15 空 (2)
15 空 (2)
意識の成りたち - 究極の私はどのような存在か?
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《 意識の成りたち - 究極の私はどのような存在か? 》
1) 意識の成りたち
a) 物理的意識(意識の本体)
b) 非物理的意識(観念的な存在としての私)
2) (脱線) 物理的意識・非物理的意識・哲学的ゾムビ
3) (参考) 実体と観念
A) 実体
B) 観念
4) 生体の自発的かつ主体的な動き(働き)
5) 細胞の意識と組織や器官の意識
6) 物質にそなわる作用から意識の働きまでについてのスケチ
i) 物質での作用の働きの流れ
ii) 微生物・単細胞生物・細胞の意識の形成と働き
iii) 多細胞生物・組織・器官の意識の形成
iv) 人間(動物)の脳での主観の意識の働きの流れ
v) 物理的意識の身体感覚作用
vi) 物理的意識の思考作用
vii) 人間(動物)の脳での主観の意識の成りたち
viii) 究極のわたし(と思考の帰属)
ix) わたしの意識の拡張部分・身体感覚・感情や欲望
7) 意識が空である二つのケイス
I) 物理的意識は、エナァジで体現される実体ではありながら、物質的(巨視的)には空ぽである。そして、非物理的意識は、エナァジで体現される実体でさえなく、物理的に空ぽである――観念的である――。
I-a) 物理的意識(意識の本体)
I-b) 非物理的意識(観念的な存在としての私)
II) アイドゥル状態にある物理的意識は、その作用が活性化されていぬという点で空ぽである。(なにも処理されていぬ)。このため、物理的意識の働きの影・投影・残響・痕跡・モニタァなどとしての非物理的意識も、感覚や思考にかんして空ぽである。
8) 究極の私たる非物理的意識にそなわる見る(感知する)作用
9) 「空」についての宗教的(人文的)な関心
10) 物理的意識の思考作用による思考の形成
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1) 意識の成りたち
本末転倒のようですが、意識は、実際には、二種類の意識の重なりから成りているよう、推測されます。
意識 = 物理的意識 & 非物理的意識
(ちなみに、ここでは、エナァジで体現される実体であることを、「物理的」と想定しています。エナァジで体現されるものは必ず物理的です。
ひるがえり、エナァジで体現される実体ではないことを、「非物理的」と想定しています。エナァジで体現されないものは、もしもそういうものが存在するなら、かならず非物理的です。そして、さらに、「非物理的」は、「観念的」と等価であると想定しています。(エナァジでは体現されない)非物理的なものが観念です。観念はかならず非物理的です)。
a) 物理的意識(意識の本体)
物理的意識は、エナァジで体現される実体である、身体感覚作用――源は、物質作用の基本観測――と、思考作用――源は、物質作用の基本演算――から形成されます。物理的意識は、意識の、自発的・主体的・能動的な作用そのものであり、一人称の主体です。そして、物理的意識は、意識の、物理的な本体であり、中核です。(物質に具わり、かつ、自発的に動作しつづける物質作用が、あらゆる一人称の主体の源です)。
b) 非物理的意識(観念的な存在としての私)
非物理的意識は、物理的意識の作用の働き(動き)の影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなものです。それは、エナァジでは体現されず、エナァジで体現される実体でなく、非物理的(= 観念的)です。動きについては、受動的で、静的で、スケイラァのようなものです。そして、一つの巨大かつ包括的かつ統合的な観念です。非物理的意識は、観念であり、受動的で、静的なので、三人称の客体である物質に似て、やはり、三人称の客体です。
しかし、これが、観念的な存在としての私です。そして、私たちの意識の覚える動きの印象――生きているという印象――は、たくさんの静止画の、外的な原動力による、連続投影のようなものとして齎される、と推測されます。しかし、いずれにしても、非物理的意識は、影やモニタァのようなもの・スケイラァのようなもの・三人称の客体であり、静的で、受動的です。観念的な存在としての私たる非物理的意識に、自発性・主体性・能動性は具わりてはおりません。
2) (脱線) 物理的意識・非物理的意識・哲学的ゾムビ
ちなみに、物質にそなわる物質作用群の働きは、(おそらく時間を要することなく)瞬時に完了します。
(このゆえ、物質作用群の働きは時間の経過のなかにて間延びせず、その結果、影・投影・残響のようなものは生じなく、物質に観念的な感覚(や意識)の生じることはない、と思われます。
(もっとも、意味的には、物質にも、物理的な観念のようなものが無時間のうちに発生している可能性は、考えられないでもありません。なぜなら、外因的な物理的影響についての基本観測による観測結果は、スケイラァであり、観念であり、また、基本演算による演算結果も、スケイラァであり、観念だからです。時間の経過のなかにて持続はしないにしても、そういう観念はなんらかの形で発生する可能性はあります。もっとも、いちいち結果が出されることはなく、作用の働きそのものが、意味的に、観念を意味している可能性も、あります))。
ひるがえり、ここで、仮に、物質意識や生物の意識においても、観測(身体感覚)作用や演算(思考)作用が、無時間のうちに瞬時に完了し、間延びしないと想定してみると、それらにも、身体感覚や思考の感覚の、観念的な感覚は、生じないことに、なります。そして、それらの意識に、観念的な存在である非物理的意識は発生しないです。それらの意識は、物理的意識だけから成ることに、なります。
すると、この状況での物質群や生物は、哲学的ゾムビのようなものになります。なにしろ、観念的な存在である非物理的意識が発生しないので。
しかし、それでも、それらは、非物理的(= 観念的)意識の発生していない物質群や生物として、立派に活動できます。なぜなら、観念的な存在としての非物理的意識は、完全に受動的で不活性なモニタァのようなものであり、それに自発性・主体性・能動性は具わりてはいないからです。そして、意識の物理的で能動的な働きは、すべて、物理的意識において、一人称の主体たる物質作用群の自発性・主体性・能動性にもとづき、ごく物理的かつ自動的に果たされるからです。
(ちなみに、哲学的ゾムビには、観念的な存在としての非物理的意識は発生しなくても、物理的意識はかならず発生しなくてはなりません。なぜなら、物質群や生物が、1個の統合体――言わば、量子――として、みずからの全体的な物理的秩序を形成し維持する方向で、統合的かつ包括的に動くためには、その元になる情報収集と思考が欠かせませんが、それらが果たされるのは、物理的意識においてのみだからです。
ひるがえり、包括的かつ大きな情報収集と思考は、三人称の客体であり、外的には完全に不活性な物質の集合体にては、決して果たされえません。その集合体がどれだけ高度に組織化されていようとも――プロウグラムされていようとも――、包括的かつ大きな情報収集と思考は、物質の巨視的(外的)な面にては、決して果たされないのです。
さらに、物質群が、おおきな思考にもとづき(協調的に)動くためには、物質に外的(巨視的)に働くものである力学的相互作用や基本相互作用に違反しなくてはなりません。ここには、物理学にとりての深刻な問題が潜在していると、予想されます。そして、この問題が解決されないかぎり――すくなくとも、ある程度の説明の見通しが立てられないかぎり――、生物の発生の物理的メカニズム(または、枠組)は十分には説明されえない、と思われます。
さらに、このことは、自由意志の問いにも深い関わりがあります。なぜなら、自由意志は、思考にもとづき物質群が動くことも意味しているからです。ニューロンにおける物質群の動きも、思考に影響されての動きです。(もしもニューロンが死亡すれば、即座にニューロンの意識は消滅し、思考も停止して、物質群の動きはただちに停止します))。
ちなみに、この宇宙はおよそ137億歳と言われていますが、その間、空間をふくめ、この宇宙に存在する全ての物質の本体である物質作用群は、片時も休まずに動作しつづけてきつのです。私たちの体と意識を形成する物質群についても同じです。
3) (参考) 実体と観念
A) 実体
実体は、エナァジで体現される存在です。物理的です。そして、実体には、物質的な実体と、非物質的な実体の、二種類がある、と思われます。
a-1) 物質的な実体は、いわゆる、物質です。しかし、物質の正体は、物質にそなわる物質作用群であり、物質そのものは、実際には、物質作用群の働きにより残される痕跡にすぎず、スケイラァのようなものであり、静止しています。物質的な実体は、みずから外的に動くことない三人称の客体であり、外的な動きにかんしては完全に不活性であり、完全に受動的です。物質的な実体は、なんらかの基本相互作用に受動的に巻きこまれて、初めて、外的に動くことができます。物質的な実体には、巨視的な物理法則が適用されます。
a-2) 物質の正体である物質作用群が、非物質的な実体です。物質作用群は、物質の内部空間にて、内的に、つねに動作しており――つねにスタンバイ状態にあり――、停止することは決してありません。物質作用群には、物理的なものなものである実体をあつかう物質作用群と、非物理的なものである観念をあつかう物質作用群が、あります。非物質的な実体――物質作用群――に、巨視的な物理法則は適用されません。
ちなみに、実体をあつかう物質作用群には、以下のようなものがあります。
超ひもの基本振動
波動と粒子の二重性
エナァジ呼吸
ゲイジ粒子放射
基本相互作用
力学的相互作用 (ニュートンの運動の法則)
電磁波の飛翔
物質そのものの振動 (温度)
熱放射
核融合・核分裂
化学合成・化学分解
基本受領 (仮定)
基本実施 (仮定)
そして、観念をあつかう物質作用群には、以下のようなものがあります。
基本測定 (仮定)
基本演算 (仮定)
論理的にみて、静止している痕跡たる物質的な実体をもたらすもの――物質作用群、言わば、物質的な実体の原因・源・親――は、物質的な実体ではありえません。そして、それらに巨視的な物理法則が適用されることは、ありえません。むしろ、非物質的な実体――物質作用群――が、巨視的な物理法則の源です。
B) 観念
観念は、物質的な実体(いわゆる、物質)の正体であり、非物質的な実体である物質作用群の、動きの、影ないし痕跡のようなものと思われます。
意識に感じられるものである身体感覚・思考の感覚・クワリア――感覚にともなう質感――が、観念です。そして、無数の観念から形成される非物理的な意識(観念的な存在としての私)も観念です。
観念は物理的ではありません。この宇宙で観念だけが非物理的です。(しかし、観念は、時間の経過のなかで瞬間的に発生するだけの、静的な影ないし痕跡のようなものにすぎないにしても、この宇宙という物理世界に非物理的なものが出現するとは、驚きです)。
4) 生体の自発的かつ主体的な動き(働き)
細胞・組織・器官などの生体の動きは、1個の統合的な物質としての生体と、それに発生している意識の、協働と思われます。生体ではまさに物質的な動きが遂行されます。そして、意識では、生体の物質的な動きを制御するための観念的な働きが果たされます。意識での観念的な働きは、生体の内外で発生する物理事象からの物理的な影響についての情報収集と、収集せし情報にもとづく、生体のつぎの瞬間の動きの設計から、なります。
(生体を構成する物質群は、この設計(思考)にしたがい自ら動きます。物質群はそうせざるを得ません。なぜなら、そうしないことには、生体(生物)の、思考にもとづく自発的かつ主体的な動きは決して実現されないからです。
(ちなみに、動物のほとんどの動作や行為は筋肉の働きにより実現されます。あきらかに思考に基づかざるをえない話す・書く・楽器を演奏する・絵を描くなどの精神的な行為もそうです。つまり、動物のほとんどの動作や行為は、ほぼ必ず思考に基づきているのです。自律的な器官での物質群の動きも、それの意識による(観念的・精神的な)設計に基づきています)。
しかし、このことは、生体を構成する物質群の動きが、見掛けじょう、基本相互作用に違反せざるをえないことを、意味します。これは極めて深刻です。
しかし、もしも生体の内部空間が、生体に特有の様相で、微視的な空間になりているなら、基本相互作用への違反は回避されえます。なぜなら、(基本相互作用そのものは、物質に本質的にそなわる微視的な作用ですが)、それらは、複数の物質のあいだで外的(巨視的)に作用するものであり、1個の量子の内部で(微視的に)働くものではないからです。
そして、このことは、1個の生体の全体が、きわめて特異な量子のようなものになりていることを、意味します。(1個の物理的な存在としての統合性・包括性を有するものは、この宇宙という物理世界では量子だけです)。それが強く予想されます。このゆえ、生体は、物質の進化の新しいかたち、と思われます。(もっとも、地球にては、今からおよそ35億年まえに、もう単細胞生物が発生し、それはもう実現されてしまいています))。
5) 細胞の意識と組織や器官の意識
生物の意識は微生物や細胞の段階から発生すると思われます。この段階の意識は、その生体を構成する無数の物質の(観念をあつかう)物質作用から形成されます。つまり、細胞の段階の意識は、物質から直接に形成されるです。
このため、細胞の段階で感じられる身体感覚は、言わば、「物質に起因する身体感覚」や「物質的身体感覚」などと位置づけることができるかも、知れません。
(ちなみに、感覚は観念です。生体の意識にそなわる身体感覚作用は、観念だけを入力し、観念だけを扱います。ちなみに、細胞が、内外の物理事象につき入力するのは、物理事象による物理的な影響――フォースやエナァジ――の値です。値は観念であり、決して物質ではありません。なので、値は、観念的な作用である身体感覚作用(と思考作用)により入力されえて、処理されうるのです)。
そして、たくさんの細胞から形成される組織や器官でも、その全体にわたる1個の複合的な意識が形成される、と思われますが、細胞とは異なり、その全体的な意識は、物質から直接に形成されるのでなく、下位の細胞群のたくさんの意識から形成される、と思われます。(この全体的な意識は、その生体全体の動きを制御します)。
このため、上位の意識に感じられる身体感覚には、最早、細胞での、物理事象に起因する物質的かつ極めて微小な身体感覚は含まれていず、それは、たくさんの細胞での思考結果だけから成るよう、推測されます。
内外の物理事象に起因して細胞に感じられる身体感覚――言わば、内外の物理事象についての情報――は、細胞の段階で処理されてしまい――細胞の物理的秩序についての演算の根拠となりてしまい――、もう上位の大きな意識には感じられなかろうと、推測されます。また、細胞の段階の物理事象は、上位の意識には余りに小さすぎるだろうと、思われます。このことも理由の一つです。
つまり、上位の意識には、その身体感覚作用への入力として、物理事象の情報はわたされず、下位の意識での思考結果が渡されるです。下位の意識での思考結果そのものが、上位の意識での身体感覚作用への入力となるのです。そして、それは、さらに、後続の思考作用への入力――思考の種――となります。
上位の意識に感じられる身体感覚は、言わば、「思考としての身体感覚」や「思考感覚」などと位置づけることができるかも、知れません。
このゆえ、上位の意識では、基盤である細胞群の内部での物質の動きの制御から解放されて、純粋に観念的(精神的)な演算(思考)が果たされうるのかも、知れません。
(私たち人間の主観の意識の働きは、生体の構成要素の物質の動きの制御とは丸きり関わりなしに、まさに、そのように、純粋に精神的なものになりています。もっとも、動物の脳の精神的な働きは、すべて、根本的には、無数の細胞群の動きにより実現されています。とても不思議なことです)。
こういう次第で、細胞の段階の意識と、上位の複合的な意識は、その形成の様相が異なると、推測されます。
そして、脳も、それは体全体の動きを制御する特別な器官ですが、器官の一つです。そして、脳では、その最上位の意識として、主観の意識が発生しますが、これは下位のたくさんのサブ意識から形成される、と思われます。
そして、意識の形成の様相――意識か、物質の(観念的な)作用群から形成されるか、下位のサブ意識群から形成されるか――は、脳での意識のように、その階層構造が(恐らく)多重になりていれば、その各おのの層に該当する、と思われます。
そして、生体の動きは生体そのものとその意識の協働ですが、この点で、なんらかの原因で細胞の意識が消滅すると、つぎの瞬間の物質群の動きが設計されなくなりて、物質群はただちに動かなくなります。つまり、細胞の意識の消滅は、じかに、その細胞の死を意味するのです。逆に言えば、細胞の段階の意識は、その細胞が生きているかぎり、発生しつづけて、眠ることがないのです。
しかるに、組織や器官の上位の意識は、その生体の活動度がある閾値よりさがるなら、消滅する(眠る)こともあるかも知れません。それらの意識は物質群から直接に形成されるものではないゆえ、それらの意識が一時的に消滅しても、生体そのものが死亡することはないのです。少なくとも、下位の細胞群が生きてさえいればいいのです。特に、動物の脳の主観の意識の様相はそのようである、と推測されます。
6) 物質にそなわる作用から意識の働きまでについてのスケチ
i) 物質での作用の働きの流れ
物質が基本相互作用に(受動的に)巻きこまれしことに起因する外因的(巨視的)な影響
(外因的な影響とは、力やエナァジの伝達や交換である)。
= 物質の観測作用への入力
↓
物質の観測作用(想定)
(物質の観測作用は、物質がうける外因的な影響を評価する。影響の値を読むだけなので、観念的な作用。言わば、こうむる物理的な影響についての情報収集にあたる)。
= 物質の演算作用への入力
↓
物質の演算作用(想定)
(物質の演算作用は、物質がうけし外因的な影響にもとづき、物質のつぎの瞬間の状態や果たすべき働きを演算する。(これは、物質自身の、つぎの瞬間の物理的秩序の設計に該当する)。観念的な作用。そして、この演算作用の結果は、物質の実施作用によりて参照されて、その結果が具体的に実施される)。
= 物質の実施作用への入力
(ただし、この演算作用も想定でしかありません。しかし、それでも、物質――素粒子。超弦や空間も含む――は、この宇宙における物理的な存在の基盤なので、物質に求められる働きは、物質そのものが自ら果たすほかはありません。このレヴェルでは、物質に代わりてその働きを果たしてくれる他者は存在しないです。さらに、物理法則も、その法則を具体的に実施する実体としての法則はどこにも存在しません。物理法則は、この宇宙での様ざまな物理的な動きを規定するものですが、人間が暫定的に定式化せし観念でしかありません。むしろ、物質にそなわる作用群の働きが、物理法則の具体的な施行の源です)。
↓
物質の実施作用(想定)
(物質の実施作用は、演算作用の結果(設計)にもとづき、その結果――物質のつぎの瞬間の状態や果たすべき働きにつき設計されし内容――を具体的に実現する。(これは、物質自身の、つぎの瞬間の(ダイナミクな)物理的秩序の実現に該当する))。
(観測作用・演算作用・実施作用を合わせしものは、「内部観測」に該当します。そして、内部観測は、基本相互作用の働きの完了には欠かせません。内部観測と基本相互作用は、たがいに相補的です。基本相互作用は物質に外的(巨視的)に働きますが、内部観測は、基本相互作用の働きを受ける物質の内部で(微視的に)動作します。内部観測は、また、オートポイエシス――自己制作・じぶん自身の高度な物理的秩序の自発的・主体的・能動的な生産――の実現に欠かすことができません)。
ii) 微生物・単細胞生物・細胞の意識の形成と働き
細胞などの小さな1個の生体にては、構成要素の無数の物質にそなわる観測作用群が、エントゥロピ生成速度の減少をとおし、一つに融合し、一つの巨大な観測作用を形成します。さらに、演算作用群も、一つに融合し、一つの巨大な演算作用を形成します。巨大な観測作用は身体感覚作用に昇格します。巨大な演算作用は思考作用に昇格します。この巨大な身体感覚作用と巨大な思考作用を合わせしものが、細胞などの意識となります。
(身体感覚作用と思考作用は、どちらも、本質的に、巨大でなくてはなりません。なぜなら、どちらも、たくさん(無数)の量子(物質)にわたりて動作しなくてはいけないからです)。
細胞などの小さな生体の段階では、その意識は、物質にそなわる(観念をあつかう)作用群から直接に形成されます。
そして、細胞などの生体の段階で感じられる身体感覚は、内外の物理事象から直接に齎されるので、物質に起因する身体感覚(物質的身体感覚)です。
ところで、細胞では、それが特段の外的な影響――外部で発生する物理事象からの物理的な影響――も受けていなくても、それが生きているかぎり、物理的意識が発生しており、基礎代謝が果たされます。(基礎代謝とは、熱を断続的に発生させることです。細胞でその製造や修復などが行なわれていなくても、少なくとも、熱を断続的に発生させつづけることは必要なのです。この熱により、エントゥロピ生成速度の減少の物理事象がしょうじ、物理的意識が持続して、細胞が生きつづけることができるからです)。この状態は、細胞の物理的意識のミニマムの状態です。それは、発生し、スタンバイし、(基礎代謝を断続的に果たす以外は)、アイドゥル状態にあります。
iii) 多細胞生物・組織・器官の意識の形成
多細胞生物・組織・器官などの大きな複合的な生体にては、構成要素のたくさんの細胞や組織の意識の巨大な身体感覚作用群が、エントゥロピ生成速度の減少をとおし、一つに融合し、さらに巨大な身体感覚作用を形成します。さらに、巨大な思考作用群も、一つに融合し、さらに巨大な思考作用を形成します。この巨大な身体感覚作用と巨大な思考作用を合わせしものが、器官などの大きな生体の上位の意識となります。
器官などの複合的な生体の段階では、その上位の意識は、下位のたくさんのサブ意識群から形成されます。
その上位の意識に感じられる身体感覚は、下位のサブ意識群での思考結果、と思われます。下位のサブ意識群での思考結果が、上位の意識の身体感覚作用への入力となります。
上位の意識に感じられる身体感覚は、思考としての身体感覚(思考感覚)です。
iv) 人間(動物)の脳での主観の意識の働きの流れ
脳の基盤の細胞群の下位のサブ意識群での思考結果
= 思考の観念
= 身体感覚作用への入力
↓
主観の物理的意識の身体感覚作用
↓
身体感覚作用による入力(思考の観念)の評価結果
= 思考作用への入力
= 非物理的意識に生じる身体感覚(思考の観念)の源
|――――――――→ 非物理的意識での身体感覚(思考の観念)
| = お客さま・他者
↓
主観の物理的意識の思考作用
↓
思考作用による思考結果(思考の観念)
= 物理的意識の基盤の物質群の実施作用への入力
= 非物理的意識に生じる思考の感覚(思考の観念)の源
|――――――――→ 非物理的意識での思考の感覚(思考の観念)
↓
物理的意識の基盤の物質群の実施作用
主観の物理的意識の思考作用による思考結果は、物理的意識の構成要素の細胞群の物質群(にそなわる実施作用)によりて参照されて、それらの物質的(巨視的)な動きのための仕様(指令)となります。
v) 物理的意識の身体感覚作用
脳や細胞などの生体の内外での物理事象は、その物理的意識の身体感覚作用への入力となります。
そして、物理的意識の身体感覚作用の働きは、その影・投影・残響・痕跡などとして、非物理的意識での身体感覚をもたらします。
この身体感覚は、内外の物理事象に起因して齎されるので、要するに、お客さまであり、他者です。
さらに、物理的意識の身体感覚作用の働きは、物理的意識の思考作用を活性化させる――物理的意識の思考作用の入力となる――、と思われます。
vi) 物理的意識の思考作用
脳や細胞などの生体の物理的意識の思考作用は、先だつ身体感覚作用の動きに起因して活性化される、と思われます。
そして、この思考作用の働きは、その影・投影・残響・痕跡などとして、非物理的意識での思考(の感覚)をもたらします。
ところで、物理的意識の思考作用には多種多様の思考パタァンが形成されますが、それらは、人により大きく異なり、個この人に固有です。
このため、物理的意識の思考作用そのものは私のもの、と思われます。物理的意識の思考作用が私です。物理的意識の思考作用が、観念的な存在としての私の物理的な本体であり、わたしの中核です。
(ちなみに、厳密な意味で自由意志は存在しなく、脳に形成される意識のパタァン群は、この世界での様ざまな外因的偶然に影響されながら、完全に、物理的かつ自動的に動作します。さらに、パタァン群も、偶然に翻弄されつつ、対応する部分的な物理的意識での演算(設計)にしたがい、完全に、物理的かつ自動的に形成されます。
そして、パタァンは、ある意味、関数と見なせます。そして、関数では、その機能は、ある程度、固定されてはいるにせよ、入力が異なれば、出力も異なります。そして、この世は圧倒的な偶然世界です。生体は、内外の圧倒的な偶然につねに曝されています。生体が置かれている状況や状態は、つねに変化しており、つねに新しいです。このため、圧倒的な偶然を入力とする物理的意識のパタァン群からの出力――身体感覚・思考(の感覚)――も、つねに変化します。このため、パタァン群からの出力にもとづく私たちの活動も、上位レヴェルの大枠では大よそ同じであるにせよ、細部まで考慮するなら、必然的に、つねに新しいです。
ちなみに、また、この世が圧倒的な偶然世界であることと、生体の物理的意識のパタァン群からの出力がつねに偶然に影響されていることが、新しさの原点ないし源と思われます。私たちの活動や私たちの生みだすものは常に新しいです)。
vii) 人間(動物)の脳での主観の意識の成りたち
私の意識
= 私の物理的意識 (私の意識の物理的な中核・本体)
& 私の非物理的意識 (観念的な存在としての私)
物理的意識は、エナァジで体現される実体であり、物質の正体(本体)である物質作用群のうちの、観念をあつかう作用群から形成されます。非物理的意識は、物理的意識の動きの影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなものです。意識は、物理的意識に非物理的意識が重なる様相で形成されます。
私の意識
= 究極の私 (私の意識の中核)
+ 私の意識の拡張部分
究極の私 (私の意識の中核)
= 究極の私の物理的意識 (究極の私の物理的な中核・本体)
& 究極の私の非物理的意識 (観念的な存在としての究極の私)
私の意識の拡張部分
= 私の意識の拡張部分の物理的意識
& 私の意識のの拡張部分の非物理的意識
viii) 究極のわたし(と思考の帰属)
究極のわたしは、主観の意識が、目覚めていて、スタンバイしており、かつ、アイドゥル状態にあるときの意識です。究極のわたしは、主観の意識のミニマムの状態です。
主観の意識がミニマムの状態にあるときに、脳では、主観の意識がただ目覚めるに足るだけの新陳代謝――言わば、究極のわたしの基礎代謝――が果たされています。体の内外や意識内に、身体動作や思考を問わず、具体的な対処の必要な物理事象や思考は発生していず、身体感覚作用はほぼアイドゥル状態にあります。このため、身体感覚の発生に起因して活性化される思考作用もほぼアイドゥル状態にあり、意味のある思考は発生しておりません。
しかし、それでも、ミニマムの状態にあるときの主観の意識――究極のわたし――は、感覚――身体感覚と思考(の感覚)――の発生を見つづけています。つまり、究極のわたしは見る者なのです。感覚の発生をただ見るだけの状態にある主観の意識が、究極のわたしです。
(そもそも、物質に本質的にそなわる観測作用が、意識の身体感覚作用の源です。この観測作用は、物質がうける物理的な影響――力やエナァジの変化――の値を読みとるものであり、そもそも、この宇宙という物理世界の基盤である物質に、「見る」働きが具わりています。(もっとも、本当の基盤は、物質(の本体である作用群)を直接に体現するエナァジです)。物質は、自分がうける物理的な影響についての情報――観念――を、つねに収集しています)。
すこし詳しく見れば、脳の内外でなんらかの意味ある物理事象が発生せしとき、主観の意識は、ミニマムの状態――究極のわたしの状態――から、発生せし物理事象に対応する思考パタァンも活性化されし状態に、移行します。そして、対応する思考も発生します。このゆえ、究極のわたしは、身体感覚の発生とともに、思考の発生をも見るのです。
そして、これは、私たち人間や動物のふつうの精神状態です。物理事象が発生せしとき、究極のわたしは、消滅するのではなくて、より大きな、ふつうの意識、言わば拡張されし意識に、移行するのです。
ただ、意味ある身体感覚の発生にともない発生する思考を自分のものと見なすかどうかには、すこし注意が必要かも知れません。
身体感覚にともなう思考は、わたしの本体である物理的意識の拡張領域での思考パタァンにより形成されます。このため、その思考も自分が考えつ、と見なしえます。ただ、ただ「見る」者である究極の私にとりて、その思考はお客さまであり他者です。
思考は、また、時間の経過のなかで発生し消滅します。これは、思考が、じぶんの意識のなかに恒常的に存在していぬことを意味しています。そして、このことは、思考が、やはり、むしろ、お客さまであることを含意しています。感覚や思考がもしも究極のわたしの一部なら、究極の私はそれらを常に意識していなくてはなりませんが、そういうことは決してありません。感覚や思考は、やはり、お客さまにふさわしく、普通は、その発生ののち、速やかに消えさりてゆきます。そして、急速な雲の流れのごとく、つぎの思考が次つぎと流れてきては、また、去りてゆきます。
思考が自分のものであるか他者であるかの区別は微妙です。しかし、思考は、じぶんの本体である思考パタァンにより生成されるにしても、他者の色合いが濃厚であり、やはり、他者と見なすのが順当かも知れません。
そして、じぶんの意識に生じる様ざまな思考と自分を同一視してしまうことには、なんらかの問題がありそうです。(じぶんと思考を同一視することの問題は、心理学的または宗教的に説明されているかも知れません)。自分は、あくまで、ただ「見る」者である究極の私である、と捉え、じぶんと思考を同一視しないほうが、望ましいかも知れません。そうすれば、じぶんに生じる思考をより客観的に穏やかに評価できるに違いありません。
ちなみに、ミニマムの状態にあるときの主観の意識――究極のわたし――に、意味のある身体感覚は発生していず、それに起因する思考も発生していません。このため、究極のわたしは平穏な精神状態にあります。
そして、さらに、人間(や動物)の主観の意識には、「これは私である」という微妙で無意識的な感覚や自覚がつねに生じている、と推測されます。究極の私にも、当然、この感覚は生じています。この感覚は、身体感覚でなく、思考により齎される思考感覚ですが、それを生じさせるための思考のパタァンは、究極のわたしの基礎代謝を果たすための思考作用に含まれる、と思われます。(そのゆえ、「これは私である」という感覚は、通奏低音のごとく、わたしの意識に無意識的につねに感じられています)。
主観の意識の(物理的な)本体は、脳での下位の生体群に形成される沢山の物理的サブ意識群から形成される巨大な物理的意識です。
また、観念的な存在としての主観の意識は、非物理的(= 観念的)であり、主観の物理的意識の動きの影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなものとして、主観の物理的意識に重なる様相で出現します。主観の非物理的意識は、感覚(= 観念)そのものであり、スケイラァのようなものであり、静的で、受動的です。主観の非物理的意識に、自発性・主体性・能動性は具わりてはいないです。(これらが具わりているのは、本体である物理的意識のほうなのです)。
ix) わたしの意識の拡張部分・身体感覚・感情や欲望
わたしの意識の拡張部分は、究極のわたしの基礎代謝のための思考作用以外の思考作用に該当します。(ひるがえり、身体感覚作用には拡張はないと思われます。身体感覚作用では、そのビジーの状態が拡張に相当します)。脳のニューラル ネトゥワークには無数の思考パタァンが形成されると思われますが、わたしの意識の拡張部分には、私たちの意識がビジーなときに動作するほぼ全ての思考パタァンが形成されます。
思考作用は、わたしの物理的意識に実装されるので、わたしに属し、生成される思考も、原則、私のものです。(もっとも、思考の帰属の判定は微妙でありて、思考は、むしろ、他者と見なすのが、順当と思われます)。
他方、身体感覚は、内外の物理事象に起因して発生するので、むしろ、お客さまであり、他者です。身体感覚は他者です。
さらに、感情や欲望は、他者(お客さま)である身体感覚と、わたしに属するように見えながら他者の色合いの濃厚な思考の、混合物と思われます。
このため、感情や欲望は、他者と位置づけることが順当かも、知れません。少なくとも、それらは、究極のわたしの一部ではありません。この点で、それらは、究極のわたしにとりては他者なのです。
7) 意識が空である二つのケイス
宗教的な分野では、感覚や意識に関心が持たれていて、それらは空である、と想定されている、よう思われます。
(たとえば、仏教には、「色即是空」という熟語があります。これは、公式には、「執着するな」という教えを(暗に)表明しているようです。しかし、その表現そのものは、むしろ、「感覚(や意識)は空である」ということを直接的に表明しているよう、見えます。この熟語の元もとの主旨はこちらなりきかも知れません)。
そして、自然科学の観点から評価するなら、意識が空であることには、大きく、つぎの二つのケイスがある、と思われます。
I) 物理的意識は、エナァジで体現される実体ではありながら、物質的(巨視的)には空ぽである。そして、非物理的意識は、エナァジで体現される実体でさえなく、物理的に空ぽである――観念的である――。
II) アイドゥル状態にある物理的意識は、その作用が活性化されていぬという点で空ぽである。(なにも処理されていぬ)。このため、物理的意識の働きの影・投影・残響・痕跡・モニタァなどとしての非物理的意識も、感覚や思考にかんして空ぽである。
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I) 物理的意識は、エナァジで体現される実体ではありながら、物質的(巨視的)には空ぽである。そして、非物理的意識は、エナァジで体現される実体でさえなく、物理的に空ぽである――観念的である――。
I-a) 物理的意識(意識の本体)
エナァジで体現される実体としての意識は、いわゆる、物理的な観点での意識です。物理的意識です。物質の正体である物質作用群の一部――観念をあつかう物質作用である基本観測と基本演算――から形成されます。
微生物や細胞であろうとも、その物理的意識は形態的には巨大です。なぜなら、物理的意識は、無数の物質の物質作用群から形成されるからです。(そして、この巨大さゆえに、物理的意識の作用の働きの完了には時間がかかる、と推測されます)。
物理的意識は、また、自由意志(の源)と錯覚されるものの本体です。しかし、生きているわけではありません。物理的意識は完全に物理的かつ自動的に動作します。思考は、根本的には、物理的意識により完全に物理的かつ自動的に果たされるです。(なので自由意志は存在しません)。
実体たる物理的意識は、意識の本体です。物理的意識そのものに観念たる感覚は発生しないのですが――なにしろ、微視的な物質作用群から形成される物理的意識は、ごく物理的であり、非物質的なマシーンのようなものなので――、物理的意識が意識の存在の中核なのです。物理的意識が形成されないかぎり、非物理的意識は発生しえません。
物理的意識そのものは、物理的には空ではありませんが――なぜなら、エナァジで体現されるので――、物質的(巨視的)には空ぽです。(いわゆる物質は、物質にそなわる微視的な作用の働きの痕跡にすぎません。痕跡は、物質そのものではありません)。
I-b) 非物理的意識(観念的な存在としての私)
実体でない非物理的(= 観念的)意識は、物理的意識のはたす働き――身体感覚作用と思考作用――の動きの、(時間の経過のなかに投影される)影・残響・痕跡・モニタァのようなものとして発生する、と推測されます。(なぜなら、物理的意識は形態的に巨大なので、その作用の働きの完了には時間がかかる、と思われるからです)。
この意識は、実体――作用群――の動きの影のようなものなので、実体でなく、物理的ではありません。そして、自発性・主体性・能動性は有しておらず、受動的で静的です。(非物理的意識の動きは、たくさんの静止画の連続再生のようなもの、と思われます)
非物理的意識の存在は、意識の中核・基盤である物理的意識の形成に負いています。物理的意識が形成されないかぎり、非物理的意識は発生しえません。
そして、非物理的意識のようなものが観念的、と思われます。観念的なものは、エナァジで体現される実体であり物理的である作用の働き(動き)の影・投影・残響・痕跡のようなものとして齎されるです。このため、観念は、エナァジでは体現されず、エナァジで体現される実体でなく、非物理的です。
意識に感じられるものである感覚やクワリア――感覚にともなう質感――も、観念です。それらは、物理的意識の作用の働き(動き)の影・投影・残響・痕跡のようなものであり、瞬間ごとに発生するものは、静止していると、思われます。
たとえば、たくさんの静止画が連続的に生成されるとして、一枚一枚は静止していても、それらが、外的な原動力により連続的に投影されるなら、その全体はみずから動きている、と錯覚されえます。私たちの意識が、(能動的に)動きていて、生きている――感覚や思考が(能動的に)動きている――という印象は、これに似ていると、思われます。
つまり、非物理的な意識は、純粋な観念体です。そして、これが、観念的な存在としてのわたし、と思われます。
観念的な存在としてのわたしは、根本的に、影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなもの・スケイラァのようなもの・三人称の客体であり、静的で、受動的です。観念的な存在としての私に、自発性・主体性・能動性は具わりてはいないです。(なので自由意志は存在しません)。
物理的意識は、ごく物理的であり、非物質的なマシーンのようなものです。このため、その作用は働くにしても、物理的意識そのものに感覚という観念が発生することは、ありません。
(ちなみに、物理的意識は、包括性をゆうする巨大な統合体です。そして、大きな思考作用は、この物理的意識で果たされます。このため、物理的意識そのものに感覚という観念が発生してもおかしくないよう、思われます。しかし、詳しく見れば、物理的意識はごく物理的なので、それそのものに感覚という観念が発生することは、ないのです。
風・水の流れ・木の葉のそよぎなどを始めとして、私たちのまわり・地球上・この宇宙は、あらゆる物理事象で満ち溢れています。しかし、それらは、基本相互作用を始めとする物質作用群の働きにより、マシーンの動作のように、完全に物理的かつ自動的に果たされます。そして、それらの物理事象に意識(知性)は発生していず、感覚という観念が発生することは、ありません。
(ただし、エントゥロピ生成速度の減少により物質意識(物質知性)の発生していると推測される場所は、例外です。そういう場所では、無生物の無味乾燥なものではあるにせよ、感覚が発生し、物質意識に感じられているだろう、と予想されます)。
つまり、(物質意識を伴わない)物理事象そのものに感覚が発生することは、ないのです)。
そして、この場合、非物理的な意識――観念的な存在としてのわたし――は空であることに、なります。なぜなら、非物理的意識は、エナァジで体現される実体でなく、物理的意識の実体(意識の作用)の影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなものとしてのみ現われるからです。とにかく、非物理的意識に実体はないのです。そして、非物理的意識にしょうじる身体感覚や思考の感覚も、実体はなく、空です。
そして、仏教の熟語である「色即是空」は、元もとは、このことを表明していつのかも、知れません。感覚や観念的な存在としての私たる非物理的意識に、エナァジで体現される実体がなく、それらが、影・投影・残響・痕跡のようなものであり、物理的かつ物質的には空ぽであることを、色即是空は表明していつのかも、知れません。そして、もしもそうなら、色即是空は真になります。(そして、色即是空はまさにそういうことを文字どおり言葉で表現しています)。(そして、「色即是空」についての解釈である「執着するな」という仏教の教えは、好意的ではあるにせよ、強引なこじつけなりきかも知れないことに、なります)。
II) アイドゥル状態にある物理的意識は、その作用が活性化されていぬという点で空ぽである。(なにも処理されていぬ)。このため、物理的意識の働きの影・投影・残響・痕跡・モニタァなどとしての非物理的意識も、感覚や思考にかんして空ぽである。
私たちの意識は、物理的意識と非物理的意識から成りたちています。
物理的意識は、物理的な存在です。それは、非物質的な実体――微視的な物質作用――であり、意識の作用――身体感覚作用と思考作用――を担いていて、意識の中核ないし基盤です。しかし、それは、ごく物理的であり、それに担われる意識の作用は、ごく物理的かつ自動的に果たされます。そして、それそのものに感覚――身体感覚や思考の感覚――は発生しないです。
非物理的意識は、物理的ではありません。それは、物理的意識の作用の働き(動き)の影・投影・残響・痕跡・モニタァのようなものであり、エナァジで体現される実体でなく、実体としては空ぽです。そして、完全に不活性です。しかし、感覚や思考はこれに生じます。そして、これが、観念的な存在としてのわたしです。(つまり、観念的な存在としてのわたしは、物理的存在でなく、実体としては空ぽでありて、完全な観念体です)。
感覚や思考の属性は、非物理的意識と同じです。(そもそも、非物理的意識が感覚です)。そして、感覚が観念です。感覚は、非物理的意識にのみ生じます。
身体感覚は、根本的には、生体の内外で発生する各種の物理事象に起因して自動的に発生します。言わば、感覚は、各種の物理事象の物理的な動き――各種の物理事象の発生によるエナァジやフォースなどの変化という外因的な影響――が体内での伝達と意識の作用によりて変換されしものであり――言わば、各種の物理事象が化けしものであり――、意識の外部から訪れてくるお客さま、と位置づけることが、できます。これは微妙ですが、感覚は、非物理的意識――観念的な存在としてのわたし――とは別物であり、私たちの意識の一部でない、と見なすことが、必ずしもできないでもないのです。要するに、大まかには、身体感覚そのものは、私の一部ではないのです。観念的な存在としての私とは別物の、お客さまであり、他者なのです。
こういう点で、感覚にかんし、観念的な存在としてのわたしは、外から訪れてくるお客さまである感覚を受動的に見る者・感知する者、というように見なすことが、できます。観念的な存在としての私とは、(自らのうちに自動的に生じる)感覚を(受動的に)見る者なのです。(観念的な存在としてのわたし――非物理的意識――に何らかの動きのようなものが生じるとすれば、それは感覚を認知する(見る)ことだけです。しかしそれは完全に受動的です)。
すると、なんらかの物理事象に起因して何らかの感覚――身体感覚や思考の感覚――が意識に生じないかぎり、観念的な存在としての私たる非物理的意識は、感覚にかんして空ぽです。そのとき、非物理的意識が感覚を見ることはなく――身体感覚や思考は生じておらず――、観念的な存在としてのわたしは平穏な状態にある、と言えます。非物理的意識が実体としては空ぽであるのとは、また別に、意識のアイドゥル状態におき感覚が生じていないことも、空の状態です。(つまり、アイドゥル状態は、要するに、空の状態です)。
8) 究極の私たる非物理的意識にそなわる見る(感知する)作用
ところで、身体感覚作用や思考作用とは別に、物理的意識には見る作用も具わりているのでしょうか? これは微妙な問いです。意識は、事実上、物理的に実証できず、推測するしかありません。そして、この部分は、もう、ほぼ、推測しようがないよう、見えます。
それでも、物理的意識が、身体感覚作用そのものと思考作用そのものならば、これらの作用の働きの結果として生じる感覚は、べつの「見る作用」がわざわざ見るまでもないと、思われます。感覚の発生は、そのまま、直接、感覚の感知になりうると、思われます。なぜなら、物理的意識が作用でありて、観念的な存在としての私たる非物理的意識はその動きの反映だからです。物理的意識の動きは、非物理的意識にて、そのまま感覚になりえます。観念的な存在としてのわたしは、非物理的意識に生じる感覚そのものかも、知れません。
9) 「空」についての宗教的(人文的)な関心
そして、感覚や意識が空であることには何らかの更なる宗教的(人文的)な意味があるのでしょうか? 恐らく、意味はあり、さらなる考え・自覚・認識・教えなどが展開されうると、思われます。しかし、秩序は高くなればなるほど複雑化するゆえに――思考は高度な物理的秩序です――、こういう宗教や倫理が関係しそうな側面では、何事も一概には言えず、こう考えなくてはならないという決まりはありません。なので、そのことについての思いや答えは、人それぞれと思われます。
もっとも、仏教によりある程度の指針が示されるとすれば、それは望ましいです。なぜなら、「空」は、仏教の教えの主要な基盤の一つ、ということだからです。(もっとも、なぜそうなのか、その理由はあまり明確ではありません)。
10) 物理的意識の思考作用による思考の形成
ところで、なんらかの物理事象の発生により、いかなる思考が形成されるかは、物理的意識の物理的かつ自動的な思考作用に委ねられている、と推測されます。(観念的な存在としてのわたしは、その働きの結果を受動的に見るばかりです)。
厳密な意味で、自由意志は存在しません。脳という生体では無数のニューロン群により思考パタァンが形成されると思われますが、その形成は、自由意志によるものではありません。思考パタァンも、無数の脳細胞にそなわる思考作用の統合的・包括的・協調的な働きに基づき自動的に形成される、と思われます。
そもそも、私たちの主観の意識は、無数の脳細胞群の基盤の物質的なレヴェルにて、ある思考を形成しようとする操作は、一切、果たしておりません。そもそも、そのようなメカニズムないし手段は存在しない、と思われます。論理的にも不可能です。意識は被造物です。他者(= 意識の基盤である無数の物質群)の物理的な働きにより受動的かつ自動的に形成される被造物である物理的な私(という作用(= 物理的意識))が、その他者の働きに介入することは、根本的に、できないことです。
そして、その、物理的意識に自動的に形成される思考のパタァンが、私たちの考えかた、ということになります。
物理的意識の思考作用に自動的に形成される思考パタァンは、わたしに固有のものであり、「私の考えかた」と位置づけられるべき、かも知れません。わたしの考えかたや体の動き――あらゆる筋肉運動――の個性は、ここ、思考パタァンに形成されるです。思考パタァンが私の個性です。身体感覚の感じかたについても、同様です。
そして、「私の考えかた」により生じる思考も、私に固有のものであり、「私の思考」と位置づけられます。体の動きや身体感覚についても、同様です。
自由意志はなく、考えかたは、思考作用に物理的かつ自動的に形成されるにしても、その形成されし私の考えかた――論理ないしアルゴリズム――は、わたしに固有のものであり、まさに、思考作用の実体面での私、と言えます。(ちなみに、思考パタァンが形成される物理的意識は、わたしの意識の物理的な中核ないし基盤です)。私の考えかたは、実体面での私そのものです。とにかく、私の考えかたが、私の個性です。そして、生物の活動はまさに思考に基づきているゆえに、その思考を生みだす「考えかた」こそ、事実上で、私の中核、と言えるかも、知れません。
もっとも、わたしの意識のミニマムの状態である究極の私にとりて、わたしの思考パタァンにより生成される思考には、他者の色合いが濃厚です。
ちなみに、自分の意識になんらかの思考(の感覚)が生じれば、私たちの意識は、暗黙的に、それを自分で考えつ、と考えます。しかし、自由意志は存在しません。よしんば、自分の心にうかぶ考えは自分で考えつと無意識的に思われるにしても、考えは、それが自分の心に物理的かつ自動的に浮かぶだけで、それを自分で考えつ、と誤解されえます。そして、実際、私たちは誤解していると、思われます。
それでも、私たちは、じぶんの考えと自由意志で生きている、と思いています。この思いと自由意志の印象は極めて根深いと思われますが、しかし、べつに問題ではありません。まるきり問題にはなりません。




