1 それでもすべては昔の話
短く切った黒髪、平均的な背丈、やや悪い眼付きと姿勢。少し変わった名前の他には何の変哲もない、ごく一般的な高校二年生男子であるところの剱野レクスには、誰にも話さないと心に決めている秘密があった。
七年前。当時小学四年生だったレクスは、父親の書斎にこっそり忍び込んで遊んでいた。その時、書斎の天井に突如として現れた、謎の扉――天井になどあるはずのない、古ぼけた木製の片開き扉――を開いてしまったレクスは、気付くと、見たこともない異世界に迷い込んでしまっていた。
その世界は、住民たちからは『精霊大陸』と呼ばれていた。木々や山々、荒れ地や森の奥、湖や川、自然のすべてに精霊が宿り、暗がりのそこかしこにおとぎ話の怪物が息づく世界。レクスはそこで、妖精の少女と出会い――彼女に導かれるまま、剣を手にし、魔王を倒す旅に出た。
白昼夢と片付けるには、あまりに鮮明なその記憶。魔王を倒し、異世界から帰還した後もなお、レクスはその奇妙な旅のことを忘れられないでいた……特に、旅の初めから終わりまで彼のそばにいて、彼を導き、助け続けた、愛らしい小さな妖精の少女のことを。七年間、ずっと。
ずっと、ずっと。忘れずに、想い続けて。
「やっぱ出来いいよなぁ、これェ……」
ようやく入手した新作フィギュアをパッケージ越しにながめつつ、レクスは何度も感嘆のため息をついた。
休日昼間だというのに駅のホームは人影もまばらで、フィギュアに見蕩れているレクスを奇異の目で見る者はいなかった。レクスは心おきなく『魔法少女ミスティルア』のフィギュアを愛でる。もっとも、作品自体はあまりよく知らないのだが――販売会社のHPで、新作予告の画像を見ての一目惚れだった。レクスはいつも、作品経由ではなくフィギュアそのものに惚れこんで収集することが多かった。そうやって集めたコレクションはもうかなりの数になる。
「あ゛~~、この八重歯かわいい……てか表情がいいよなやっぱ……元気っ子最高……尊い……」
「剱野くん?」
「うおっ!?」
後ろから声をかけられ、レクスは飛び上がった。振り向くと、同級生の井多良が立っていた。小学校から高校まで一緒だが、今ではなんとなく疎遠になりそれほど話す機会はないという、微妙な間柄の相手である。
休日なので当たり前だが、井多良は私服だった。初夏に合わせたサマーカーディガンと長めのスカート。肩まで伸ばした髪は、黒より少し明るいかという茶髪。童顔を気にして休日は大人びた化粧を研究している、とは本人の主張だが、なるほど言われてみれば大人っぽく見える。派手ではないがさりげないセンスの良さがうかがえる格好だった。
ちなみにレクスはと言うと、適当に買った青の長袖シャツとジーンズである。気候的にはそろそろ暑いので半袖にしようかというところだ。
「なにやってるの? こんなところで」
「べ、別に何でもないよ」
あわててフィギュアを紙袋に戻しながら、レクスは応える。
「ふぅん?」
なぜか井多良は、レクスのいるベンチの隣りに座ってきた。彼女は目を細め、なじるようにつぶやく。
「剱野くん、休日に一人で遊んでるって、実際ヤバイよ」
「……ほっとけ。井多良だって一人だろ」
「私は合コンの打ち合わせの帰り。三橋さんの彼氏がデザイナーで、知り合いの男の人集めてくれるんだって」
「へぇ」
さほど興味なく、レクスは適当な相槌を打った。井多良はそれが気に入らなかったのか、顔を近づけて言ってくる。
「剱野くんは、誰かと付き合おうとか思わない?」
「……思わない」
「好きな人とかいないの」
「別に、いない」
「ふぅん。あっそ」
素っ気ない返事をしていると、井多良は機嫌を損ねたようにそっぽを向いてしまった。
レクスが困って視線を泳がせていると、ホームを歩く男の姿が目にとまった。よれたスーツ姿の中年男性だ。男はおぼつかない足取りで、虚空を見上げながらふらふらと、線路の方へ歩いていく。
(え、あれ……やばい!?)
レクスはとっさに駆けだした。男がホームから足を踏み外しそうになった寸前、肩をつかみ、ホームの内側に引き込む。
「ぉおっとっ?」
「うわっ、と!」
男は肩を引かれた勢いでふらりと倒れ、レクスも巻き込まれて一緒にホームに倒れた。何事かと駅員が寄ってくるのが見える。
「おっさんなにしてんだよ! うわっ、酒くさっ! 昼間から酔ってんの!?」
「あれぇ? いやぁ、今いたんだよあそこにさあ」
明らかにアルコールの入った赤ら顔の男は、ろれつの回らない声で言って、虚空を指さす。
「いたって、何が?」
「いたんだよ、本当に……これっくらいの、妖精がさあ」
「っ!?」
レクスは、男の指さす方を見た。だが、何もない。
「おっさん! 妖精ってほんとか? どんな姿だったんだ!? なあって!」
「いたんだよぉ、ほんとにさ……」
男はもうこちらの声も聞こえていないようで、そのまま寝入ってしまった。
「おっさん!? おっさんって! ああ、もう……え、いや、知り合いじゃないです。はい、なんか酔っ払って落ちそうになったみたいで――」
「剱野くん……」
寄ってきた駅員に事情を説明していたレクスは、井多良の声に振り向く。彼女は、レクスが走り出した時に落とした荷物を、拾い上げたところだった――紙袋から転げ落ちた、フィギュアの箱を。
「あああもおお!!! なんなんだよー今日はー!!」
家に帰ったレクスは、自分の部屋でごろごろと転げまわっていた。井多良の冷たい目線を思い出し、ベッドに顔をうずめながら足をばたつかせる。
「いいじゃねーか別に、フィギュアが趣味でも!! なんであんな目で見られなきゃなんねーんだよぉぉぉ!!」
ひとしきりわめいたあと、ため息をつく。
「はぁあ……結局おっさんから話も聞けなかったし。まあ、見間違いって可能性が高いけど……」
酔っ払いの中年は、あのあと眠りこけてしまったため駅員にまかせた。レクスは彼が見たという妖精の姿を探してみたが見当たらず、井多良は酔っ払いの言葉を真に受けている彼にどん引きしている様子だった。
井多良とはそこそこ古い付き合いで今も同じクラスだが、最近は話す機会もあまりなかった。クラスの賑やかな盛り上がりの中心に居ることの多い井多良と、端っこの方でこっそり、携帯片手に良さげな新作フィギュアの検索をしているレクスとでは、弾む話題もあまりない。だがそれでも貴重な友人ではあったのだが、今日の失態でさらに距離が開いた気がする。
「………」
なんとなく携帯を見てみると、その数少ない友達の一人の坂本から、新作フィギュアについての感想交換を求める旨のメールが来ていた。いつものように悪乗りして長文を送る気にはなれず、五百字ほどの簡潔な感想メールを返信して、電源を消す。
レクスはベッドにあおむけになったまま、今日買ったフィギュアを取り出して、左手に持った。ファンタジックな魔法少女のコスチュームに身を包み、無邪気な笑みを浮かべた少女の人形。
レクスの手の中にすっぽりとおさまった、小さな少女の姿見。いつものように彼はそこに、思い出の中の彼女を重ねる。
「……もう会えないのかな、やっぱり。トリリア……」
今はここにいない妖精の少女の名を呼んで、レクスは目を閉じた。
「――だから、僕はさ」
夢の中で。レクスは、焚き火を前に座っていた。
「代わりにはなれないんだ。お母さんが、思ってるようには」
七年前の記憶。レクスは十歳のころに戻っていた。旅装のマントを身を包むようにまとい、ぱちぱちと爆ぜる焚き火を前に、レクスはぽつり、ぽつりと語る。
「お父さんの代わりにはなれない。だからって、他の何にもなれない。僕には、何もないから」
「そんなこと、ないよ」
ひとり言のようなレクスの言葉を、穏やかな声が優しく否定した。
青い髪の妖精の少女が、レクスの目の前に浮かんでいる。彼女はまっすぐレクスの目を見て、静かに告げる。
「レクスは、勇者になれるよ。とびっきり立派な、本物の勇者に。わたしが保証する」
「……そっかな。自信ないや。でも……」
彼女を見上げながら、レクスは微笑む。
「君がそう言うなら、きっと、そうなんだろうね。トリリア」
妖精の少女は、レクスの返事に、満足そうに無邪気な笑みを浮かべた。
少し寝入ってしまい、目が覚めると夜遅くになっていた。いつものことだが、家の中に人の気配はない。
父親はレクスの幼いころに亡くなり、現在は母親と二人暮らしである。その母親も、仕事からこの家に帰ってくるのは、月に一度あればいい方だ。実質的に一人暮らしのようなものだった。
レクスはため息をついた。起き上がって、遅めの夕食を取ろうと外へ出る。もう慣れたが、一人での食事というのは、いつもいつもむなしいものだった。精霊大陸にいたころは、トリリアと二人で食事をしていた。旅の中ではろくな食料を得られないことのほうが多かったが、それでも、焚き火を起こして、その周りで、トリリアと共にする食事は、かけがえのない時間だった。
昔のことを思い出しながら、寝静まった街をふらふらと歩いていた、その時。東の空に光がまたたくのをレクスは見た。星の光よりもやや大きく見える、青い光。ぼうっと輝く丸い光の球は、どうやら、さほど高くはない位置を浮遊しているようだった。
(……似てる……?)
その青い光に追憶を刺激され、レクスは見えない糸で引かれるように後を追った。
光はふらふらと頼りなく揺れながら飛んでゆき、やがて住宅街から少し外れた公園の上空まで来ると、力尽きたように落下していく。
レクスが公園に入ると、植え込みの陰で、呼吸するように明滅する青い光があった。その光の中に小さな人影を見つけて、心臓が跳ねる。
短いトルマリンブルーの髪に、幼い顔立ち。ふわりとした白い貫頭衣の背中から、透明の羽が突き出している。彼が見間違えるはずもない。植え込みの花壇に力なく横たわっているのは、かつて異世界でレクスを導いた妖精、トリリアだった。
思わぬ再会に、頭の中が真っ白になる。動悸が早鐘のように鳴った。
「トリリア!」
震える手でレクスはトリリアを抱き上げた。両手のひらを水を掬うような形にして、この上なく慎重に。手のひらから、妖精の小さな震えと高い体温が伝わってくる。妖精の身体は、脱力した状態ですら重さがほとんどない。手のひらの感触がなければ、そこにいると信じられなかっただろう――日常のふとした瞬間に、彼女がそこにいるような幻を何度も見た。だが、今度こそ本当に、トリリアはここにいる。
「レク……ス……?」
トリリアが、ゆっくりと目を開いた。アクアマリンの瞳がレクスを捉え、星のようにまたたく。
「レクス……えへへ、れくすだ。やっと……会えた」
「そうだ、僕だよトリリア」
「れくす……れくす……」
トリリアはレクスの手のひらに顔をこすりつけ、何度も小さくつぶやく。外傷はないが、無事なようにも思えない。あきらかに衰弱していた。
(なんとかしないと……)
病院に連れて行って何とかなるものならそうしたいが、そもそも普通の人間には妖精の姿は見えない。精霊大陸なら仲間の妖精や精霊が彼女に力を貸すだろう。だが、こちらの世界には彼女を助けるものは何もない。レクスを除いて。
(僕だけだ、彼女を助けられるのは)
レクスはトリリアをそっと胸に抱き、自宅へと連れ帰った。
瀕死の妖精を抱いたまま、レクスは居間のソファに腰掛ける。思考がまとまらない。手の中の妖精の息づかいにすべての神経が集中している。ぐるぐると考えが空回って、焦燥だけがつのっていく。
(思い出せ……何かあるはずだ。トリリアを助けるために……)
はっと、思い至る。水だ。トリリアは、聖域の泉を出自に持つ水の妖精である。綺麗な水があれば、とにかく体力の回復は出来るはずだ。
トリリアをそっと机に横たえ、レクスは水を取りに向かった。洗面器に人肌にした水を入れ、その中にタオルを敷いて、トリリアの身体を水から顔が出るようにして置く。
(綺麗な水。他に何がいる? 妖精を治すには……)
レクスは必死で思考を巡らせた。妖精であるトリリアが好むもの。自然の魔力に満ちていて、彼女の身体に馴染むもの。綺麗な水。新緑の空気。月明かり。生花の香り。砂糖菓子。それから。
(――歌だ)
思い出す。夜、焚火のそばで他愛もない話をしている時に、トリリアはよく歌をせがんだ。歌の苦手なレクスは恥ずかしがって渋るのが常だったが、いつも根負けしておずおずと歌った。歌謡曲、童謡、即興の鼻歌、どんなものでも、トリリアは喜んで声を合わせてきた。
「……青い魚 錆びた町を見下ろして 泳いでいく 子供たちの声は遠ざかり 目指す陽は 遥か彼方に……」
七年前を思い出しながら、レクスは歌い始めた。意味深な歌詞は、当時レクスの好きだったアマチュア歌手の作詞だ。とぎれとぎれに歌っていると、水の中のトリリアが、ふふっ、と笑みをもらした。小さな唇が薄く開き、鈴の音のような声でささやく。
「……青い魚 甲斐もなく尾を振って 泳いでいく その場所に至る時は来るのか 沈む海まで 追えはしないのに……」
「覚えてるのか」
かすれた声で続きを歌い上げたトリリアに、レクスは驚いて問いかける。
「覚えてるよ。海嫌いな魚のうた」
まぶたを開いて、トリリアはレクスを見上げた。聖域の泉の水と同じ、どこまでも澄んだ瞳が、彼を映している。
「レクスの好きな曲だもん。忘れるわけないよ」
あどけない顔立ちに浮かぶ柔らかな微笑みは、七年前と同じだった。彼女は再び目を閉じると、しばらくの間ちいさく歌を口ずさんでいたが、やがてそのまま寝入ってしまった。
(……トリリア。もっと、話したいことがいっぱいあるんだ。一緒に冒険した時のこと。君と別れてからのこと。全部話したいんだ。だから……死なないでくれ。頼む……)
結局、レクスはそのまま彼女から目を離すことができず、いつのまにか眠りに落ちていた。甘くも苦い昔の夢に、胸を焼かれながら――
「あなたは、だれ?」
彼女と初めて会った時のことを、レクスはこれまで、何度も夢に見た――
はっきりと、レクスにもわかる言葉で、妖精の少女は彼にそう問いかけたのだ。宝石のような瞳で彼を見つめて、きょとんと。
白い砂底、淡いブルーに輝く水の満ちた、美しい泉。泉の周囲はうっそうとした緑の木々に囲まれ、外界から切り離されているように思える。聖域にあるその泉で、レクスは妖精と出会った。空泳ぐ霊魚、運命精霊グラシャに仕える導きの妖精、始泉のトリリア。泉には他にも彼女と似た容姿の妖精がいたが、腰に細い金のリングを付けているのは彼女だけだったため、レクスにもかろうじて見分けがついた。
妖精の姿が見える者がここを訪れるのは二百年ぶりだ、と彼女は言った。太古の昔、精霊が人間のために妖精を創った時には、多くの人間が妖精を見ることができたのだという。だが歳月が流れ、人が人の文明を築くにつれ、妖精と触れ合うことのできる者は減ってゆき、今や大陸にはほとんど残っていない、とも。
「『我ら、人と共に在り。されど、人は我らを忘れ去りしか』――ひさしぶりに、人間さんとお話できてうれしいなっ」
妖精は人間の扱う言語なら、たとえ未知のものであってもすぐに話せるようになるのだとトリリアは言った。人に寄り添い共に在るために、精霊が――意思を持つ世界法則そのものが――そう定めたのだと。
レクスが、部屋にあった扉から見知らぬこの世界に迷い込んだのだと知ると、トリリアはその瞳をいっそう輝かせた。
「すごい! それじゃ、レクスは違う世界から来たんだね! じゃあわたしが、この世界のこといろいろ教えてあげる!」
胸を張って、トリリアはそう告げた。言うだけのことはあり、トリリアはレクスにこの世界の様々な知識をわかりやすく話してくれた。
「安心して、こう見えてわたしはもの知りなの。今のわたしは『トリリア』だから!」
彼女の話によると、『トリリア』というのは代々、勇者を導く妖精の名前であり、『トリリア』となった妖精は精霊から名前と共に、様々な知識を授けられるのだそうだ。
「『勇者』はね、この世界に『魔王』が現れたとき、人の中から選ばれるの。妖精を見ることのできる人間だけが、聖剣を手にして『勇者』になれるんだよ!」
そう話すトリリアに、レクスはふと、何の気なしに「じゃあ、僕でもなれるのかな」と口にしていた。レクスのその言葉を聞いたトリリアが、目をまん丸にして、それから、ぱあっと輝くような笑顔を見せる。
「――うん! レクスなら、きっと勇者になれるよ! ううん、わたしがしてみせる――歴代の誰よりも立派な勇者に!」
あるいは。彼女のあの笑顔を見た時に、レクスの運命は決まっていたのかもしれない。
レクスはトリリアと共に聖域を発ち、勇者となるための旅に出た。その手には、精霊から託された、水の刃をもつ『聖剣』を携えて。
二人の旅は長く険しい道のりだったが、道程の景色は、レクスがそれまでに見たこともないようなものばかりだった。清らかな水と妖精たちの声で満たされた森。黒煙を噴きながら連なる山々。広大な平原に広がる花畑と、そこから顔を出す兎に似た獣人種族。光すら迷い込む翡翠の谷。止まった時間の中で苔むした遺跡群。暗みから声の響く樹海。古竜の舞う原砂漠……。妖精の少女は、どこであっても常にレクスのそばにいて、その場所にまつわる様々な事柄を語った。
魔物との戦い方をレクスに教えたのもトリリアだった。それまでは運動よりも部屋の隅で本を読んでいるのが常な子供だったレクスだが、剣の握り方から止血のやり方から、何から何まで必死になって覚えた。トリリアは驚くほど教え方が上手かった。どう伝えればレクスが理解するかを把握し、状況に対して常に的確な指示を出した。勇者を導く者、そう名乗るだけのことはあり、ただの子供だったレクスを彼女はあっという間に戦士へと育て上げた。
二人で旅をしながら――レクスは自分の中で、日に日に大きくなっていくトリリアの存在に気づいていた。彼女の声を聞くだけで安心した。レクスの手のひらに収まるほど小さな彼女が、「大丈夫だよっ」と笑いかけてくれるだけで、どんなことでも出来る気がした。他の誰でもなく、彼女のために、勇者であろうと彼は心に決めていた。
歳月にすれば、それはほんの二年ほどの旅路。修羅場をいくつもくぐりぬけ、レクスとトリリアは、魔王の元へとたどり着く。
魔王は狼の身体に竜の翼を持ち、黒い甲殻で全身を覆われた異形の獣だった。放射状に並んだ六つの目は、緑の燐光を放つ眼球の中に、橙の瞳が燃えている。おぞましくも威厳に満ちた闇の世界の王に、レクスは臆することなく戦いを挑む。
怯えることなど何もなかった。彼の頭の後ろの相棒はこれまで、無数の魔物が襲い来る地獄のような戦いの中で、ただの一度も間違った指示を出したことはなかったのだから。運命精霊の眷属たるトリリアは、絶対に間違えない――その彼女が言ったのだ、レクスは勇者だと。必ずや魔王を打ち倒す定めの者だと!
伝承の通りに、三日三晩の戦いの末、レクスは魔王を打ち倒した。細切れになった魔王の身体を前に、レクスはトリリアと勝利をわかちあう。
「やった、やったー! すごいよレクス!」
「はは、あはは! やったな、トリリア!」
二人で泣き笑いしながら、小躍りして喜んだ。旅の間に交わした様々な約束を――もし魔王を倒せたら、二人で、崖の向こうに見えたあの街まで行こう、もう一度あの大きな滝を見よう、あの村の卵料理をもう一度食べよう――今こそ果たしに行こうと、レクスが口を開きかけた、その時。
『扉』が目の前にあった。地面からわずかに浮いて存在する、古ぼけた木製の扉。レクスが、こちらの世界にやってきた時と同じように唐突に、それはそこにあった。
今くぐらなければ、あと数分と持たずに『扉』は消えてしまう。そうなれば次に開くのは、数十年先か数百年先かわからない。それが扉を調べたトリリアの結論だった。
「……ごめんね、レクス。わたし、ぜんぜんお礼できてないのに。こんなにすぐに、お別れになるなんて」
申し訳なさそうにうなだれるトリリアを、レクスはなぐさめた。気にするな、トリリア。(嫌だ、離れたくない――)僕の方こそありがとう。(君と一緒にいられないなんて、耐えられない――)ここまで一緒に旅できて、楽しかったよ。(帰れなくたってかまわない、もっとずっと一緒にいたいのに――)お互いに忘れなければ、いつか、きっと会えるさ。(――僕を一人にしないでくれ、トリリア!)
胸の奥に絶叫を呑み込んで、レクスは笑顔で別れを口にした。トリリアが、今帰るべきだというのなら、そうするのが正しいのだ。彼女は、間違えないのだから。
気がつくと、書斎のベッドの上だった。天井の扉は跡形もなくなっていた。精霊大陸で過ごした二年の歳月は、こちらの世界では一週間ほどの行方不明ということになっているようだった。
レクスはのちにその時の話を、母親とただ一人の親友にだけ、こっそりと打ち明けた。が、母親からは作り話としてそっけなくあしらわれ、親友には大笑いされたため、二度と誰にも話さないことに決めた。
日常に戻り、小学校に通いながらレクスはあせっていた。
元の世界に戻ってから、レクスは毎日のように図書室にこもっていた。妖精の伝承や、異世界譚をはじめとする様々な本を読み漁り、異世界へ行く方法を必死で探していた。自分の中で、彼女がどれほどに重要な存在であったのか、レクスはようやくにして思い知ったのだ――トリリアに、会いたい。その欲求は日に日に強くなっていった。
中学時代。レクスは荒れていた。
二年間、妖精の世界へ行く方法を探し続けたレクスだったが、結果は芳しくなく、中学生になる頃にはレクスはどこか自暴自棄になっていった。そんな時、町中で不良に絡まれている学生を見つけ、助けるという名目でレクスは自ら喧嘩を売りにいった。相手を少々、派手にやり込めたのが災いして――人間相手での素手の戦いに、まだ慣れていなかったということもある――隣町の中学生の不良グループに目を付けられ、結局レクスは中学一年生の一学期のほとんどを、ひたすらに不良連中と喧嘩をして費やす羽目になった。
もっとも、その時に絡まれていた学生――当時、高校三年生だった坂本とは今でも友人であるから、縁というのはわからないものだ。坂本の影響で始めたフィギュアのコレクションという趣味は、トリリアを失ったレクスの心をいくらかまぎらせてくれた。
高校生になって、レクスは半ばあきらめていた。
異世界へ行く方法を探すのはもうやめて、フィギュアを買い集めてはそれを愛でた。家に帰らない母親が預けていく共有生活費を、自分の趣味に使う気にはなれず――気を遣ったというより、プライドの問題である――学校に通いながら短期バイトなどをしてやりくりした。忙しく日々を過ごしていれば、思い悩む時間も少なくて済んだ。
それでも、胸に開いた空虚な穴を完全にふさぐことはできなかった。彼女の代わりなど、どこにもいなかった。
……もし。もし、もう一度会えたなら。
今度こそ、ちゃんと気持ちを伝えようとレクスは思った。気取らず、格好つけず。君と別れたくないと。ずっと一緒にいたいと。