼女はいつも、この長い階段を降りていくアスイェの背中を見つめていた。
自分の足でこの階段を降りるのは、これが初めてだった。
アスイェに連れられて、アスイェの書斎を通り、庭を抜け、屋敷の扉に辿り着いた。
「いつも、夜は外に出してくれないのに」
「お前は怖がっていたからな……今夜は散歩だけだ」
「散歩?セラを連れて?」
「お前は成長したからだ」
セラフィナは小さく「うん」と答えた。
二人は森に入った。
森は静かで、虫の鳴き声すらなかった。
ただ、二人の足音が響いた。何回か蟲の殻を踏んだと思ったが、その違和感も小さく、すぐに忘れてしまった。
二人は足を止めた。
セラフィナはなんとなく、ここが彼のよく立ち止まる場所だと感じた。
「……お前もここに来たことがある」
「セラ、覚えてないよ」
「あの夜は、お前が外に逃げ出して、風に当たって、そのまま熱を出した。俺が見つけた時、お前はよく泣いていた」
「セラはなんで外に逃げ出したの?」
「お前は外の色を見たいと言った」
「そうなの?」
「今見ただろう?あまり面白いものではない」
森で微かな音がした。
風の音だった。
木の影が揺れているだけのはずだったが、セラフィナは焦げた匂いを感じた。
風が森の奥から運んできた焦げた匂いには、薔薇の香りも混じっていた。
アスイェは足を止めた。
少女はそのそばで、息を殺した。
「匂いが……」
「わかるのか」
「蟲がいる?」
「そうだ。匂いでわかるなら、お前が炙り出せるはずだ」
そのあとの言葉はなかった。
彼の目つきは静かで、歪みのない事実を語っているようだった。
少女は一度息を吸い、足に力を入れ、森の奥へと踏み込んだ。
背後からは足音がなかったが、彼女は知っていた。アスイェが自分の後ろにいる。
ただ、この森も、薔薇を食べていた蟲も、自分に任されているのだと感じていた。
蟲はすぐ近くにいる。セラフィナはわかっている。
彼女の目が段々赤くなっていて、指先は熱く、まるで小さな炎を宿しているようだった。
セラフィナにはすべてが聞こえていた。
夜風の音、炎が燃える音、蟲の音……
これらすべての音は、夢の中で聞こえていた囁きとは違い、確かな『音』だった。
少女はしっかり立ち、武器に手をかけ、戦う姿勢を取った。
相手を探り、判断する。叫ぶな、よく見ろ。
叫ぶのは獣のすることだ。お前は吸血鬼だ、獣ではない――
アスイェが教えてくれた言葉だった。
蟲が襲いかかってきたとき、少女は怖くなかった。
薔薇はまだ燃えていないが、少女には炎の赤い光が見えた。
セラフィナは顔を上げ、夜空を見た。
——今夜は月を見えない。真っ黒な夜空だけが広がっていた。
彼女は動き出した。
炎が引いたとき、森は当たり前のように焦げていた。
彼女は炎の中に立ち、その姿は小さく、まるで呑み込まれそうだった。
少女の目はまだ赤く、爪は伸びているまま、牙も収まっていなかった。
だが、アスイェはそのまま彼女の手を取った。
何も言わず、目はまっすぐ前を見ていた。
「帰ろう」
顔を伏せている少女を一瞥して、そう告げた。
セラフィナの手は非常に熱く、まるで熱を帯びた鉄のようだったが、アスイェは気にしていなかった。
セラフィナは顔を伏せたまま、彼についていった。
戦いが終わったが、警戒が解けていなかった。
その爪がアスイェの掌に刺さり、彼女は手を離したかったが、アスイェはそのまま彼女の手を握っていた。
「離して」
「どうした?」
「アスイェの手、血が出ている」
「何をそんなに緊張している?」
二人はもう屋敷に着いた。
足を止めて、問いかけた。
「また襲ってくるかもしれない」
「もう襲ってこない。それでも、セラフィナに近づけば殺されるのか。
なら、俺もセラに近づくことは許されないということか」
「……そんなことはない!」
「なら、このままでいろ」
セラフィナの赤い目はゆっくりと落ち着き、爪も少しずつ元に戻っていった。
「……セラを叱っていいよ……」
「なんでだ」
「火を放って、薔薇を燃やしたこと……」
「そうだ。火はもっと美しく放つべきだ。これからは火で真っ直ぐに線を引く方法を教える」
二人はそのまま屋敷に入ったが、セラフィナはすぐにアスイェから離れた。
今はアスイェの書斎の前に立っていた。
「入らないのか」
「ううん、一人になりたい」
セラフィナはそう言って、初めて書斎に入らなかった。
――扉が閉められた。
セラフィナはそのまま自分の部屋に戻るべきだったが、迷った末、そのままその扉の前に座り込んだ。
「入りたいなら入れ……」
アスイェの声は書斎の中から聞こえた。
セラフィナはその声に応えないつもりだったが、やがて少女は少しだけ、書斎の扉を開けた。
アスイェはいつものように手に本を持ち、座っていた。
「腹が減ったのか?」
「ううん、大丈夫」
「そろそろ食べろ。おいで」
アスイェは拒絶を好まない。セラフィナは知っている。彼の今の言葉には、拒む余地がなかった。
彼女はゆっくりと彼の指を噛んだ。
甘い血が喉を通り、セラフィナは完全に落ち着いた。
「もういいのか」
「うん。アスイェ、『シロップマシン』じゃないって言ってたから」
「俺は確かに『シロップマシン』じゃないが、火は消せる」
セラフィナはやっと笑って、朝がくる前に眠りに落ちた。
「……火の子を育てるのは大変だ」




