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9 そして勇者も、今は昔


「―――うわああああっ!?」

 暗闇への落下に悲鳴を上げながら、レクスは羽を失ったトリリアを抱きかかえ、必死で目を見開いていた。レクスたちと一緒に落下する瓦礫が、空中でぶつかり合い、砕け、回転し、ぶつかることで軌道の変わったいくつかがこちらに飛んでくる。レクスは小さな瓦礫を左手の剣で打ち払い、大きな瓦礫は蹴りつけて軌道を変え、落下しながら瓦礫をかわしていく。

(――トリリアだけは、守らないと――)

 レクスの頭の中にあるのはそれだけだった。瓦礫を蹴りながら壁へと向かい、そこに剣を突き立ててる。シルシファから預かった剣は、予想以上の頑丈さと切れ味を持っていた。がりがりと岩肌を切り崩しながら、落下の勢いを殺す。

 だが、唐突に壁が終わった。空中に投げだされ、今度こそどうしようもなく自由落下する。

 レクスはトリリアを抱き込むように背を丸め、落ちていく先を見据えた。暗闇の中、トリリアの身体が放つ淡い魔力光が、目前に迫った緑色の地面を照らし出す。くるん、と空中で回転し、レクスは足から落下する。

 どぼんっ。

 水音と共に、全身を包む衝撃。気がつくとレクスは水中に居た。緑の地面に見えたのは水面だったらしい。

 水面に浮かぶと、頭上に光が見えた。はるか上にぽっかりと開いた穴からのぞく空は、いつのまにか夜が明け、白み始めている。レクスは一瞬、自分がどこに居るのか混乱しかけたが、しばらくして理解した。地底湖だ。工場の真下に広大な地底湖があり、そこに落下したのだ。さっきまでレクスたちの居た工場は、どれほどの規模でかはわからないが崩落し、そこから空が見えているということらしい。かなり大きな空洞のようだった――工場全体よりもはるかに広い。今もがらがらと音を立てて瓦礫が降り、周囲で断続的に水音を立てている。

 レクスはトリリアの無事を確認すると、穴の真下から離れようと水面を泳ぎ始めた。ある程度進むと足先に地面が触れ、歩けるようになる。湖の底はすり鉢状になっていたようだ。

 湖の端まで行くと、水かさは足首程度になっていた。振り仰ぐと、穴はさらに大きくなり、まぶしいほどの光がスポットライトのように差し込んでいた。埃がきらきらと舞い、緑の湖面が映しだされ、そして。

 湖の中点に、それはいた。異様な存在感を放つ、巨大でいびつな、肉色の塊。ぬらりとした体表は、脈打っているようにも見える。とはいえ、生物らしい器官は何も付いていない――否、塊の中心に、ひとつだけ目があった。薄く燐光を放つグリーンの眼球に、毒々しいオレンジの瞳。肉塊の瞳はまっすぐに、レクスに視線を注いでいた。その瞳に、見覚えがある――

「魔王――」

 懐に抱いたトリリアが、震える声でつぶやくのが聞こえた。肉塊が、にたり、と目を細めて笑う。すべてを理解して、レクスはうめいた。

「……てめえの仕業だったんだな。妖精たちや魔物をこちらの世界に引き込んだのも。イートを通じて、オニキスに力を与えていたのも」

 魔王。いや、その欠片と言うべきか。かつての、おぞましくも威容を誇る姿はもはや面影もない。肉塊から発せられる感情はただ一つ、己をこの姿に追いやった全存在への憎悪のみ。

「しくじった、ってわけだ、おたがいに。あの時、僕はお前を(たお)し損なったし、お前は死に損なった。イートを支配し、妖精を共食いさせて集めた力でこっちの世界に逃れてきたんだな。後はオニキスを利用して妖精から力を奪い取りながら、じっくり回復する予定だったんだろ?」

 肉塊が震えた。周囲の水に流れが生まれ、波紋を逆再生したかのように中心に集まっていく。緑の水は肉塊を覆い、魔王の新たな身体を造り上げていく。肉塊を中心に、無数の触手がのたくり、もつれ合う。

「レクス……」

「隠れてろ、トリリア」

 レクスは剣を構えた。トリリアが驚いたように叫ぶ。

「まさか、戦う気なの!? 待って、レクス――」

 触手の海の中から、巨木のような『腕』が二本伸びる。そのうちの一本が、こちらに向かって振り下ろされた。レクスは洞窟の端に沿って移動しながら回避する。振り下ろされた腕は、地面に潰れて広がり、触手の群れになって追ってくる。足を速めて逃げていると、残るもう一方の『腕』が先端をこちらに向けているのが見えた。

 舌打ちして、レクスは方向転換した。湖の中心へ向かって走る。

 腕の形に束ねられた水触手の奔流が、一直線にこちらへと伸びる。レクスは姿勢を低くして、深みを目指し水の中へ潜った。触手の奔流が地底湖の岩壁にぶつかり、洞窟を揺らす。

 上手くかわせた。そう思った矢先、水中で足首をひっぱられ、血の気が引いた。抗う間もなく、水中から空中へと引きずり出される。『腕』から分離した触手の一本が、足首に巻きついてレクスをぶら下げていた。触手がしなり、岩壁へと叩きつけようとする――

 直前。レクスは剣を閃かせ、触手を切断した。空中に投げだされ、回転しながら落下する。

 落下するさなか、触手の群れが、その先端をこちらへ向けるのが見えた。殺気。触手の先端が、槍のように尖っている。

(まずい――空中じゃ回避できない!)

 悟って、レクスは青ざめた。手の打ちようがない。

 瞬間、懐のトリリアが、ぶるっと身体を震わせた。彼女の背中で、イートに食いちぎられた羽の根元が、激しく輝く。わずかに残った力を使い、彼女が魔法を発動する。

「斜め切上げて右膝上ッ!!」

 切羽詰まった早口の、だがはっきりと通る声でトリリアが叫ぶ。レクスは反射的に彼女の指示に従っていた。剣を切り上げつつ、右膝を上にあげる――

 同時に、水の槍と化した触手が、一斉に突き出された。目にもとまらぬ速さの触手、だがそのうちの数本を、トリリアの指示通りに振り上げた剣が切り裂き、水に戻す。同時に、残りの槍がレクスの全身に突き刺さり、激痛が走る。

「ぐっ――」

 悲鳴をこらえながら、レクスは剣を振り、身体に刺さった残りの槍をすべて切り落とした。浅い水深に背中から落下し、受け身も取れず背中を強打する。

 刺傷は体中に及んだが、即死するような傷はかろうじて無かった。急所を狙う触手を、トリリアの指示による斬撃が打ち払い、上げた右膝が代わりに受けたのだ。

 即死は免れたが、代償に負った傷も無視できるものではなかった。出血は甚大、このままならほどなく死ぬだろう。右膝下の損傷が一番ひどく、膝関節から下が今にも千切れて落ちそうだ。

 力の入らない腕で上体を起こし、左膝を立てる。七年前の修羅場を思えば、片足で立つくらいはわけはない――だが、それで満足に戦えるわけもない。剣はと見ると、度重なる無茶な扱いに耐えかねたのか、刀身の中程で折れていた。

「へっ……」

 絶望的な状況に、妙な笑みがこぼれる。周囲すべてを、触手が囲んでいた。蠢く水触手の奥、地底湖の真中で、魔王の瞳が笑みを深くする。

「レクス、ごめんね……」

 トリリアが、涙声で言う。羽の光はもう消えていた。今ので残る力をすべて使い果たしたのだろう。

「わたしは――『トリリア』は、勇者を助けるためにいるのに。もう、何もできない。なんの役目も果たせない。ごめんね」

 小さな身体を震わせて、妖精の少女が涙をこぼす。ここまで気弱になっている彼女を、レクスは初めて見た。どんな窮地でも、彼女は運命を司るその力をもって必ず活路を見い出し、勇者を勝利へと導いた。

 だがその力も今や失われた。手元にあるのは魔を滅する聖剣ではなく、折れた鉄の剣だった。かつてレクスを、何も持たない少年を勇者と呼ばれる存在に引き上げていたすべては、もう無い。

「前言を撤回する」

 だからレクスは、静かに答えた。小さな小さな、彼の相棒に向かって、優しく微笑みながら。

「僕は、勇者だ」

 片足で立ちあがり、折れた剣を、魔王へと突き付ける。

「君が、そうあれと望んでくれるなら。いつだって僕は、昔と同じままの勇者だ。誰にも負けない、どんな不利な状況だろうと、誰が相手だろうと最後には必ず勝つ。そうだろ? トリリア」

「レクス……」

「僕が勝つ。信じて、見ていてくれ」

 トリリアは、驚いたように目を丸くして――それから、いつものように無邪気に笑った。

「うん。信じるよ。レクスのこと」

 二人を嘲笑うように、水触手の群れがさざめく。触手らは悠々(ゆうゆう)と、とどめの準備を始めていた。先端が尖り、水の槍となる触手。表面を白く凍りつかせ、冷気を撒き散らす触手。緑色を濃くした触手の先端から垂れた液体が、水面に触れた瞬間白い煙を上げる。酸だ。いずれも凶悪な水の魔法をまとわせた触手が、数百本――あるいは数千本か――そのすべてが、殺意を持ってレクスたちに向けられている。

 立っているのがやっとの身体で、レクスは不敵に笑った。

「ご大層なこった。そんなに僕が怖いかよ? 魔王サマ」

「しょーがないよねっ。だってレクスは、この世のすべての魔物が恐れる、勇者サマだもん!」

 なぜか右肩によじ登りながら、トリリアが言う。彼女は右肩に仁王立ちになると、胸を張って宣言した。

「我こそは、運命精霊グラシャの眷属! 始泉のトリリアここにあり! これより、我が導きし勇者と共に、古に定められし魔王調伏を()り行わんとす! しんみょーにするがよい、魔王! ほら、レクスも!」

(おう)っ! 十一代目勇者・剱野レクス! 聖剣を手に――まあ普通の剣だし折れてるけど――実質的聖剣・生ゴミスレイヤーを手に、魔王! 貴様を討つ! かかってきやがれ食い残しの生ゴミが! 三角コーナーにぶち込むぞコラァ!!」

「お花畑の肥料にすんぞこらぁー!」

 レクスの宣言に続けてトリリアが吠える。触手の群れが怒りに震え、殺到する――

 その、一瞬前に。無数の炎の矢が、頭上から降りそそいだ。高熱を伴う赤い光条が、次々に水の触手を貫き、蒸発させていく。

「『赤く溶かすマデル――打ち鳴らす鉄翅――吼え口の列獣――』」

 地底湖に朗々と響く詠唱。赤い光に包まれた少女が、薄闇を引き裂きながら、空中を飛翔する。

「夏原!?」「アムニア!」

 レクスとトリリアは同時に声を上げた。杏華の傍らには炎の妖精の姿もある。炎の魔力を火の粉のように振り撒き、まるで自身が巨大な火の玉と化したかのような姿で、彼女たちは水の触手を消し飛ばしていった。

「『――灼流の山脈にて憤慨し――地を喰らい――空を穿つ』!!」

 詠唱の末尾と共に、杏華が黒剣を魔王へと付き付ける。剣先から、赤い光熱波が放たれた。水触手の覆いを貫き、魔王の肉塊に到達して爆発し、その身体の一部をえぐり飛ばす。肉片が飛び散った。巨大な緑の眼球が、自身が傷つけられたことへの驚きに揺れている。

「あ、当たった! ど、どうよ私の魔法の威力は! 見た、アムニア!?」

「わかったから落ち付け。飛行制御をミスるなよ」

 興奮気味の杏華をアムニアがなだめる。二人は高度を下げつつ、水面に降りはせずに低空飛行しながら、レクスの近くまでやってくる。

 杏華が、「剱野! 助けに来てあげたわよ――」とドヤ顔をしながらレクスを見て、さあっと青ざめた。

「つ、剱野っ!? それ怪我っ!? 凄い怪我して――ち、血がいっぱい出てるわよ!?」

「いや、うん、知ってる」

 わたわたと取り乱す杏華にどう答えればいいかわからず、とりあえずうなずく。血に耐性がないのか自分が倒れそうなほど蒼白になっている杏華に、アムニアが「お前は黙っとれ」とあきれ顔でぼやいた。

「手短にいこう、大将。あれは魔王だな?」

「ああ」

 アムニアの指さし確認を、レクスは首肯する。アムニアは「そうか」とうなずき返し、それから何を思ったか、レクスの目をじっと見つめた。

 ふっ、と小さく笑みを浮かべて、アムニアは告げる。

「わかった。わたしたちがサポートをする……まかせておけ。行くぞ、杏華」

「う、うん……剱野! あのね、しゅっ、出血した時は傷を心臓より上にして――」

「いいから行くぞ、阿呆」

「また阿呆って言った!? もう絶対許さないからね! ちょっと、アムニア聞いてるの!?」

 騒がしく言い合いながら、アムニアと杏華が飛翔する。

 魔王は水触手を再生させ、今度は杏華を捕えようとしていた。杏華は空中を高速で疾駆しながら、炎の矢で触手を焼いていく。そのうちの幾本かが魔王の本体、その巨大な緑の瞳を狙うが、不自然な軌道で逸らされていた。

「魔力で阻害してる。炎の矢じゃ届かない」

 真剣な眼差しでその光景を見つめながら、トリリアがつぶやく。

「さっき夏原が撃った赤い光線、あれなら効くか?」

「効く、と思うけど……もうあのレベルで撃つの難しいかも。触手の再生速度が上がってる。焼き払うのが精いっぱいだよ。このままじゃ……」

 危ぶむように言ったトリリアが、ふと、何かに気付いたように空を見上げた。

「……トリリア? どうした?」

「『歌』……」

「歌?」

 聞き返しながら、レクスもまた、何かが始まっていることに気がつく。

 憎悪が満ちていた地底湖の空気に、違う感情が混ざり始めた。――『喜び』。水場ではしゃぐ子供のような、無邪気な笑い声が、どこからか響く。澄んだ水音が聞こえる。どこかから涼やかな風が吹いてくる。

 トリリアの聞いていた『歌』はすぐに、レクスにも聞こえるようになった。複数の少女の歌声。どこか聞き覚えのある異世界の言語で、あるいは風の音や水音のような自然の声で、(つむ)がれる歌。地底湖の壁に反射して響き、歌声は大きくなっていく。

 アムニアとシルシファの助けた妖精たちだ。彼女たちがいつのまにか、地底湖のいたるところに浮かび、歌声を響かせている。

「はぁーいみなさぁん、もっと自由に、もっともぉっと楽しんで歌ってぇ~♪」

 シルシファが、上空で舞うように指揮を取っていた。彼女の優雅な手ぶりに合わせ、周囲の妖精たちが舞い踊り、歌う。とはいえ、大人しく一緒になって歌っているものばかりではない。追いかけっこをしながら笑いあっているもの、でたらめな言葉で好き勝手に歌っているもの、ばしゃばしゃと水を跳ね散らかして遊ぶもの。自由気ままに、奔放に。妖精たちがこの世の喜びを、『歌』として奏でる。

 地底湖の水が輝き始めた。岩壁が苔むし、シダ植物が生い茂る。鉱物の結晶が岩から突き出し、陽の光を受けてきらきらと輝く。空間に魔力が満ちていた。水底の岩から閉じ込められていた空気の泡が立ち登るように、妖精たちの歌う喜びが世界そのものを震わせ、眠れる力を呼び起こす。世界に眠る余剰力。新たな現象を定める力――魔力(マナ)

「トリリア。運命の導き手たるあなたに、わたしたちの力を託しますぅ」

 くるりと転礼して、シルシファが告げる。トリリアが、こくりとうなずいた。空間に満ちる魔力が、彼女へと収束していく。

 レクスは折れた剣を腰に差し、すっと右手を突き出していた。トリリアが右手の甲の上に立ち、魔力を迎え入れるように両手を広げる。

 魔力が彼女へ流れ込む。輝きが、失われた羽の形を成していく。いや、それは元の羽とはまた異なっていた。ゆったりと波打ちながら広がっていく二対のそれは、光の糸で形作られた、魚のひれだ。運命の流れを泳ぐ霊魚――運命精霊グラシャの胸びれ。

 満ちた魔力が、トリリア自身の中に眠る、異世界の精霊の力を呼び覚ます。運命精霊の眷属として覚醒したトリリアが、静かにこちらを振り向く。輝きを増したアクアマリンの瞳がレクスを映している。その小さな身体の中に、あふれんばかりの魔力が満ちているのを感じた。彼女はそのまま、いつものようにレクスの手の甲に口づけようとして――ふと、取りやめた。

(……ん?)

 いぶかしむレクスの顔を見上げ、トリリアは「ふふっ」と悪戯っぽく笑う。そして、音もなく空を舞い、レクスの顔の前まで来ると――唇に、口づけをした。

 瞬間、彼女の小さな唇を介して、熱い魔力が身体の中に流れ込んでくる。満ちた魔力が全身を巡り、傷を塞いでいく。『治癒』の魔法だ。

 そして、一瞬の間を置いて、レクスは赤面した。

「お、お前なぁ……」

 耳まで真っ赤に染まりながら、うめく。

「不意打ちでそーいうの、やめろ……照れるから」

「えへへー♪」

 身体の後ろで腕を組み、トリリアが自分も照れたように赤くなって笑う。

「……ったく」

 レクスは苦笑いしながら、治癒した右足で一歩、踏み出した。トリリアが頭の上に立ち、ささやくのが聞こえる。魔王を見据え、静かに、力強く。

「――いでよ、聖剣グラスカラド」




 魔王の周囲を飛び回りながら、杏華は焦りを覚えていた。触手の再生速度は増していき、こちらの魔法を練る暇がない。

 炎の矢を撃ち続けた黒剣は極度に熱され、刀身が溶岩のように赤く光っていた。柄の部分までもわずかに赤くなり、握っているだけで手の皮が焼き(ただ)れていく。今にも手放してしまいそうになるのを、杏華は必死で抑え込む。

「杏華、無理するな。いったん休むぞ」

「駄目よ!」

 気遣うようなアムニアの提案に、即座に叫び返す。手の火傷など気にもならない。全身に傷を負い血まみれになった彼の姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

「私たちが退いたら、あいつは剱野を狙うかもしれないでしょう!? 連れてきた妖精の子たちも、危険かも――絶対に退けない!」

 アムニアはなおも何か言いたげな気配だったが、杏華はもうそれ以上聞かずに剣を振り、触手に向けて炎の矢を放った。が、痛みで狙いがずれ、撃ちもらした一本がこちらへと向かってくる――

(しまった!)

 杏華は絶望的な思いでその光景を見ていた。次の矢が間にあわない。恐怖から思わず目を閉じそうになった、その時。

「ありがとな、夏原」

 背後で、そんな声が聞こえた。同時に、目の前の触手が水になって弾け飛ぶ。

「……へ?」

 きょとん、とそれを見つめる。何が起こったのかわからない。一瞬、剱野の声が聞こえた気もしたが。

「……退くぞ、杏華。どうやら、わたしたちは務めを果たせたようだ」

 先ほどとは違うトーンでそう言って、アムニアが肩をすくめる。

「ここから先は、勇者の仕事だ」


 白い象牙の柄。黄金の竜の鍔。その刀身は、光を受けてきらめく水面そのもの。

 完全復活した聖剣を、レクスはあらためてじっと見つめていた。彼の人生において、どんな道具よりも手に馴染んだ武器。破邪の聖剣グラスカラド。

 前方に迫りくる触手を、レクスは一太刀で斬り払った。斬られ、弾けた水触手は魔力を霊剣に吸われて、完全にただの水へと戻っていく。魔王が水の妖精から奪った魔力を、グラスカラドが取り戻し我がものとする。

「今度は、七秒ってことはなさそうだな」

「七十七万七千七百七十七秒は保つよ」

 トリリアが得意げに言う。いつものように、レクスの頭の上から。

「レクス、後ろ!」

「おうっ!」

 レクスは走りつつ、回転しながら後ろの触手を斬り、速度を落とさず前に向き直った。進んでいるのは水面である――トリリアの魔力で一時的に固形化した水を踏み、走る。湖の中央に鎮座(ちんざ)する魔王へと向かって。

 魔王は、仇敵の襲来に気付いたようだった――先ほどよりも数を増した触手が、レクスを捕えんと襲い来る。レクスは聖剣を構え、(おく)することなく触手の只中に突っ込んだ。

 群れをなした触手は、グラスカラドの格好の餌食だった。一振りするだけで数十本単位の触手が弾け、魔力を奪われ、根元まで連鎖して自壊していく。

「右後ろ斜め!」

 トリリアの声。死角から近づいていた触手を振り向かず斬る。

「上に触手が四束、回避左斜め前! そのまま前方空きに跳んで!」

 せわしなく指示が飛ぶ。すべてこなしながら、レクス自身もまた状況を判断し剣を振るう。さらに大量の触手がグラスカラドに斬り飛ばされ、水に帰した。

「右袈裟がけ! 跳んで下、氷! 右横くぐる、三束屈んで、回る左空き突いて五束右斜め――」

 トリリアの指示は簡略化され、ほとんど理解できないものになっていた――少なくとも、普段のレクスなら理解できなかっただろう。だが今は違う。声を聞いた瞬間、身体が動く。七年前、そうしていたのとまったく同じに。

 彼女のすべての指示を理解し実行できる、というより、理解できていようがいまいが関係ない、というのが近い。レクスは指示された瞬間に身体を動かすだけだ。「指示の結果、レクスがどう動くか」すら、トリリアは予測し把握する。それはもはや、予測というよりは予知の域だ。

 彼女は、絶対に間違えない。運命の流れを泳ぐもの。すべての運命流が生まれる『源泉』を司る妖精――『始泉のトリリア』!

 目の前の触手を薙ぎ払い、振り撒かれる酸の雨を踊るようにかわし、氷の礫を空中で蹴り返し、水の槍を到達前にすべて切り落とす。水面を跳び、触手の群れを踏みつけ、くぐり、本体の元へと進む。

 魔王の眼前に、レクスは立っていた。魔王の巨大な瞳が、恐れるように揺れる。レクスはにやりと笑みを返した。

「七年前の続きといこうか、魔王――」

「上から二束……あ」

 指示を出していたトリリアが、ふと何かに気付いたように言葉を止めた。

「どうした?」

「……勝った」

 ぽそっと、当たり前のようにトリリアがつぶやく。レクスはたまらず噴き出した。

「おま、そりゃないだろ。さすがにもうちょい空気読んでやれ」

「えー、だってー見えたんだもん。あ、触手が降ってくるよ。かわして登ってー」

「あいよ」

 残る触手のすべてが、二つの大きな束になって振り下ろされてくる。斬りつけて数を減らしながら、レクスは触手自体を足場に、左右に蹴りつけながら上へ上へと登っていく。

「右足、二秒無視」

 トリリアの予測通り、横合いから伸びてきた触手がレクスの右足に巻き付き、空中に引き上げる。巻き付かれてから、きっかり二秒だけ無視して、レクスは触手を断った。気がつけば、魔王の巨体よりも少し高いくらいの空中に、レクスは浮かんでいた。

「右の一束、蹴って下!」

 迫る触手束を蹴りつけ、跳び、そして到達する――魔王の真上へと。水の触手に覆われた肉塊、その中央に開いた瞳が、レクスを見失ったのかぎょろぎょろと激しく動き回っている。

「構えて――」

 聖剣を逆手に構え、握る右手に左手を添える。切っ先を真下に向け、そのまま落下していく。

 ぎょろり、と、巨大な緑の目玉がこちらを見上げた。オレンジの瞳がレクスの姿を捉え、「ギョッ」としたように瞳孔が収縮する。反射的に、魔王は身体を沈みこませ、予想外の位置に居たレクスをよく見ようとしてしまった。身体を上に傾け……目を見開いて。

「――『落ちろ』」

『落下制御』。妖精にとって最も基本的な、重力操作魔法をトリリアが唱える。最も突き刺しやすい体勢になった魔王の瞳へ向けて、レクスは一直線に落下した。すべての触手が間にあわないほど速く。

 魔王の瞳の中央に、聖剣の刃が、深々と突き立った。


 瞳を――最大の弱点を貫かれ、魔王の身体が震えだす。水の触手を繋ぎとめていた魔力が制御を失い、触手がただの水に戻っていく。肉塊が支えを失い、落下を始めた。口を塞がれた無数の獣が全身で悲鳴を上げるような、凄まじい断末魔が、地底湖に響く――

 大きな水柱を上げて、肉塊が湖面に叩きつけられる。衝撃で肉塊がバラバラになり、溶け崩れながら、水面に広がっていった。

「めでたしめでたし――ってか」

 肉塊と一緒に水面に落下したレクスは、立ち泳ぎしながらその光景を見ていた。

「……あの肉の欠片も、始末しておいた方がいいだろうな。今度こそ、完全に終わらせてやらないと」

「ぅん……」

 頭上のトリリアに問いかけると、やけに眠そうな答えが返ってくる。レクスがトリリアの様子を見ようとした、その時。

 最も大きな肉片の上に、唐突に、一人の妖精の少女が現れる。他のどの妖精とも違う、黒い髪に、黒い瞳を持つ妖精。『共食い』イート。

 イートは、己の主の肉片をながめ、それからにんまりと唇を歪めて、

「――トゥーカ♪」

 歌うように、ささやいた。

 肉片に、彼女の唇が触れる。次の瞬間、ずるり、と小さな口に肉片がすべて吸い込まれた。物理的にあり得ない容積を吸い込んでなお、イートは物欲しげな視線を送る……水面を漂う、他の肉片へと。

 イートが湖面を漂う魔王の肉片を次々と喰らっていくのを、レクスは呆然と見ていた。およそすべての肉片を瞬く間に平らげたイートは、満足げに唇を舐める。彼女のまとう白い妖精服に、じわり、と真っ赤な染みが広がった。純白の妖精服が、鮮血の紅に染まっていく。

「……あは。あは、あははっ。あは、あはははははははははは!」

 総毛立つような声音で、イートはけたけたと笑い――それから、虚空に溶けるように、姿を消した。

「……そっか。あなたも、選んだんだね。その名前を、捨てないことに決めたんだね。……『イート』」

 トリリアのそんなつぶやきが、妙に、耳の奥に残った。




 魔王が消滅し、地底湖にたちこめていた邪気を押し出すように、妖精たちの歓声が満ちていた。彼女たちは思い思いに遊びながら、洞窟内に自然を芽生えさせていく。ひょっとしたらここもいずれ、聖域のように、妖精たちの住処になるのかもしれない。

「しかし、我が街の地下にこんな洞窟があったとはね。魔王が掘ったのかな? なあ、トリリア」

 岩壁に向かって泳ぎながら、頭上のトリリアに話しかけるが、返事がない。ふと、ついさっきまで頭の上にあった、ほんのわずかな重みが消えていることに、レクスは気付いた。

「……トリリア?」

 そっと頭の上に手を乗せる。何もない。

 レクスがぎょっとしたその瞬間、右手に持っていた聖剣――グラスカラドが霧散した。刃だけではなく柄ごと、透明な水と化し、手からこぼれ落ちる。

 腹の底に冷たいものが流れ込む。レクスはあわてて水の中を見下ろした。透明度が増した水の中にはきらきらと朝日が差し込み、小魚らしき姿すら見えるが、そこに青い妖精の姿はない。エメラルドの像らしきものが湖底に突き刺さっているのも見えたが、それはどうでもいい。

「トリリア!? どこだ、返事しろ! おいって!?」

 レクスは大声を上げてトリリアを呼んだ。湖上で遊んでいる妖精の群れを見つけては泳いで近づき、血眼で探すが、トリリアの姿はない。

「な、なあ、トリリアを見なかったか?」

 妖精たちに尋ねるも、彼女たちはきょとんと目を丸くするだけだった。トリリアと同じ青い髪、白い服の聖域の妖精たち。よく似ているが違う。いや、あるいは。

(まさか、トリリアが名前を捨てなかったのは、魔王が完全に死んでいないことをどこかで察知していたからなのか?『魔王を倒す』という役割を、今度こそ完全に終えたトリリアが、『名前を捨てた』……?)

 妖精の人格や記憶は、大部分がその名に依存する。トリリアやアムニア、シルシファのような固有の名を持つ妖精は固有の人格と記憶を持つが、名もない群体の妖精は、その群体で記憶と人格を共有する。かつて聞いたその説明が、脳内でぐるぐる回っていた。

(名を捨てたトリリアは――他の妖精と見分けがつかない? まさか、そんなはずは――)

「トリリア―――!!!」

 身も世もなく、レクスは声を張り上げた。声は広い地下洞窟に反響する、だが返答はない。レクスは必死で泳ぎ回り、湖岸を走り、妖精たちの間を探し回る。トリリアによく似た妖精はいくらでもいた。だが、彼女がいない。七年前、レクスと共に旅をした彼女が、どこにも。それでは意味がない。

「トリリア! トリリアっっ!! ふざ、けんなよっ、お前!! さよならも無しかよ、おい!! 僕が、僕は七年間、どんな気持ちで……」

 叫ぶ気力すら尽き、浅瀬で膝をつく。知らぬうちに涙をこぼしていた。

「……後悔、してたんだ、僕はずっと。七年前、あの時、別れたくないって言えばよかったって。困らせるだけだったとしても、一緒にいたいって、言うべきだったんだ。せっかく、また会えたのに。これじゃ、あの時と同じじゃないか……」

 これまで、ぎりぎりで取り繕っていたものすべてが剥がれ落ちていく。レクスは幼子のようにしゃくりながら泣き続けた。ぬぐっても、後から後から涙があふれてくる。

「僕が勇者なのは、君がそう望んでくれたからだ。君がいなかったら、僕は何でもない。何もできないただのガキだ。僕を、置いていかないでくれ、トリリア。一緒にいてよ。君がいいんだ。君じゃないと嫌なんだ。トリリア。トリリア……」

 妖精たちが心配そうに見守る。涙で覆われた視界の中、水を掻き分ける足音と共に、杏華がアムニアを連れて近づいてくるのが見えた。

「剱野……」

「……夏原。アムニア。トリリアが、いないんだ。どこにも……」

 杏華は、少し驚いたような、困ったような表情を浮かべてレクスの話を聞いていたが、やがてすっと手を上げ、自分の首の後ろを、とんとん、と手刀で叩いた。

 レクスは最初、その意味がわからなかったが。

 ……ふと、あることを思い出し、首だけを曲げて、自分の背中を見た。パーカーのフードが、ぼんやりと、青い燐光を放っている。右手でフードを引っ張って、中が見えるようにする。

「……ぅ、うにゃ~………」

 茹でダコのように真っ赤になって、フードの中でうつむいている妖精がそこにいた。トルマリンブルーの短髪。白いふわっとした妖精服に、金のリング。光の羽はほどけて消え、元のちぎれた状態に戻っている。

「ぅにゃ……」

「………。………」

「……にゃ~……」

「………えーと。………何してはるんですか、トリリアさん?」

「あ、あのね、ちがうんだよレクスっ。わたし、ちょっと力尽きちゃって、気付いたらここで寝ちゃってたの」

 わたわたと手を振って、トリリアが言い訳を始める。

「それで目を覚ましたら、レクスがなんかすごくわたしの名前呼んでて、この空気いったいどのへんで出ていくのが正解なんだろうーって思ったらわかんなくなっちゃって……」

「あーいう空気の時は、即座に出てこい!! お願いだから! 時間がたてばたつほど、あらゆる意味でダメージが重なっていくだけだから!」

「だってだって、また羽が無くなっちゃったから、正しい運命の選択がわかんなくてっ」

「なんでも運命魔法に頼るんじゃありません! 自分で考えなさい!」

 トリリアと同じくらい赤面しながら、レクスはわめく。ざぶさぶと水音がして、レクスの肩にぽん、と手が置かれた。

「ま、まあ、良かったじゃない……離れ離れにならなくて」

 杏華だった。口に手を当て、ぷるぷると肩を震わせながら言ってくる。

「ねえアムニア、良かったわよね。ハッピーエンドってやつよね?」

「おうともさ。このアムニア、大将のトリリアを思う心に、いたく感動した」

 しらじらしい無表情で、アムニアがうなずく。

「普段はクールガイな勇者の大将が、こんな熱い一面を持っていようとは。これぞ愛というやつだな」

「やめろ。普段の僕をクールガイと呼称することも含めて、やめろ」

 レクスが半眼でそう言っても、アムニアは表情を変えずしばらく黙していたが、ふと口を開き、声音を低くして、

「『君じゃなきゃ嫌なんだ、トリリア!』」

「ぶふっ……!?」

「お前らあとで覚えてろよ!? 僕はこういう屈辱は絶っ対に忘れないからな!!」

 唐突に物真似をするアムニアと噴き出す杏華に、それぞれ指を突き付けて叫ぶ。

 と、トリリアが肩に登るのを感じた。小さな手が、紅潮した頬に触れる。背伸びをし、レクスの耳に口を近づけて、彼女がささやく。

「ありがと、レクス。うれしい」

「……ん」

「あのね、レクス。………わたしがね、レクスがわたしたちの世界から去っていったあとも、ずっと『トリリア』でい続けたのはね。この名前が、レクスの呼んでくれた名前だったから。レクスと一緒に旅したトリリアは、わたしだけだったから。それを、忘れたくなかったの。……だから、レクスがわたしのこと、トリリアって呼んでくれて、うれしかったよ。他の誰でもない、わたしを」

「……トリリア」

 レクスは首をまげて彼女のほうを見た。小さな青い瞳が、濡れたように輝いている。

「わたしのこと、忘れないでくれて、ありがとう。――わたしの、勇者さま」

 えへへ、と照れたように笑って、肩の上を後ろに跳ねたトリリアが、「にゃっ?」と足を滑らせ、落ちそうになる。レクスはとっさに手を出して受け止めた。レクスの手の中に、小さな妖精の身体がすっぽりと収まる。

 手の中のトリリアと、視線が合った。彼女が、ふっと優しげに表情を緩ませる。

「レクス。あなたがそうあれと望んでくれるなら、わたしはいつでも、ここにいるよ。たとえわたしが、『始泉のトリリア』でなくなっても。それでもわたしはいつでも、あなたの相棒だから」

 少し寂しげに、ちぎれた羽を見やりながら。

「さっきみたいな力は、もうきっと、戻ってこないけどね」

 レクスはかぶりを振った。彼女の瞳を、まっすぐに見つめ返しながら。

「僕らは、ひとりじゃない。だから、大丈夫さ」

「そうかも。そうだね。たぶん、ううん、きっと」

 運命の正しさは、もう望めなくとも。二人で顔を見合わせて、お互いがそこにいることを確かめる。今はきっと、それだけがあればいい。

 トリリアを頭に乗せた。あるかないかもわからない重み。だが、それこそが何よりも確かに、存在を伝えてくる。この重みを忘れない限り、きっとどこまでも、前に進んでいける。

 さしあたって、まずは。

「私を置いていかないで、アムニアー!」

「おおー、我が友よおー!」

「――お・前・ら・ぁぁぁぁぁああああ!!!」

 少し離れた場所でふざけて抱き合っている杏華とアムニアに、レクスは怒声を上げて突っ込んでいった。黄色い悲鳴を上げて逃げ出す二人をさらに追うと、トリリアがけらけらと笑いながら、頭の上で指示を出す。

「いっけー、レクス! あいつらは水の上では遅いぞ! 飛ぶ前にしとめるんだー!」

「まかせろぉっ!」

「やばい、やつら本気だ! 逃げるぞ杏華、変身しろ!」

「こ、怖っ!? 『妖精騎乗(フェアリオン)』!――てちょっとまって、変身中の攻撃は反則っ、きゃあああ―――」

 湖水を跳ね散らかして、人と妖精がいっしょくた、同じようにはしゃぎながら追いかけあい、笑いあう。その光景を眼下に見ながら、シルシファはくすくすと微笑んだ。

「『我ら、人と共に在り』。願わくば、いつまでも――ですねぇ」

 大騒ぎの地底湖に、妖精たちの無邪気な笑い声が、いつまでも響いていた。


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