終、西国の巫女
——懐かしい、西の香りがする。
北の大地で味わった、凍てつくような冬の匂いではない。まだ暦は秋の終わり頃だ。四季の美しい西の国には、実りの秋がある。西の秋は、仄かな甘い果実の香りがした。青年は、その匂いを覚えていた。
視界にぼんやりと映ったものは、見慣れない天井であった。茶色い染みの残った天井は古く、さほど綺麗ではない。それほど広い部屋の天井でもなく、あまり身分の高い人間の住まう場所ではないことが一目瞭然であった。
青年は、ゆっくりと腕を持ち上げる。腕をあげようという意思に従って、己の腕が持ち上がった。拳を握ろうと思えば、握ることもできる。どうやら長い夢の中とは異なり、実体のある存在に戻ったようだ。しかし、果たして、此処はどこだろう。
記憶は、北の大地で主を助けようと思って処刑場へと飛び出したところで、途絶えていた。人間の体では駄目だと何度も念じたところから、意識はない。全てが暗くなって、気付いたら長い夢の中にいた。今、自分のいる場所は夢か現実か。それさえ判別できない。
ゆっくりと起きあがると、夢にしてはあまりにも鮮明な光景が広がっていた。狭い部屋であった。木のベッドが一つ置かれ、他には机が一つあるのみだ。
(此処は……何処だ?)
見慣れない景色に辺りを見回していると、不意に、部屋の入り口である木戸が古びた音をたてて開いた。きぃ、という音の次に現れたのは、あまりにも見慣れた、懐かしい顔である。
「……ユタヤ!」
「……ロマーナ」
女の手から、銀のお盆とお盆の上に乗っていたカップが落下する。からん、がしゃん、という騒々しい音が響き渡るが、女は気にしない。ロマーナという女官長であり、ユタヤにとって姉のような存在であった。彼女は、寝台の上で起きあがったユタヤに真正面から飛びつくように抱きついた。
「嗚呼、良かった……良かった……っ! もう、もう、駄目かと……思った……!」
ロマーナの手が震えている。泣いているのか、と思いながらも、ユタヤは部屋を見回した。此処は何処だろう、という疑問は拭えないままである。ユタヤには、北の地で暴れ回ったところまでしか記憶がない。しかし、此処は北の国にいた頃寝泊まりしていたあの豪勢な皇宮の一室ではないようだし、そもそも此処にロマーナがいるのだから、北の国でさえなさそうだ。——今まで自分は夢でも見ていたのだろうか。本当は、まだ巫女選定の儀なんて行われていなくて、北の国まで攫われることもなくて、後宮で生温い時間を過ごしていたのではないか。——否、それにしてもこの部屋には見覚えがない。後宮にいた頃のユタヤの部屋とも、違う。
「俺は……どうしたんだ?」
自分に抱きついてくるロマーナを見下ろして、ぽつりと問う。すると、それに答えるようにロマーナは彼から離れた。そして手の甲で涙を拭うと、強い面持ちで、ユタヤの顔を覗き込んだ。
「貴方は、一度死んで、蘇ったのよ。「蘇生」の技という、巫女にも許されない高義な技を使って……ネイディーンが、貴方を蘇生してくれた」
「……一の君が」
「今はもう、一の君ではないわ。巫女に仕える世話役、ネイディーンよ。——貴方は、仗身の鏡です。その命を張って、巫女を護り、巫女を無事に西の国へとつれて帰りました。仗身の、鏡です」
「……」
ユタヤは何も答えることができずに、口を噤んだ。
まず、巫女は無事だったのか、と心から安堵した。しかし、例えユタヤが何かをしたのだとしても、彼にできたことはあそこにいた兵士を皆殺しにすることくらいなもので、この西の国まで彼女を連れて帰ったのは他の誰かの力によるものだろう。
それに、と思う。——それに、自分は、巫女のことを護ったわけではない。
巫女だから、西の国のために、仗身として、などという義務で、彼女を助けに走ったわけではなかった。全ては、私欲だ。彼女のことが大切だった。巫女であろうと聖女であろうとなんでもよかった。ただ、彼女のことが大切で、あまりにも愛おしくて、他の誰を殺してでも走らなくては、自分が壊れてしまうと思ったのだ。それだけのことであった。
(仗身の鏡なものか)
心の中で吐き捨てる。今は世話役とは言え、もともと一の君であった御仁に、わざわざ「蘇生」の技という聞いたこともない高尚な技を使ってもらったのだ。相当迷惑をかけたことだろう。たかが獣人の分際で、と思う。
ところで、と彼は部屋の中を見回した。狭い部屋であるが、西の国に帰ってきたというからには、西国の王宮の中の何処かなのだろう。それならば、何処かに彼女の姿があるはずだ。ところで、彼女はどこだろう。
「——かぐわの、君は?」
ユタヤはその愛おしい名前を、口に上らせた。夢の中ではずっと思い出せなかった名前だ。それでもその愛おしい気持ちだけは、忘れなかった。ユタヤにとって、他の誰より大切な人である。
「巫女君は、まもなく、儀式が始まるから今はいらっしゃらなくて——そうだ、私たちも儀式に参列しに行きましょう」
ぱちん、と思いついたように手を打って、立ち上がったのはロマーナだ。彼女はユタヤの手を引き「立てる?」と問うてくる。試しに足を使って立ってみると、あまり力こそ入れられないものの、歩行に支障をきたすほどではなかった。
「参列って……何の儀式だ?」
「新王への神の宣下。——すなわち、初めての巫女と王の謁見よ」
「……そんな神聖な場に、俺が参加してもいいのか?」
「ええ。宮廷からも、神殿からも、多くの人間が参列するわ。私も貴方のお守りがなければ参列するはずだったの。巫女君の側仕えである仗身の、貴方もね」
ロマーナは嬉しそうに笑って、「すぐに正装に着替えて」とはしゃいだ。確かに今ユタヤが着ているのは装衣と呼ばれる仗身の平服で、とても神聖な場に参列できるような服装ではない。
やがてロマーナがどこからともなく引っ張り出してきてくれた西国の正装服を着て、ロマーナもまたいつのまにやら正装に着替えてきていて、二人は急いで儀式へと足を運んだ。それは、神殿の中の大聖堂にて、行われた。
儀式は重々しく、しかしながら、開放的であった。
ロマーナの言った通り、神殿からも宮廷からも多くの人間が参加しているらしく、広大な神殿のはずなのに、人と人とがひしめきあっていた。
恐らく列の前の方にいるのが、国の重役だ。皇室の人間や、冷徹と呼ばれた国務参謀、そして内大臣等である。また、修道院をまとめる司教なども並んでいた。
ロマーナやユタヤなど、下働きに値する位の者達は、列の後ろの方へと並ばされた。当然のことであり、それに文句など一つもない。しかし、王と大司教の立つ祭壇があまりにも遠く、国を統べるのだという彼らの顔はほとんど見えなかった。弱冠二歳で即位せざるを得なかったという幼い新王の後ろには側近が付いている。本来なら、王一人で祭壇に立つのだろうが、これも致し方のないことなのだろう。
そして大司教の号令で儀式が始められ、ここに来て、ようやく巫女が登場した。
巫女は重々しい純白の装束を身に纏っており、また、黄金の簪をいくつも髪に差していた。輝く純白の装束は、袖も裾もひきずる。——まるで、天女のようだ。ユタヤは息を呑んだ。神々しくも、地上に君臨する。その姿は、天女だ。
天女は王の前で一礼すると、何百といる観衆の方を一瞥した。観衆は、何百といた。ユタヤはその中でも後ろの方に、紛れていた。当然天女と目のあうはずもない。
それなのに、天女は確かにユタヤのいる方を見て、一瞬目を見開き、動揺したような素振りをみせた。それは本当に一瞬のことであり、ユタヤやロマーナなど、彼女と付き合いの長い者にしかわからなかったであろう。だが、彼女は確かにユタヤに気が付いた。
とは言え、この重々しい儀式の中で彼の名を呼ぶことも、彼に近寄ることもできない巫女は、すぐに毅然とした巫女の態度を取り戻すと、神像に向かった。その態度にぶれはない。——これから、神の宣下が行われる。
——巫女君の、なんと美しいことか。
儀式の一部始終全て目を奪われっぱなしであったユタヤは、終わっても尚、感嘆の息を吐いた。他の参列者も、「あれが巫女か」とその神々しさには息を呑んだはずであるが、彼ほど目を奪われていた者は他におるまい。
大聖堂の外に出ると、神殿の広い廊下にはぞろぞろ大勢の参列者たちが歩いていた。神殿の中の持ち場へ戻る者もいれば、神殿を出て宮廷に帰る者もいる。それぞれが儀式という非日常の中から帰って行く。
その中で、非日常から抜け出せないユタヤは、ロマーナとともに神殿の廊下をゆっくりと歩いていた。ロマーナが言う。
「本当に無事に帰って来られて、良かった……あのおてんば娘も、着飾れば見れたもので、巫女の貫禄たるや、いかがなものでしょう……本当に帰って来られて良かった」
ユタヤも大きく頷いた。
後宮にいた頃から、軽装ばかり纏ってそこら中を駆け巡り、転がり回っていた少女は、巫女には程遠い性格をしていた。だが、実際にはどうだろう。他のどの聖女にも引けを取らないであろう、巫女の貫禄である。——その姿は、まるで、天女のよう。
ユタヤは彼女が初めて自分の前に舞い降りたその時から、ずっとその虜だ。一度だって脇目をしたことはない。ずっと見つめてきた。
——その天女が、不意に舞い降りる。
ざわ、と突如神殿の廊下にどよめきが走った。後ろの方からそのどよめきは広がる。
なんだろうと思って振り返ると、大聖堂の裏側から、白い美しい装束を纏った少女が、飛び出してきたのが見えた。その神々しい姿のまま、神殿の広い廊下を駆け抜ける。つい先刻まで祭壇の上にいたはずのその少女を見て、誰も彼もが愕然としていた。日常の中へと、非日常の存在が飛び出して来たような、そんな感覚である。
少女は、何かしらを叫んだ。しかしその叫びは、どよめきにかき消されて聞こえはしなかった。それでもユタヤには、それが自分を呼ぶ声なのだとわかる。
一目その巫女の姿を近くで見ようと集まってくる観衆を押しのけて、ユタヤは少女の方へと足を踏み出した。少女も人ごみをかきわけて、こちらへと駆け寄ってくる。巫女の白装束はしかし裾が長く、ひきずる。走り難いであろうその格好にも関わらず、必死に両足を動かす少女はついにその裾を踏んで、転倒した。
——危ない、と、手を伸ばして、寸前のところですくいあげる。
わずかに屈んで少女を支えると、少女はこちらを見上げてその綺麗な瞳を潤ませた。きらきらと黒い瞳が輝いて見える。ああ、溢れる、と思って、ユタヤが少女の頬を拭おうとするが、それより先に少女の体が浮いた。否、飛んだと言った方が正しいか。少女は、自分より頭一つ大きいユタヤの体に飛び乗るようにして抱きついた。
突然の衝撃に後ろへひっくり返りそうになるが、そこは獣人である。一歩二歩、と後退したが、ひっくり返ることはなかった。ぎゅうと自分にしがみついてくる小さな少女を、両腕で支えて、抱える。彼女は全体重を乗せてくるが、決して重くはなかった。——まるで、天女のようだ。
「……ゆたや」
少女の声が、掠れていた。何度も何度も夢にまで聞いたその声が、青年の心を揺らす。
「貴方がいなくなったら……誰が私を、護るの」
その言葉が、心臓をえぐるくらいに、嬉しかった。そこはお前の場所だと言わんばかりに、彼の場所を提示してくれる。——そうか、自分は此処にいることを許されたのだ、と。
ユタヤは潰れそうになるくらいに彼女を強く腕の中に抱きしめて、その首筋に顔を埋めた。間違うことのない、少女の香りがする。噎せ返りそうなほど甘い、彼女の匂いがする。
「申し訳ございませんでした……。もう二度と、貴女の御側を離れません」
低い声でそっと彼女にだけ聞こえるように囁くと、少女が青年を抱きしめる腕にも力が篭った。それに答えるように、ますます青年は少女に顔をすりつけた。
仗身としては、失格なのだろうと思う。獣人にしては、あまりにも身に余ると思う。それはとんでもなく身分違いで、不毛だ。闇が太陽に恋をするくらい、叶わぬ想いである。
それでも——と、腕にこめる力は強い。獣人ごときが巫女と触れ合うその現場を見つめる目は冷ややかだ。理性があれば、巫女である彼女のためにも拒んで自分は後ろに控えるところであるが、今はそれもできない。
それでもずっと、側にいると、青年は誓った。彼女を護るのだと誓ったのは、あの森の中で行き倒れて、彼女に救われた時である。しかし、今度は少し違う。彼女を護るだけでなく、ずっと側にいる。生きて彼女を護るのだと、誓った。
青年の想いは深く、寛大で、どこまでも延々と続いてく。叶うわけのないことを知りながら、少女を想い続ける。
そしてこの先の未来は、まだ神さえも知らない。
——「西国の巫女」完