7 後の祭りに歌響き
「……ぅ、に? ここ、は?」
気がつくと、トリリアは薄暗い部屋にいた。彼女が寝かされているのは、部屋の中央に設置された台の上。部屋の雰囲気に、どこか見覚えがあり、トリリアはぞっと羽を震わせる。
「おかえりなさい、トリリア」
その声に、トリリアは小さく悲鳴を上げた。恐る恐る振り返ると、黒い艶やかな、瑪瑙石の仮面が目に入る。
「う、うぁっ……」
まともな言葉も発せられないほど恐怖を感じて、トリリアは尻もちをついたまま後じさりする。彼女のそんな姿がおかしかったのか、オニキスが喉の奥で笑う。
「クックッ……そんなに怯えないでください。可愛いですね、あなたは」
「わ、わたしをどうするのっ」
「さて……どうしてほしいですか?」
石の仮面をわざとらしく傾け、オニキスが、なぶるように問いかけてくる。トリリアは怯える心を奮い立たせ、双眸に力を込めた。
「……何をされたって、あなたなんかに、わたしは負けないっ」
「ほう。ずいぶん強くなりましたね、トリリア。以前なら実験のたびに泣き叫んで、『彼』の名を呼んでは助けを求めていたというのに。やはり、『彼』――レクス少年と再会したおかげでしょうか?」
トリリアはちいさな唇を噛み締めた。レクス。彼女が導いた、勇者の少年。
(レクス……負けないよ、わたし。絶対に……)
「ご安心ください。あなたを宝石に変えたりはしませんよ。というのも、我が盟友が、あなたをご所望でしてね……」
オニキスの背後の闇が揺れた。黒髪の妖精が、音もなく進み出てくる。白い妖精服を着た、一見するとなんの変哲もない姿をした妖精。だがその瞳は、全ての光を吸いこむ漆黒だった。虚無が宿ったような瞳が、トリリアを見つめている。
トリリアは息を呑んだ。闇の瞳を持つ、黒髪の妖精。属する精霊もその目的も不明な、妖精にとってすら謎の妖精。
「『共食い(イート)』……!」
震える声で、トリリアはその名を呼んだ。
「……そうか」
報告を受けた東堂は、短くそう言った。いつもの、『◇Door』事務所にレクスたちは帰って来ていた。
レクスはソファに座り、ぼんやりとしている。トリリアを助けに行かなくてはならない。それはわかっているが、頭の中の部品がずれてしまったように、思考が形を成さない。何をすればいいのかわからない。そして、それを教えてくれる少女も、もういない。
ふと気がつくと、目の前に杏華が座っていた。彼女は先の戦闘の傷で全身いたるところに包帯を巻いていた。アムニアは治癒が得意ではないのだと前に言っていたのを、レクスは思い出す。
杏華は叱られた子供のように、絆創膏を貼った顔をうつむかせ、身体を縮こまらせている。
「あ、のさ。剱野。私……」
震えながら、彼女が頭を下げる。
「ごめん。本当に、ごめん。私が、あの時、石を取ってれば――」
「――石」
ぼそりと、レクスはつぶやいた。懐から妖精が変化させられた石を取り出し、机に置く。
「この、石を」
「……?」
不安そうな面持ちで、杏華がこちらを見返す。上の空で、レクスは言う。
「石を……受け止めろって、トリリアが言ったんだ。だから、受け止めた。トリリアは……」
ぼそぼそと、自分でもよくわからないまま続ける。
「トリリアは間違えないんだ。だから、ぼくは――妖精の石を受け止めたんだ。選択は、間違ってない。はずだ」
「……剱野、……」
杏華が、なぜか泣き出しそうな顔で言った。
アムニアはそれまで机に足を投げ出して座り、虚空を睨んでいたが、レクスが石を机に置くとトコトコと歩いてきて、石に触れた。真剣な顔で何事かを考え込んでいる。
「はいはい~。みなさん、お飲み物はいかがですかぁ~」
明るい声で言いながら、シルシファがやってくる。彼女に先導されるように東堂が、トレイに人数分のコーヒーを乗せて持ってきた。
「疲れたときにはぁ、まず糖分摂取ですよぉ。角砂糖はおいくつですかぁ? 三から九十九までの間でお好きな数字を選んでくださぁい」
状況がわかっているのかいないのか、彼女はいつも通りだった。こちらの返事を待たず、鼻歌混じりに角砂糖をぽちゃぽちゃとコーヒーカップに投入していく。
ソファに腰を下ろした東堂が、静かに告げた。
「私の判断が間違っていた。援軍が来るまで待つべきだった。すまない」
「幸兄ィ、私……」
杏華が、涙をこぼしながらそんな風に東堂を呼んだ。立ち上がり、彼に訴える。
「私、一人でも行くよ。手掛かりはないけど、それでもなんとかしなきゃ」
「……お前が一人で行って何になる。敵に遭遇した所で、死ぬだけだろう」
石から目を離さないまま、アムニアが吐き捨てる。杏華は相棒からの辛辣な台詞に一瞬、言葉につまったが、キッとアムニアを睨み返した。
「私のせいなことくらい、わかってるわよ!! だからせめて、責任を取りたいの!」
「犬死にで何の責任が取れると言ってるんだ、この――」
「アム、ニア。やめろ」
かすれた声で、レクスは制止した。震える手でこめかみをきつく押さえ、なんとか思考のピントを合わせて、言葉を紡ぐ。
「さっきのは……僕の、失敗だ。実行する前に、二人に一言でも、声をかけておくべきだった。そうすれば迷いなく動けたはずだ。……策を思い付いて、調子に乗ってた。僕のミスだ」
「大将……」
アムニアが、痛ましげにこちらを見上げてくる。杏華は、レクスがまともな発言をしたことに驚いたかのように目を見開いた。レクスは苦笑する。
「別に正気を失っちゃいないさ。いや、どうかな。わからないけど」
「あれぇ?」
シルシファの呑気な声が響く。彼女は妖精石に近づくと、ぺたりと石の表面に手を当てた。
「これ、妖精さんですかぁ。わぁ、ひどいですねぇ……わざわざ意識が残るようにしたうえで、苦しむように術を固定するなんて……性格、わるぅい」
あごに指を当て、シルシファは続ける。
「んー、元に戻すのは、ちょっとだけ大変ですねぇ」
「――元に戻せるのか!?」
アムニアが、かつてないほど驚いた表情で叫ぶ。レクスたちも同じような心境だったが。
「? はいぃ。わたくし、解呪の魔法が得意なのでぇ。構成を読み解けば、解呪はできますぅ」
きょとんと、当たり前のようにシルシファが言う。
「よろしいのでしたら、治してあげたいんですけどぉ。かわいそうなのでぇ」
「あ、ああ。頼む」
驚きに言葉もない面々に代わって、レクスがうなずく。シルシファは「ではぁ、せんえつながら~」とにっこり笑い、妖精石に向き合うと、ステージ上のオペラ歌手のように両手を広げた。目を閉じ、小さな口をめいっぱい開き、シルシファは詠唱を始める――
それは、トリリアやアムニアが使うような詠唱呪文とは異なっていた。近いものを挙げるとするなら、風の音だ。草原を駆け抜ける、春の風。高くなり、低くなり、途切れることなく吹き続ける……
彼女の『歌』が響くにつれ、事務所内に野花のにおいが立ち込めた。次第にレクスたちは、自分たちが春の草原に居るような錯覚を起こす。
(妖精言語だ)
レクスは内心、畏怖すら感じながらシルシファの『歌』を聞いていた。妖精の持つ本来の言語。それは精霊と、すなわち世界法則と対話するための言語である。呪文など無くとも、彼女たちは世界そのものと直接コミュニケーションが取れるのだ。もっとも、それはトリリアのような魔法に精通する妖精ですら普段は忘れているほどの、遥か太古の言語である。
「ほ、ホントに解呪してる……」
妖精石を見つめながら、杏華が呆然と言う。レクスの目には、石の表面で時折チカチカと小さな光が瞬いているようにしか見えないが。魔法使いには、魔法に関係する何らかが見えているらしい。
「アムニア、あれ、できる?」
「い、いや……さっきちょっと魔法の構成を覗いてたんだが、複雑すぎて解呪のとっかかりすら見えなかった。それをあんな短期間で解くとは……」
同じ妖精のアムニアすら、脅威を覚えるほどの手際で、シルシファは解呪を進めていく。五分ほどもすると、妖精石の表面に赤みが差し、苦悶の表情がほどけるように安らかになっていく。
やがて、妖精石は妖精へと復元された。完全に解放された緑髪の妖精が、机の上に横たわって、緩やかな寝息を立てている。シルシファは「ふうっ」と息を吐き、「おわりましたぁ」とレクスを見上げる。
「あとは、この子の生まれ故郷と近いもの――わたしと同じ草原育ちのようなので、わたしが寝かせてもらっていた、あの鉢植えでよいと思いますぅ――のそばに置いてあげましょぉ。明日には元気になってると思いますよぉ」
「……凄いな、シルシファ。驚いたよ」
「うふふ~。いえいえ、それほどでもぉ」
レクスが素直に褒めると、シルシファは照れたように身をよじった。
「『運命の妖精は間違えない』――か」
東堂が、ふっ、と笑みを浮かべた。なぜか彼は右手を、何かを捕まえたかのように握っている。その手の中から、かすかに緑の輝きが見えた――
「剱野くん。君とトリリアくんの判断は正しかった。敵の本拠地がわかったぞ」
「えっ!?」
レクスは思わず叫んでいた。彼のみならずその場の全員が、いきなり何を言い出すのかと驚いた顔で東堂を見ている。
東堂はこんなときでも、気取った仕草を忘れなかった。ウインクしながら、彼はささやく。
「反撃開始だ」