第1話 夜の街
夜の街を駆けていく――――頭の中を流れる軽快な音楽に身体を乗せながら。
秋の少し冷えた夜風は、汗ばんだ額をひんやりと撫でてゆく。
好きなJPOPがサビの部分に到達すると、ペダルを漕ぐ足が脇目も振らずに加速する。
人気がなくなった夜道は、周囲への注意が薄れて思った以上にスピードが乗る。
その度に、乾いた風が切るように体の後ろへ通り抜けるのが気持ちいい。
俺、宮田杏輔はいつも、自転車で塾から帰る。
ウォークマンは持っていない。イヤホンとかヘッドフォンとかは付けていない。なのに自然と頭の中で流れるJPOPのリズムに乗せて、シャカシャカとペダルを漕ぐ――――これが俺の習慣だ。
今日もこの静謐な夜道を、頭の中だけ賑やかにしながら颯爽と駆け抜けていく。
できるだけ信号のある交差点を通らないように、あえて遠回りをしてでもノンストップに漕ぎ続けることだけを考えて足を進めた。
特に初秋のこの季節は涼しさの快感がマックスに近くなるから、止まらずに漕げば漕ぐほどムードも相乗して加速するからである。
塾の勉強よりも、この帰り道を自転車で飛ばすことがメインになってしまっているのは言うまでもない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
夜の街を揺られながら進む――――父の車で。
僕はこの前、田舎から東京に移り住み始めた、秋月桐也。
辺りが薄暗くなり、立ち並ぶアパートの灯りが、ぽつぽつと浮いてくるように映る。
街灯がつき始めるほど暗くなった夜道は、僕を街に招いているようには見えなかった。
父は黙々と運転している。僕のことなど何も気にしていないように見えた。
新たな家に行くならば、せめて昼のうちに行きたかったものだ。
夜の暗さは、時に趣を引き立て、時に鬱憤を募らせる。
ネオンの灯りが星のようにバラついて光るこの街並みは、なんとも言えない綺麗さがあった。
ただ、車が前へ動く度に街灯の明かりが後ろに進み、視界がチカチカするのが何とも煩わしかった。
赤信号で、車が金木犀の樹と街灯の間に止まった。
明るみを探し、読んでいた本を照らして続きのページをめくる。
金木犀の香りは、まだ時期尚早と言ったところだ。
運転している父は依然として僕に興味を示さないまま、まっすぐ前を見ている。
街灯の煩わしさも父の無関心さへの不満も一向に溜まっていくだけだったから、本の世界にのめり込むしかなかった。
車のCDから流れている、どこかもの寂しいサックスの音色だけが、僕の心を落ち着かせるのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
塾の数学の授業中。
急に、教室内にサックスの音が響いた。
窓の外からだ。
駅前の塾だから、そういった迷惑な人が単独で楽器を演奏したりするのは分からなくもないが、あまりにも大きな音で、先生の解説も聞こえにくくなるくらいだった。
それも、俺がよく聴くJPOPと同じくらい、耳に残る音であった。
「うるさ」
先生が気だるそうに窓を閉める。
閉まってもなお、微かに反響しているような、頭の中を魅了しているかのような、変な感覚に陥った。
よく、コンサートとかで聞くようなオーケストラの響きとはまた違った波長をしていた。
「宮田君。聞いてる?」
「は、はい」
塾の先生に注意されてすぐに現実に戻ろうとする。
だが、妙に頭に残る音が脳の活動を邪魔して、ひたすら集中力を削ぐのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「はじめまして。新潟県から来ました。秋月桐也です。趣味は読書で、愛読書はこの『十字架の氷』です。大都会の東京にまだ慣れてないところがあるので、田舎者らしいところがあったらすみません。よろしくお願いします」
(す、すごい……かっこよくて、綺麗な転校生だ)
色白で透き通った肌に、整った顔立ち。度がそこまで強そうには見えない、インテリメガネ。
そして、駅で困っているおばあちゃんを助けていそうな、いかにも優しそうな表情。
一目見ただけで、彼の清潔さや凛々しさにピンときた。
言うまでもなく、私のどタイプだった。
何より、趣味の読書があまりにも似合いすぎている。
漫画の世界からそのまま飛び出してきたかのような、いかにも文学少年っぽい格好に、思わず口がぽかんと開く。
『十字架の氷』は聞いた事ないけれど。
長期休みの終わりと同時に二学期が始まり、私たちの中学校では初秋のこの時期に転校生が来る。
クラスメイトはみんな、夏休みを惜しむ一方で新たな仲間の転入に期待を膨らませていた。
特に私を含む女子は皆、転入生の美貌に見惚れていた。
「席は後ろの方に用意してあるから、入口側の、あそこに座ってね。|安良さんの隣かな」
「分かりました」
そう言って彼は、丁寧な歩き方で私の右隣の席にすっと座った。
緊張感が無いというか、余裕のあるような立ち振る舞いが何よりもかっこよかった。
窓側の席に座っている女子達からの強い視線を背後から受けている気がしたが、目の前の彼の姿に夢中で気にしている場合じゃなかった。
「あっ、安良小夜と申します。よろしく」
「こちらこそ」
落ち着いた優しい口調の彼を前に、さらに胸が高鳴る。
「わ、私で良いかは分からないけど、全然、なんでも聞いてね」
私の中では頑張っただろう、と思うほどの精一杯の気遣いに、彼は微笑んで小さく礼を返してくれた。
「丁寧にありがとう。安良小夜さんか……。由緒ある名前だね」
「ゆ、ゆいしょある……?」
名付けた親にも言われた記憶が無いほどに馴染みのない言葉で、一瞬日本語かどうかも分からなくなった。
「それってどういう?」
「素敵な意味を込められてて良いな、ってこと」
「えー。お母さんにも言われたことないよ。どうして?」
「平安時代に赤染衛門って人が詠んだ百人一首の歌に出てくる言葉が、名前に使われてるなあって」
「ほえー、知らなかった」
恥ずかしながら、自分の名前の由来を家族以外の他人から聞くことになるとは思ってもいなかった。
逆にそんなことまで知っている彼の博識に尊敬でしかなかった。
――――昼休み。
キラキラした一軍の男子や女子はどこかに行って、教室内は思ったより静かだった。
転校生の桐也君は居ない。きっと男子の興味に触れられて校庭にでも行っているのだろう。
そんな感じでキョロキョロしているところを、親友の大野麻衣に見られた。
「好きな子でも探してるのー? 小夜」
「ひぇっ! ち、違うよ!」




