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1、聖女カグワ

 世界は何故創始されたのか。理由なく世界が始まったのだとしたら、その存在に意義はあるのか。今尚存続するこの世界に生まれた命に、意味はあるのか。我々が何故この世に生を受けたのか、理由はあるのだろうか。もし理由なくして生まれてきたのだとしたら、我々は理由のない生の中で、何かを成すべきなのであろうか。その中で、自分勝手な理由付けをして、生きながらえようとしてもいいのだろうか——。


 長々と世界と世界に生きる命に関する疑問を陳列させた古文書が読まれなくなり、何百年という月日が過ぎた。かつては貴人の教養であった書物は今では非生産な虚言と呼ばれ、一部の哲学者が研究の対象とするのみとなった。


 人心が、世界の起源を知りたいとは望まなくなり、数百年。絶対王政の布かれた西国エウリアは、繁栄を極めていた。しかし、第二十五代国王のトゥアイド・ギル四世の治世十二年の頃の秋、突如国王が逝去した。享年三十四歳、若すぎる死であった。不自然な急逝の知らせに、国中がざわめきだった。国政の重鎮のうちの誰かの謀策だったのではないかという様々な憶測も飛んだ。が、死人に口はなく、真相はわからず終いであった。

 エウリア君主国では第二十五代国王の急逝に伴い、大々的な葬儀が執り行われ、他国からも賓客が招かれることとなった。そしてその絢爛な儀式が終わると、次に待ち構えているのは次期国王の就任式であった。次帝になる権利を持った皇太子は、たったの二歳になったばかりであり、国政の如何のわかろうはずもなかった。宮廷では連日国会という名の騒動が開かれていた。


 また、国政とは直接関係こそないが、先帝の崩御によって混乱を生じている場所がもう一つあった。国の中央に置かれた王宮の西側、海に面した広大な土地に広がる俗世とは切り離された世界、「後宮」である。


 エウリアにおいての「後宮」とは、国王の妻の住む宮を表しているのではない。この国には、政治の最高権威である「国王」とは別に、宗教の最高権威である「巫女」という権力者がいた。巫女は最も神に近い存在と言われ、神の言葉を国民に代弁する高貴な存在であった。巫女は、国王の代替わりと共に代替わりをし、その時の王の治世を神の代替人として見守った。そして、時の王が倒れると、次の王の治世のために新たな巫女が選ばれる。その候補となる女たちを、聖女と呼んだ。その聖女たちが俗世から切り離され、いずれ巫女となる日のために修行する場所が、「後宮」である。

 聖女の中から選ばれた巫女が、最初に行う仕事は国王への宣下、そして次の代の巫女の候補となる聖女を国中から十人選ぶことであった。そして次の巫女は、その十人の中からただ一人選ばれる。その選定の儀は、国王でさえ見ることの適わない極秘裏の行事であった。

 民衆にとっては雲の上にも等しい後宮においての騒動を知る者は、数えられるほどしかいない。聖女たち自身、彼女たちに仕える従者たち、そして存在するともわからない神のみである。女たちは、自らが巫女に選ばれるために奔走しはじめていた。



 高く透き通った蒼穹の中に、小さな雲がぽっかりと浮かんでいる。上空では風速もないのか、ゆっくりと流れて行く様はのどかだ。視界の端に映る黄色の木の葉が、風の吹き抜ける度に揺れた。一陣の大きな風が通ると、白いワンピースのような薄い着物の裾がめくれあがり、木の葉が数枚枝を離れて舞った。あちらへひらり、こちらへひらり、と宙で迷った後、黄色のそれは少女の胸元に落ち着く。純白の衣装が汚れることも気にせずに、少女は木の葉を退けることもせずに、仰向けになって空を見上げていた。

 外を歩いただけでも汗ばむような真夏を越えて、ようやく秋の色が見え始めていた。冬にはまだ遠く、心地良い風が吹いている。本当は少し考え事をしようと散歩に出たはずだったのに、あまりにも心地良くて眠ってしまいそうだ。少女はゆっくり瞬きを繰り返してから、目を閉じた。

 外界から隔離された後宮の地は、ひょっとすると他とは違う時間の流れの中にあるのかもしれない。物心ついた頃からこの場所に住んでいる少女には、外と比較する術もないが、たまにそんなことを思う。

 己の瞼で視界を遮ると、一瞬、何も見えなくなる。太陽の光の効果で橙色一色に包まれるが、やがてそれも薄れる。精神を統一し、意識を未来へ向けて眠りに落ちると、時折現在より先の出来事を見ることがある。先見の技と呼ばれるこの能力は、巫女の修行で覚えさせられる技の一つであり、彼女はこれがあまり得意ではなかった。

 無言で目を閉じて、先見の技に力を注いでいるその時である。不意に彼女の第六感が何者かの気配を感じ取った。気感と呼ばれるこれも、巫女の技の一つである。目を閉じていても、ある程度の範囲で近くに誰かが来ると、それが誰であるかを言い当てることができる。少女は、これが得意であった。特に、この気配を間違えたことはない。

「……ゆたや?」

 小声でその名を呼ぶと、「御意」と低い答えが返って来た。少女は目を開く。日光が瞳に突き刺さり、目眩を引き起こす。彼女は目を細めると、光から逃げるように寝返りを打った。ころころと二回転すると、端に当たる。此処——四阿の屋根の上は彼女の昼寝専用の寝床であり、昔は寝ていて危うく落下しそうになったこともあったが、今となっては例え夢の中にあっても、感覚のみを頼りに寸前で踏みとどまれるまでになった。少女はうつ伏せになるとそこから身を乗り出して、下を覗きこむ。すると、憮然とした面持ちの男と、目が合った。

「毎度毎度、口を酸っぱくしておりますけれど……突然行方を眩ませるのはおやめ下さい」

 眉間に深く皺が寄っている。何か挟むことが出来るんじゃないかしら、と少女は思った。

「殿堂を出る時は、私かロマーナに一言くださらないと困ります、かぐわの君」

 少女——カグワは、首を竦めた。

 この広大な後宮の地に住まう十の聖女には、それぞれ一の君、二の君、と後宮入りした順番に番号が振られている。カグワというこの少女は、三番目に選定を受けたので、通例であれば三の君と呼ばれるはずであったが、本人がそれを厭うために、本名であるカグワと呼ばれることも少なくなかった。折角名前があるのだから、お互いにそれで呼び合った方が親しくなれるのではないかというのが彼女の主張である。しかしながら、最終的には巫女の座を競う相手にしかなり得ない聖女同士が親しくなる必要性などそもそもないというのが、他の聖女たちの解釈であった。

「でも、ゆたやは、いっつも私を探し当てるじゃない」

 カグワは欠伸まじりに言う。ユタヤという青年は眉をひそめ、四阿の屋根を片手で掴んでよじ登った。片腕の力のみで軽々と屋根の上まで自分の体を持ち上げることの出来る彼は、超人のようにも見えるが、実のところ人間ではない。

「今日のところはこの四阿にいらっしゃったからすぐに探し当てられたものの……常々私が、貴女を探して後宮中を走り回っていることを知らぬわけではありますまい」

 青年は乱れた祖末な服の裾を直しながら、渋い顔をする。黄ばんだ白の布一枚で作られたその服は、装衣とも草衣とも呼ばれ、彼ら仗身の平服であった。

「それに、今日くらい大人しくしたらどうです? 国王陛下が亡くなったというのに……」

 ユタヤの語尾が消えていく。国王トゥアイド・ギル四世逝去。——今朝方、唐突に後宮を駆け抜けた知らせは、静かな波乱を起こしつつあった。

 国王の死は、すなわち巫女の死も意味している。前の巫女がいなくなれば、次の巫女が選ばれるというのもまた慣例だ。聖女たちは、突然の知らせに心構えもままならず、それぞれ慄いていた。ただ一人、三の君を除いては。

「そうね……亡くなられたのね」

 三の君、カグワはゆっくりと起きあがると長い黒髪をかきあげる。巨木の影から空を見上げて、彼女は目を細めた。葉の合間から見えるのは、空気が澄んでいると肉眼でもわかるほどの晴天だ。

「……でも、こんなにいい天気なのよ。ひなたぼっこの一つでもしたいじゃない」

「ひなたぼっこならいつでも出来るでしょう……他の君々は、慌ただしくしておいでです」

「ま、何のために慌ただしくしてるの?」

「何って……選定の儀は、十日後に決定したそうですよ。それまでに巫力を高める修行の一つでもなさっているのでは?」

「巫力を高めるねぇ……。私たち、後宮にきてから十二年、そのための修行ばっかりやってきたわけじゃない? それをこれからの十日に詰め込んだところでぐんと伸びるとは思えないけど?」

 聖女たちが巫女の技を使いこなすために必要とする基礎能力のことを、巫力と呼ぶ。もともと彼女たちは、聖女に選ばれたからには人並み以上に巫力を持っていたということであり、これは修行によってさらに高まると言われていた。そして、巫女を選ぶ際の基準も、これの高低が大いに関係していると言われている。とは言え、どれもこれも単なる流言でしかない。実際のところは誰も知らないのだ。カグワは再び欠伸をこぼすと、眠い目を擦った。隣でユタヤはどこか不満気な顔をしている。

「それはそうでしょうけども、調整したりする必要はないのですか?」

「調整してどうにかなるようなものでもないでしょ。いくら練習したって、先見の夢なんかほとんど私、見たことないんだし」

「ですが、かぐわの君がたまに見る先見の夢は百発百中で当たります」

「まあ、そこそこね。出来るときは出来るし、出来ないときは出来ないものなのよ」

「だからこそ、調整が必要なのでは?」

「調整如何の問題じゃないと思うんだけど……だってほら、ネイディーンはきっと修行なんてしてないでしょう?」

「一の君は……そうですね、私がかぐわの君を探して走っていると、毎度大変ねと声をかけて下さいました」

 後半の厭味は聞こえなかったふりをして、「やっぱりね」とカグワは頷いた。

 一の君、ネイディーンは、国から聖女として選ばれた中でも随一の才能の持ち主であった。巫女の基本技の中に不得手な物などなく、佇まいも美しく、聡明で利発な女性である。

「ネイディーンは、調整とか、修行なんてしても無意味だってわかってるのよ」

「一の君の場合は、もうこれ以上高める必要がないというだけでは?」

「もしそうだとしたら、今更他の聖女が頑張ったって追いつけっこないじゃない」

「それでは選定の儀の意味がありません」

「最初から結果は見えてるってことだものね」

「そうですよ」

「でももし、巫力の高低で測るんだとしたら、ネイディーン以上の聖女はいないし……巫力が関係ないんだとしたら、今更修行してもやっぱり意味がないわ」

「意味がないことはないでしょう」

「そんなことよりも、巫女になるにしろならないにしろ、あと十日で後宮を追い出されることになるんだもの。今のうちにひなたぼっこしておかなくっちゃ」

 カグワは大きく伸びをすると、ころりと屋根の上に転がった。木漏れ日がきらきらと輝いて、まるで宝石のようだ。十二年慕ったこの光景にも、あと十日で別れを告げなくてはならないのだと思うと、切ない。王が死んだと言われるよりも、この慣れ親しんだ居心地の良い場所に二度と来られなくなるのだと思う方が、事は重大に思えた。

 カグワの隣に屈んでいたユタヤはしばらく苦い顔をしていたが、カグワに動く気がないことを知ると、諦めたようにその場にあぐらをかいた。ちらりとその仏頂面を見上げれば、彼は無言で腰の刀を抜いた。研磨する気なのだろう

「いいですよ。かぐわの君がその気なら、私もお付き合い致します。こうやってこの四阿の上で刀研ぎなんぞするのもこれが最後やもしれませんから」

「かもね。貴方いっつも此処にいる時、刀研いでるものね」

「かぐわの君が眠ってしまうので、他にやることがないんです」

「そうなの? 暇だったら何処か他行っててもいいのに」

「いいえ。貴女の隣にいるのが私の役目ですから」

 きっぱりと言い切って、ユタヤは背中に背負った太刀も屋根の上に下ろすと、刃を抜いて並べた。銀色の刃が二本、陽光を浴びてきらきらと輝いている。

 ユタヤの役職は仗身と呼ばれ、カグワ直属の護衛であった。聖女たちにはそれぞれ一人につき一人の仗身が付いており、そして必ずそれは獣人であることが決まっている。彼らは、一見人間と変わらぬ姿形をしているが、自在に獣の姿に変化することができた。その自由な変化を可能にしているのは、それぞれの聖女の巫力である。仗身である獣人は首から巨大な数珠玉を下げており、これに聖女の巫力が込められていた。これの力によって、彼らは獣の性を封印しているのである。

 カグワは、彼の首からぶらさがった質素な数珠玉に、なんとなく手を伸ばした。立ち上がった状態で彼の腰の高さまであるそれは、あぐらをかくと太ももの上に乗ってしまう。カグワは仰向けになったまま、鶏卵よりは小さいそれを手の中でころころと転がして、もてあそんだ。ユタヤは全く気にもせず、黙々と研磨材でまずは腰の直刀から磨き始める。無言のまま、風に木の葉のこすれ合う音だけが響きわたる。

 このようなカグワとユタヤの関係性は、他の聖女たちのそれと比べると、異様であった。仗身は、聖女の従者の中で最も位が低い。と言うのも、聖女の身に危険が生じた場合、仗身は命を張って主を守らなくてはならない。いざという時には命を落とす、捨て駒のような存在なのである。本来獣人は、成長とともに人の心を無くして獣になってしまうので、幼いうちに処分されることが世間一般では慣例であった。そのため、捨て駒にするには最適な存在だったのだろう。また、いかに獣の心を封印出来るかは聖女の腕にかかっているということもあり、巫力の鍛錬にもなった。だが、その元が畜生類であるため、自分の仗身とはある程度の距離を取りたがる聖女がほとんどであった。毛嫌いこそしないものの、例えば同じ部屋には置かない、会話は最低限に済ませる、一緒に食事は取らないなどの制限をしている。ところが、カグワとユタヤの場合は、始終隣に寄り添っているばかりか、仗身の身分であるユタヤが主に苦言を呈する始末である。今のようにカグワが一方的にユタヤにちょっかいを出しても、ユタヤが反応を寄越さないような状況など、他の聖女と仗身には到底あり得なかった。

「……眠い」

「寝たら良いではないですか」

 刀剣を研いでいる時のユタヤの返事は大抵素っ気ない。彼は、カグワの身を守るための剣なのだから丁寧に手入れするのが当然だと豪語するが、実際は細かい作業が好きなだけなのだろう。と、カグワは思っている。

「枕が欲しいな」

「寝殿に戻ればありますよ」

「面倒くさい」

「なら我慢して下さい」

「ゆたや、変化してよ」

「……今ですか?」

 ユタヤの、研磨材を握る手が止まった。

 獣人の獣の姿は各々によって異なるが、ユタヤの場合、胴体が巨大なほ乳類に似ているために、寝具に丁度良いのである。そのため、カグワは度々彼に封印を解くことをせがんだが、殿堂の奥にいる時以外は大概渋られた。

「今は、困ります」

「どうして?」

「どうしてって……此処は三の宮ではありませんよ。誰が通るともわからないのに」

「いいじゃない、誰が通ったって」

「……別に私は構いませんけどね。また東の君は、と貴女が言われるんです」

 獣人が変化を解いた姿は、凡人には正視し難いほど野蛮で恐ろしいらしく、見るのも嫌がる者も少なくなかった。実際、過去に何度もカグワは、危機的状況でもないのにユタヤを獣の姿にさせていたことで不平を言われている。「東の君」というのは、彼女のことを粗野だと非難した呼び名であった。

「別にいいわよ。東の君って呼び名、私は嫌いじゃないし」

「かぐわの君がよろしくても、私が嫌です」

「私は構いませんけどね、って言ったくせに。嘘つき」

「ではもうそういうことでいいです。私の姿のことでかぐわの君の評判が落ちるのは、私個人の見解として、我慢ならないのです。これでよろしいか?」

「よろしいか、ってなんなのよ。押し付けがましい……」

 そう言ってカグワは口を尖らせたものの、それ以上はせがまなかった。最初から、さほどの期待もしていなかった。ユタヤが小言を言うのは、何よりカグワのためを思ってのことだとカグワ自身知っている。その彼が自らカグワの評判を落としたがらないのはいつものことであった。——だが、カグワは彼の献身さをあまり好ましく思ってはいなかった。もっと自分は彼と対等にいたいのに、と思う。これも聖女の中では異様であった。

 再び、二人の間に沈黙が落ちた。秋の日差しがぽかぽかと体を暖めてくれる。眠気が再びカグワを襲い、全身から力が抜けて行く。瞼が重たくなり、ゆっくりと眠りの世界へと落ちようとしていると、不意に、近付いてくる誰かの気配に気付いた。敵意のあるものではない。よく知った気配だ。眠いので、無視することに決める。カグワが目を閉じて寝たふりを決め込むのと、ユタヤがその気配の主に気が付くのはほぼ同時であった。

 ユタヤの刀を研磨する音が止む。彼はカグワの方を伺って、彼女が目を閉じているのを見ると眠っていると見なしたのか、あるいは寝ているふりをしていると気付きながらも放っておいてやろうと思ったのか、静かに首を横に振った。四阿の下に近付いて来たその人は、彼のことを見上げて首を傾げる。

「カグワの君、そこにいるの?」

「寝ている」

 ユタヤは小声で返事をした。四阿の屋根の下から彼を見上げる女性は、風になびく長い赤髪を手で押さえながら、戸惑うような表情を浮かべた。

「起こしてよ」

「今寝入ったところなんだ」

「どうせ私が来たから、面倒なことだと思って狸寝入りしてるんでしょ。私、わかるんだから。カグワの君、起きて下さいな! カグワの君!」

 女性の、甲高い声が響く。脳の中まで共鳴しそうな大声に、カグワは顔をしかめた。このまま狸寝入りを続けていると、叩き起こされかねない。仕方が無いので、のそのそと亀のように這いつくばって移動して、屋根の下に顔を覗かせた。

「なによ、もう……」

「ほら、やっぱり起きてらした!」

 腰に両手を当てて見上げた笑顔は、勝ち誇ったように明るい。ロマーナというカグワ付きの女官は、この後宮内でも一二を争うほど底抜けに明るく、そしてはつらつとしていた。そうでなければ、後宮一自由奔放な三の君の女官長など務まらないのかもしれない。

「ユタヤはカグワの君を甘やかし過ぎなのよ。狸寝入りだってわかってたくせに」

「本当に寝てたって、そんな声で叫ばれたら目が醒めるわよ」

 主の辟易した様子にも、ロマーナは動じない。彼女は「そんなことよりも」と言って軽く手のひらを打った。

「さっき、全聖女様に対して招集がかけられましたわ。なんでも、十日後の選定の儀の前に一度全員で顔を合わせておこうということらしくて」

「なぁに、それ。皆で顔合わせして何を話すって言うのよ」

「それは私にはわかりかねますけれど……とにかく、そんな軽装では他の聖女様方に示しがつきません。一度殿堂に戻ってお召し物を着替えましょう」

「いいわよ、別に……こんな時に全員で顔合わせしたって気まずいだけじゃない。発起人はどうせダイアンかアネットでしょう? 周りがどう動いてるのか気になってしょうがないのよ」

 カグワは自分の腕を枕にし、仰向けの体勢に戻った。

 ダイアン、アネットはそれぞれ五の君、六の君の称号を持つ聖女だ。気が合うのか、珍しく聖女同士で仲良くしているように見受けられるが、互いに互いのいないところで相手の陰口を叩いている姿も目撃されており、本当に親しいのかどうかは定かではない。

 彼女たちの思惑は知らないが、一体誰がどのようにして巫女に選ばれるのか、聖女たち自身にも先が見えず、疑心暗鬼を生じている現段階で、聖女全員が顔合わせをすることは却って混乱を招くと思われた。例えカグワに先見の力がなくとも、面倒臭い座談会になることは目に見えている。わざわざ精神を削るため、そんな会合に参加する気はさらさら起きなかった。

 カグワの思考を読み取ったのか、ロマーナは無理に連れて行こうとはせず、だが当惑している。

「まあ、カグワの君の思案は尤もですけれど……でも、この先どうなるのか、全くわかっておられないわけでしょう? 皆様のご意向も伺っておいた方が、この先のためかと……」

「この先どうなるのかわかってないのは、みんな同じよ。勝手な憶測ばかりで会議したって仕方ないじゃない?」

「それはそうですが」

「前に一度選定の儀を見たことがあるっていう人がいるなら、その人に聞けばいいけれど、そもそも後宮内にはそんな人、一人もいないじゃない」

 後宮の中は、新しい巫女が決まる度に、総入れ替えされる決まりとなっている。下働きの女官から、聖女まで、誰一人同じ人間は残らない。そのため、今の後宮での常識がかつて常識であった確証はなく、それを比較することの出来る人物もいなかった。もちろん、選定の儀についてもそうである。

 すると、それまで二人の会話を黙って聞いていただけのユタヤが口を開いた。

「一人……いるのではないですか?」

 彼は刀を研ぐ手を止め、研磨材を懐にしまい込む。そして、抜き身の刀を鞘に納めてカグワを一瞥した。

「最西端の変わり者……彼は四十年以上、後宮の最西端に居座り続けているというではないですか。自称、ですけれども」

「ああ、ケニーの爺やのことね」

 なるほどとカグワが顔の前で両手のひらを合わせると、ユタヤは静かに頷いた。

 一から十までの聖女のそれぞれに宮殿が与えられている後宮の敷地は、とてつもなく広大である。端から端まで移動するためには馬車を使わなくてはならず、歩いて移動しようとすると一日あっても足らなかった。その敷地の外れ、最西端の場所に、一つの矮屋がある。同じ後宮内にある他のどの建物と比べてみても、尤も粗末な作りをしているその小屋の中には、一人の老爺が住んでいた。彼の名前をケニーと言うが、その名前を知っている者は少ない。どことなく不気味な雰囲気を持つ彼の住居に、大抵の人は近付きたがらなかったし、「最西端の変わり者」という異名の方が有名であったためだ。

 そして、この後宮内ではやはり変わり者であるカグワは、ケニーと親しくしていた。親しいとは言っても、気が向いた時になんとなく彼の小屋を訪れて他愛も無い雑談をするくらいで、彼女にも彼の正体は見えていない。ただ、彼のことを不可思議な老爺だと思うことはあっても、不気味だと思うことはなかった。それが、彼女が変わり者と呼ばれる所以なのだろう。

「そうか……爺やなら、何か知ってるかもしれないわ」

 カグワは口の中で呟くと、起きあがった。

 「儂はここにもう四十年以上も住んでいる」というのは、何かとケニーの零す口癖であったが、それが真実であるという証拠はない。偽りであるという証拠も、また然りである。確かなのは、彼がこの後宮の中では一際面妖であること、そして他の誰より物知りであるということだけであった。

 よしんば、彼が四十年以上此処にいるというのが嘘であったとしても、何も知らない聖女たちが集って憶測を働かせるよりは、彼に話を聞いた方が良い。そう判断したカグワは、四阿を支える柱を伝って、地面に降り立った。彼女を追って、ユタヤも身軽に屋根より飛び降りる。彼は、二本の刀をそれぞれ腰と背に装い直すと、カグワの顔を覗いた。

「これから、最西端まで行かれるおつもりですか?」

「そのつもり。思い立った時に行かなきゃ」

「なら馬を用意しましょう」

「いいわ。歩いていく」

「これからですか? 着く頃には夕方になってしまいますよ」

「平気。……だって、爺やのところには、ペグがいるでしょう?」

 ペグというのは、ケニーの飼っている巨犬のことである。ケニー以外には懐かないというが、不思議なことにカグワには大人しい。だが、カグワの乗って来た馬には容赦なく襲いかかり、これまでにも何度か彼女の馬が被害にあっていた。

「……ペグでもなんでも構いませんけども、結局、聖女様方の会合には欠席するおつもりですのね?」

 刺々しく口を挟んだのは、ロマーナだ。彼女の険しい表情に失笑しながら、カグワはおずおずと頷いた。それを受けて、ロマーナは深々と溜め息を吐く。

「……呆れた。正統なる聖女の会合を蹴ってまで、ならず者の老爺に会いに行くなんて……。まかり間違ってカグワの君が巫女にでもなられた暁には、国が傾くんじゃないかしら」

「そうかもね」

「……認めないで否定して下さらないと困ります」

 後宮に入ってから十二年、ロマーナとの付き合いも十二年だ。出会った頃はまだ、ロマーナが十四歳、カグワに至っては五歳にも満たなかったが、今では彼女の苦言にも慣れたものである。そしてロマーナはロマーナで、カグワに振り回されることにはすっかり慣れてしまったようで、

「仕方ありません。私が適当にはぐらかしておきますから、誰かに見つかる前に早く行ってしまってくださいな」

「さすが。話が早いわね」

「どうせ、カグワの君は私の忠言なんぞ聞いて下さいませんもの。反抗するだけ無駄ですわ」

 などと、身も蓋もないことを言う。カグワの後ろに控えたユタヤもまた、無言でその通りだと頷いていた。ロマーナは、背の高い彼をちらと見上げると、首を振って促す。

「馬が駄目ならユタヤ、貴方が足になりなさい」

 それはつまり、獣の姿に変化しろということである。ユタヤは表情の薄い顔に戸惑いを浮かべて、口籠った。

「三の宮の外ではあまり獣として動かぬ方がいいのでは……」

「今はみんな、会合のためにそれぞれの宮で準備なさってるはずよ。誰もこんな外れの方なんて見てないわ」

 ロマーナの言い分に、カグワも「そうよそうよ」と賛同する。ロマーナはそんな自らの主の姿を見て呆れた笑いを零すと、「とにかく」と念を押した。

「ささっと行ってささっと帰って来てくださいましね。カグワの君が奔放なのは昔からですし、まかり間違ってカグワの君付きの女官になった時からもう諦めておりますけれど」

「……本当に遠慮ないわね、ロマーナは」

「これでも貴女のことを案じておりますのよ。——ユタヤ、選定の儀を前にした聖女様に、くれぐれも危険のないように」

 御意、と言ってユタヤが頭を下げた。

 木漏れ日が地面にまだらの模様を描いている。もう少し時間が経てば、日が傾き始めるだろう。

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