序、獣人の子
少年は、鬱蒼と草木の生い茂る森の中を、がむしゃらに走っていた。少年は靴も履いておらず衣服さえも纏っていない。一糸まとわぬ全裸の状態だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。とにかく、走らなくてはならない。ひたすら逃げなくてはならない。背後から追っ手の声がする。大の大人が幾人も、十にも満たぬ少年のことを追いかけ迫ってくる。大人たちは斧や刀など武器を抱えて少年のことを追っていた。捕まったら最後だ。もう、命はない。
少年は、鮮やかな赤い血の滴り落ちる利き腕を押さえながら、死にもの狂いで走っていた。この傷はたった先刻、森の外、村の外れで村人の一人の投げた石槍にあたってできたものだ。少年はその村人の名前を知らないが、顔を見たことはあった。その程度の知り合いだ。何故って、少年は生まれてから今までずっとその村に住んでいたのだ。当然住人の顔くらい知っている。名前はわからなくとも、それが自分の住んでいた村の人間なのだということくらい、わかっていた。
村人たちは、昨日までは、少年にも優しかった。他の少年少女に接するのと同じように、村の子供として可愛がってくれた。しかし何故だろう。今日になって、突然、彼らの態度が豹変した。「あいつを、殺せ」と言う。「このまま放っておいたら村の災いになる」と。「あいつは化け物だ」と。
捕われて殺される寸前だった少年を、村から逃してくれたのは、他でもない少年の母親だった。母親は、村人たちの目を盗んで少年を拘束していた縄をほどくと、両目にたっぷり涙を溜めながら「ごめんね」と謝った。少年にはなにがなんだかわからない。どうして自分がこのような目に遭っているのか、どうして母親が泣いているのか。何も知らない少年は、当然母も一緒にこの村から逃げ出してくれるのだと思った。自分を連れて、二人で逃げてくれるのだと思った。しかし、母は町外れの森までくると、少年の手を放した。
——お前は、私の手にも負えない。傍にいてやれない母を許しておくれ。
母の言葉が、胸へと突き刺さる。
どういうことだ、と少年は目を丸くした。少年には父がいない。故に、ずっと母と二人暮らしだった。今までずっと、二人で傍にいたではないか。それなのにどうして突然、離れなくてはならないのか。
愕然とした少年が母の元を去ることができずに突っ立っていると、村の方から大人たちの「いたぞ!」という声が響いた。母ははっと息を呑んで、「はやくお逃げ!」と少年の背中を押した。少年は首を振る。いやだ。母と離れたくない。すると、母は少年を渾身の力で突き飛ばすと、叫んだのだ。——お前は、人間の村にはもうおれぬ。早く逃げなさい。
どういうことなのだ、どうして自分が人間の村にはいられないのだ。混乱する頭を抱えて、少年は母を振り返る。その背後から、大勢の大人たちが血相を変えて走ってくるのが見えた。手には武器を握っている。化け物を殺せ! と大人たちが叫んだ。少年は目を見開く。何故、自分のことを彼らは化け物と呼ぶのだろう。
大人の一人の投げた武器が、少年の腕を掠った。巨大な石槍だった。右腕に激痛が走る。服が裂けて、その下から皮膚と傷が見える——はずだった。しかし、少年は、自分の腕を見て、唖然とした。破れた衣服の下から覗いたのは、人の皮膚とはおおよそ思えない、まるで熊のような黒いけむくじゃらの毛皮だったのである。それは、紛いも無く獣の腕だった。否、化け物の腕だった。
早く逃げなさいと、母親が叫ぶ。どうしていいのかわからずに、少年は森へと向かって駆け出した。このままでは殺される。何故かはわからない。しかし、村人の言うように、自分はあたかも化け物のような腕を持っている。
そして、森の中へ逃げ出す寸前に、母親の懺悔するような嘆きを、聞いた。
——ごめんね。本当にごめんね。獣人なんぞに産んでしまって、本当に……!
獣人、という響きが、少年の耳に残った。初めて聞く言葉だ。それがなんであるかなんて皆目見当もつかない。しかし、その「獣人」とやらのせいで、自分は殺されんと追われているのだろうという予想はついた。村人らの言う「化け物」とは、「獣人」のことを示しているのだ。そしてそれは、少年のことである。つまり自分は今までずっと人間だと思っていたけれど——人間ではなかったのだ。
それから何時間も、少年は森の中を走り続けた。息が切れても、どんなに苦しくても、走り続けていた。足を止めれば大人たちに捕まってしまう。捕まれば、殺されてしまう。
森を走る間に、いつのまにか纏っていた服は裂けて、少年は全裸になっていた。走るだけで裂けるほど柔な服を着ていたつもりはない。しかし、まるで体が突然変化でもしたかのようにみるみるうちに膨張して、もとの少年の大きさからは考えられないほどに巨大化してしまったのだ。ゆえに、少年の服はもう、纏うことができなくなった。かわりに少年の体は、熊のような黒くて堅く分厚い毛皮に覆われていた。
村の外れで斬られた腕の傷が痛む。大量に血が流れた。走っても走っても村人たちを巻くことができないのは、恐らく森の中に点々と血痕が残っているためだろう。傷のある右腕は痺れ始め、感覚がない。そろそろ自由には動かせないほどに傷が進行していた。たくさん血を流すと、やがてはそれが原因で死ぬのだという。そのためだろうか、先ほどから走っているはずなのに、走っているという感覚さえしない。まるで夢の中にいるみたいだ。頭がふわふわと浮いていて、そのまま気を失ってしまいそうなほど。
少年は、木々の間を抜けて、森の中に、湧き出る泉を見つけた。こんなところまで来たのは初めてだった。もう帰り道はわからない。もちろん、わかったところであの村へ帰られるわけもないのだが。
ちょろちょろと水の流れる音がして、自ずと足がそちらへと引かれた。血を流しながらも走り続けたせいで、体が水分を欲している。水が飲みたい。本能的にそう思った。
少年は泉の縁に腰を下ろすと、無我夢中で水の中に顔を突っ込んで喉を潤した。本当に獣みたいだ。だが仕方が無い。手を使って水をすくおうにも、両腕は化け物のそれのように変化しており、もはやこれが人間の手と同じ役割を果たせるのかどうかもわからないからだ。
少年はひとしきり水を飲むと、息継ぎのためにようやく顔をあげた。ぽたぽたと髪の毛を伝って水滴が水面に落ちた。波紋が広がっていく。その波紋の中に、少年は化け物の顔を見た。
一瞬、わけがわからなかった。
昨日まで、自分は母によく似た東国風の顔立ちをしていたはずだった。綺麗な黒髪を持つ、素朴な少年の顔をしていたはずだった。
しかしながら、その泉の水面に映る姿は、どこからどう見ても人間のそれではない。白い、白骨化した頭蓋骨のような顔に、黄ばんだ白の長い髪の毛が生えている。ぽたぽたと雫が、この白い毛から滴り落ちて泉に波紋を作った。目は、頭蓋骨のそれのように暗くくぼんでいて、どこにも瞳など見えなかった。そして、白い毛の間からは、二本の雄牛のような角が生えている。化け物だ。これがもし自分の姿ならば——自分は化け物だ。
少年は、己の姿に恐れおののいて、ふらふらと立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らず、その場に転倒した。ずしん、と重みのある音がその場に響き渡る。小さな少年の倒れた音ではない。野獣の倒れたような重低音だ。腕から流れ出した血が、泉の澄んだ水をどす黒く染めていく。少年はそれを虚ろな視界の中で見つめていた。
嗚呼、力が入らない。立ち上がって逃げることも、できない。逃げたところで、こんな姿ではどこにも行けない。人間は化け物に救いの手を差し伸べてくれないだろう。かといって森の中で一人で生きていく自信もない。八方ふさがりだ。
森の奥の方から、大人たちの怒号が聞こえた。彼らは少年を殺しにくるのだ。このまま生かしておいては村の災いになる。それはそうだ。だって少年はもう、人間ではないのだ。
このまま自分は死ぬのだろうと、遠のいていく意識の中で少年は思った。血を流して真っ赤に泉を染めて、干涸びるように死ぬのかもしれない。あるいはそうなる前に、村人に見つかって、首を切られて死ぬのかもしれない。だが、もう——どちらでもよかった。なんでもいい。このまま化け物として生きるくらいなら、死んだ方がいい。人間は恐ろしい化け物の命を絶えず狙うだろう。人に怯えて生きて行くことなど、まだ十にも満たぬ少年には、できなかった。
少年は全てを諦めて、全身の力を抜いた。すると少し気が楽になった。逃げろと言ってくれた母には申し訳ないが、もう逃げる必要はないのだと思うと、一気に疲労が体を支配した。天国はどんなところだろうかと虚ろな意識の中で考える。いや、化け物には天国など用意されていないかもしれない。では、向かう先は地獄だろうか。何も悪事を働いた覚えなどなかったけれども、獣として人々を脅かしてしまったからには甘んじて地獄に向かうしかない。だとすれば、獣となった自分は、地獄に向かうために生まれてきたのだろうか。それはなんと虚しい生涯だろう。己を人間と信じて生きて、最後は獣となりさがり殺され地獄へ向かう。こんなことなら、生まれてこなくたって良かったろうに。悪戯な生涯を送ってしまった。
朦朧としながらもそんなことを考えていると、ふと、目の前に人の気配を感じた。さく、さく、と遠いどこからか、草木を踏み分ける音がする。大人たちがようやく少年の存在を見つけ出したのだろうか。そう思ったが、あの怒号が聞こえない。もしも村人ならば、「化け物!」と叫び、「殺せ!」と喚くことだろう。しかし、近付いてくる人間は、至極静かだ。——では一体、誰だ?
少年は、一度閉じた目を開いて、ゆっくりと頭を持ち上げた。こんな森の奥に、一体誰がいると言うのだろう。ここは人間の住まうような場所ではない。だとすれば、少年と同じ化け物か——あるいは、妖精の類いだ。
そう予想してから見上げたために、そこに立っていた者を見てまず少年の頭に浮かんだのは、
——天女だ。
その一言だった。
少年が今まで一度だって見たこともないような美しい着物を纏った少女だった。年の頃は、少年よりも若い。五つか、それくらいではないだろうか。しかしその容姿は、五歳かそこらの齢でありながら、村一番の別嬪と言われていた娘よりも美しかった。絵に描いたような美少女だ。
そのような美少女が、こんな森の奥に現れるわけもない。だからやはり、人間ではないのだ。この少女は天女だ。そして、自分をあの世へ迎えに来たのだと、少年は思った。
「三の君……!」
天女の後ろから、別の女の声がした。慌てたように森の奥から現れたその女は、天女よりもずっと年上だった。少年の母よりは若く見えるが、恐らく成人しているだろう。天女の付き人だろうか。
「勝手に馬車を下りてはなりませぬ……」
付き人はそう天女に告げてから、ようやくその場に汚らしく転がる少年の姿に気付いたようだった。はっと息を呑んで、汚物を見たかのように顔をしかめ、いかにも上物とわかる服の袖で口元を押さえた。
「獣人……!」
獣人——。その名は、自らの母の口からも聞いた。獣人なんぞに産んでしまってごめんなさいと、母が言った。ゆえにそれは少年を差し示す言葉だ。付き人が「獣人」と呼んで汚物のように忌み嫌っているのは、少年の存在そのものだ。天女の付き人にさえ忌み嫌われる自分は——やはり地獄へ落ちるしかないようだ。
そう悟って苦笑を浮かべ、少年は再び目を閉じようとした。どうせ天女は天国へは連れていってくれない。ならばこうして彼女を見上げていても仕方が無い。しかし、そう思って瞑目した少年の方へ、さくさく草をかきわけながら近付いてくる足音がする。「三の君、近付いてはなりません!」と付き人の声がした。ということは、近付いてくるのは天女だろうか。うっすらと少年が目を開くと、予想した以上の至近距離に、天女の姿が見えた。間近でみるその美しいかんばせに、息が詰まりそうになった。
「このままでは、彼は、死んでしまうわ」
天女が初めて声を発した。鈴の鳴るような、愛くるしい声であった。五歳かそこらとは思えないほどはっきりとした物言いで、天女は呟く。
「彼を、連れて帰る」
どういうことだ、と少年は天女の姿を穴の開くほど見つめた。彼女は自分を、天国へ連れていってくれるというのか。付き人さえ忌み嫌うこの化け物を、連れて帰るというのか。
付き人は信じられないとばかりに首を横に振って、「なりません」と叫んだ。
「そのような穢らわしい化け物を、仮にも聖女様ともあろう方の横に置くわけにはまいりませぬ!」
「穢らわしい化け物ではないわ。獣人よ。私には仗身がいないもの。仗身にするわ。それならいいでしょう。聖女の仗身は獣人と決まっているのだから」
仗身、と少年が聞き慣れないその言葉を呟くと、聖女は微笑んだ。
「護衛のことよ。私のことを、守るの」
「いいえ、なりませんわ、三の君」
付き人が厳しい声をあげた。この「三の君」というのがどうやら天女の呼称らしい。名前ではないだろう。天女の世界にはきっと複雑な決め事があるに違いない。
「仗身となる獣人は、生まれたその時から聖女様の仗身となるために訓練させられるもの。しかしそこの化け物は育ち過ぎております。すでに獣の姿に変化してしまっているのに、これから仗身に育てあげるなんて危険なこと、できませんわ」
「それは、私の力次第でしょう。彼なら大丈夫——だってほら、こんなに優しい目をしてる」
天女はそう呟いて屈むと、少年の顔に触れた。少年は目を見開く。村の大人たちがこぞって「化け物」と呼んだこの顔を、少年自身泉に映った自分の顔を見て悲鳴をあげそうになった、この顔を、天女は少しも忌むことなく撫でた。そして、少しも怯むことなく、少年に問う。
「貴方、名前は?」
初対面の人間が質問するならば、あまりにも当然な問いかけだ。それなのに、何故か少年は泣きそうになった。泣きそうになるほど、嬉しかった。
「……ゆたや」
ぼそりと答えると、天女は目をぱちくりさせた。やがて、花の咲き綻ぶような笑みを見せる。
「ゆたや……そう、貴方、東の国の出身なのね。嬉しいわ……私もね、東の出身なの。かぐわって言うのよ」
「三の君! 獣人に名前など……!」
付き人が悲鳴に近い苦言を吐いた。しかし、少年の耳には届かない。——東の出身。ということは、彼女は天女ではないのか。人間なのか。こんなにも美しい人間がこの世にいるのか。まるで天女のような人間が、存在しているのか。
「ゆたや……貴方さえよければ、私の仗身になってくれないかしら?」
そう呟いた天女のような少女の頼みを、少年は一生涯忘れることはないと思った。このような化け物の姿になってしまった自分を、少しも忌み嫌うことなく求めてくれるならば、自分とてどんな求めにも応じようと。この瞬間に、誓った。
それは他の何よりも堅い契約で、少年をがんじがらめにして離さない。しかしそれこそが彼の幸福となった。
彼は己の命を、この少女に捧ぐことを誓った。




