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意識のはじまり  作者: 安田孫康
20/58

4 物質 (1) -- 存在様相

4 物質 (1) -- 存在様相


  (ちらし) 固体である物質的なものが存在することは不条理である

  量子力学にはまだ実証されてはいぬが重要なことが幾つか残りている (異端の物理学)

  二重スリトゥ実験の変形

  物質の存在

  固体は存在しない (1) -- ビグ バンを根拠として

  固体は存在しない (2) -- 素朴な説明






これは、意識についての興味からのスピン オフのようなものです。


わたしは意識に興味がありて、意識のことを主に考えていつのですが、考えているうちに、なぜか、物質や物理学に関係することも考えないわけにはいかなくなりました。そして、物質につき、従来とは異なる見方をするようになりました。






  《 (ちらし) 固体である物質的なものが存在することは不条理である 》


小石を手にとり、じっと眺めていると、この石はどこから遣りてきつのだろう、この石はどうしてここに存在するのだろうと、不思議な思いに捕らわれることがあります。


しかし、石の源は溶岩です。溶岩が、その形態を変えながら、巡り巡りてここに存在するのです。なので、地球上に無数の岩や石が存在することは、さほど不思議なことでもありません。


しかし、それでも、私にとりて、不思議さは残ります。そして、どうも、その正体は、固体で堅固で硬直せし石や物質がこの世に存在することのようです。(石や物質は、表面的(巨視的)には、そのように見えます。液体や気体も固体です。なぜなら、その構成要素である原子や分子は、外的(巨視的)には粒子だからです。そして、粒子が、私たちの普通の感覚で固体です)。私にとりて、固体である物質的なものが存在することは、不条理なのです。物質的なものが存在することは不条理です。


(もっとも、どのような物質であろうとも、その物質を構成する原子群や分子群のあいだには必ず隙間があります。つまり、物質の種類は問わなく、物質には必ず多量の真空が含まれているのです)。


そして、うまくは説明できませんが、固体である物質的なものが存在することは、実際、不条理と思われます。


かりに固体である物質的な物質が永劫の昔から存在するとして、それには理由(または、根拠)がありません。


そして、この宇宙は、実際には、およそ137億年ほどまえにビグ バンにより誕生しつそうですが――つまり、この宇宙やエナァジや物質は元もと存在しなかりきです。(もっとも、エナァジは、この宇宙を超える高次元の世界に存在していつのかも、知れません)――、物質がビグ バンから噴きだしつとして、固体で物質的な物質が噴出することは不条理です。そのようなことは有りえません。固体で物質的なものが存在することは、根本的に不条理です。(この宇宙に存在するものは、それが物質的ではないゆえに、存在できるです)。


物質が固体で物質的であることは、観点を変えるなら、物質が、物理的に完全に不活性であり、柔軟性を欠いており、比喩的には、物質として死にていることを、意味します。物質が、固体で、物質的であり、物理的に不活性ならば、その物質は、たとえば、力学的な相互作用や基本相互作用に関与することができません。そして、物理的な存在として透明になりてしまいます。よしんば、そういう物質がどこかに存在するにせよ、その物質は、ほかの物質と相互作用を果たすことがないゆえに、事実上、存在しないに等しいのです。


(これは、言わば、固体で物質的なものは物理的に存在できないことの証明です。なにかが存在できるためには、その何かは、少なくとも、ほかの存在と外的(巨視的)に相互作用を果たせるだけの内的(微視的)かつ物理的な柔軟性を具えていなくてはいけないからです。


(ちなみに、物質の柔軟性を体現するものは、物質にそなわる物理的で内的な作用です。作用は、時間の経過のなかで、自発的・主体的・能動的・動的に動作するものであるゆえ、物理的に柔軟でなくてはなりません。そして、内的な物理的作用が存在の本質です。そして、内的な物理的作用は、力学的相互作用や基本相互作用だけではありません))。


ゆえに、固体でありて物理的に不活性な物質は、少なくとも、この宇宙には、実質的に存在できません。この宇宙に、固体である物質は、一切、存在しないです。(よその宇宙のことは分かりません)。


存在するものは、固体で物質的な――死にている――ものであることはできません。存在するものは、かならず、巨視的な世界にすむ私たちにとりては容易にその正体を知ることのできない柔軟で不思議なものでなくてはなりません。物質は、私たちの眼に見えているような固体の――硬直している・死にている――ものでなく、きわめて柔軟で不思議なものでなくてはならないのです。さもなくば存在できません。


存在は不思議なものです。無は存在しないにしても、具体的な固体の物質が存在することは不自然です。無に代わるものとして、具体的でなく固体ではない不思議なものが存在することが自然です。


そして、物質はエナァジと等価でありて、物質は、エナァジという素材がたくさん集まり形成されます。物質は、実際には、エナァジにより体現されます。そして、根本的には、エナァジがきわめて不思議な代物です。


エナァジには、運動エナァジ、位置エナァジ、熱エナァジ、電気エナァジなどのように、様ざまな様相があります。(こういう風に様相の観点からエナァジを見しばあい、物質も、エナァジがとりている一つの様相と、考えることが、できないでもありません)。このように多様な様相を取ることのできるエナァジは、根本的に、固体で物質的なものではありえません。エナァジは、変幻自在でありて、極めつきに胡散くさく、神秘的な代物なのです。


つまり、エナァジそのものが、とても不思議な代物なのです。そして、エナァジで体現される物質も、固体で物質的なものではありえなく、とても不思議な代物です。(元もとエナァジや物質は存在しなかりきので、もしもそれらが私たち人間には容易に理解できない極めて不思議なものということであるなら、まだ許せます、受け入れられます)。


ちなみに、巨視的な世界にすむ私たちが見ている物質は、物質そのものではありません。見えている物質は、実際には、物質そのものでなく、物質にそなわる不思議な作用が働く結果として残される痕跡です。私たちが見ているあらゆるものは痕跡にすぎないのです。私たちに物質そのものを見ることは決してできなく、私たちには、痕跡として写像されし物質を見ることしかできないのです。


つまり、物質の正体は、粒子でも波動でもなく、エナァジで体現される極めて不思議な作用群です。この作用群は、物質内部の微視的な空間で、つねに、自発的・主体的・能動的に働きつづけています。粒子や波動は、物質にそなわる不思議な作用がはたらく結果として残される痕跡――言わば、物質の作用群が働きしことの写像でありて証拠――にすぎません。物質は、その正体が物理的な作用群という不思議なものだからこそ、存在できるかも知れません。


(もしかすると、他者とのあいだで何らかの関係を持ちえ、他者により物理的に検出されうることが、存在の本質なのかも、知れません。このゆえ、物質にそなわる物理的な作用群が、存在の本質です。なぜなら、他者と関係を持ちうるのは、物質にそなわる作用群(のなかの相互作用など)だけだからです。なので、この宇宙には、作用群とその本体であるエナァジだけが存在できます。この宇宙には、作用群とエナァジだけが存在するのです)。


(物理的な作用群は、また、自発的・主体的・能動的に働きつづけているゆえに、一人称の主体です。私たちの意識の主観性を齎しうるものは、物質にそなわる物理的な作用群を措き、ほかには見当たらないと、思われます。


そして、物質が固体で物質的なものでなく柔軟で不思議なものであるゆえにこそ、意識(= 知性)という不思議なものも発生できつ、と思われます。意識は、物質の、新しい進化の形です。どれだけ儚かろうとも、意識は、無数の物質から形成される高度かつ複雑かつ巨大な物理的秩序です。(物理的秩序は、高度になればなるほど崩壊しやすくなる、と思われます))。






  《 量子力学にはまだ実証されてはいぬが重要なことが幾つか残りている (異端の物理学) 》


1) 量子力学にはまだ実証されてはいぬが重要なことが幾つか残りている


2) 素粒子レヴェルでの粒子の意味は曖昧である


3) 固体はこの宇宙のどこにも存在しない


4) 波動関数はまだ実証されてはいない


5) 量子力学は物理的な因果性を超越している


6) 波動関数の起源


7) 粒子性と波動性の様相についての可能性


8) 非決定論と確率解釈はごく自然なことかも知れない


9) あたらしい実体論の模索


10) 物質の波動での干渉


11) むすび


12) (追記) 二重スリトゥ実験の変形


  ................


1) 量子力学にはまだ実証されてはいぬが重要なことが幾つか残りている


物理学では、アインシュタインとその他の研究者による光電効果の研究と、コムプトンによるコムプトン効果の研究により、光――電磁波・光子――には、波動性とともに、粒子性も具わりていることが判明しつ、とされているようです。


さらに、ドゥ ブロイによる物質波――ドゥ ブロイ波――の提唱と、その後の他の研究者による実証により、電子――物質――には、粒子性とともに、波動性も具わりていることが判明しつ、とされているようです。


しかし、素粒子レヴェルでの粒子の意味は曖昧です。


このため、光子が、(波動であると同時に)、厳密な意味での粒子でもあることは、まだ実証されてはいない、と思われます。


(光子は、電子と衝突せし瞬間に電子を弾くことから、その瞬間には粒子――または、粒子のようなもの――である、と推測されるばかり、と思われます。つまり、光子が粒子であることは、一つの解釈にすぎないのです。そしてそれはまだ実証されてはおりません)。


さらに、電子――物質――が厳密な意味での粒子であることも、まだ実証されてはいない、と思われます。


さらに、光子や電子において、粒子性と波動性が同時に現われているか否かも、まだ確認されてはいない、と思われます。


(しかし、粒子の状態と波動の状態は、ほかの物質との相互作用の発生と終了にしたがい、互いに切り替わるだけかも知れません。


さらに、粒子は、厳密な意味での粒子ではなく、粒子のようなものにすぎないかも知れません。もしも、波動の構成要素群が、ほかの物質との相互作用の瞬間に、空間の局所的な1点に集中するなら、それは、粒子のようなものになり、(緊密な波動でありつつ)、実質的に粒子として振るまえます。そして、これは、形態的な状態の切り替えにすぎないと、見なせます。そして、この状態にては、波動性と粒子性は、ある意味、共存していると、見なせます。


そして、粒子性と波動性の同時性は、まだ実証されてはおりません。しかし、量子力学にては、粒子や波動の形態的な構成が気にされていず、かつ、粒子性と波動性が相互に切りかわる枠組も想定されてはいないよう、思われます。このため、量子力学にては、詳しいことは分からないが、とにかく、粒子性と波動性は同時に共存していると、(暗に)考えられている、と判断されます。


つまり、量子力学の解釈にては、粒子性と波動性は同時に共存しているのです。そもそも「粒子と波動の二重性」の意味は曖昧ですが、これは、量子力学にては、粒子性と波動性が同時に共存していることを、(暗に)意味しているのです。


量子力学にては、物質におき、その粒子とその波動はなぜか同時に共存するのです。


さらに、物質が波動の状態にあるときに、物理量は確定していず、その物質の存在は曖昧です。つまり、波動の状態にある物質にては、非決定性はごく自然なのです。確率解釈も自然になります)。


そして、これらのまだ実証されてはいぬことは、シュローディンガァによる波動関数の定式化などに深刻な影響を与えると、推測されます。(複数の波動関数は重ねあわせることができるそうですが、その重ねあわせも影響を受けそうです)。


さらに、ドゥ ブロイ波や、二重スリトゥ実験で示唆される波動は、波動関数で定式化される波動とは異なると、思われます。このため、波動関数で定式化される波動もまだ実証されていず、波動関数そのものもまだ実証されてはいないことになる、と思われます。(複数の波動関数の重ねあわせも実証されてはいない、と思われます)。


(たとえば、二重スリトゥ実験で確認されしことは、運動する単独の電子になんらかの波動性がしょうじ、相互作用の発生により、その波動性が消失し、電子が粒子のような――必ずしも粒子そのものではない――状態になる、ということと、思われます。実証されつのは、この程度のシムプルな事実です。(しかし、このことからは、根底での物質の存在とはそういうものなのだ、ということになる、と思われます)。(波動関数が崩壊せしことが確認されしわけでは決してありません))。


実証科学として大事なことは、実験結果に従うことと思われます。前記の実証されてはいぬことを確かめるには、なにが光子や電子の粒子を体現(構成)し、なにが光子の波動・ドゥ ブロイ波・二重スリトゥ実験での波動を体現(構成)しているのかを、見極めるのが一番と思われます。


2) 素粒子レヴェルでの粒子の意味は曖昧である


素粒子レヴェルでの粒子の意味は曖昧と思われます。


粒子は、無数のエナァジ(または、超弦)を膠でガチガチに固めしようなものでなく、たとえば、遠方から眺める太陽や恒星のようなものであり、痕跡・写像・先入観に起因する印象・解釈のようなものにすぎない可能性もある、ように思われます。


1個の波動さえ、遠くから眺めれば、粒子に見えます。さらに、1個の波動を空間の局所的な1点に集中させるなら、それが実際には無数の構成要素群からなる1個の統合的な集合体であろうとも、それはまさに粒子のようなものに見えます。(このとき、波動の振動は、粒子のようなもの――物質――の振動に変貌するかも知れません)。


(そして、「粒子と波動の二重性」の意味も曖昧です。波動性と粒子性は、同時に現われるのではなく、ほかの物質との相互作用の発生の有無にしたがい、互いに切り替わるだけなのかも知れないということも、考ええます)。


3) 固体はこの宇宙のどこにも存在しない


固体――粒子・物質的で具体的で堅固なもの――は、実際には、この宇宙のどこにも存在しない、と思われます。それは、途轍もない量のエナァジと物質がビグ バンで噴出せしことから判断できます。途轍もない量のエナァジと物質に、ビグ バンで一瞬に噴出するという強烈な芸当ができつとするなら、それらは絶対に固体ではありえません。


エナァジと物質は、元もと、存在してはいませんでした。存在しなかりしものが存在しはじめるというのは、端的に不条理です。このため、エナァジと物質は、存在できるギリギリのところで辛うじて存在しているだけであり、実際には非物質的で抽象的であり、物質的で具体的な固体ではありえない、と推測されます。物質の(波動の)存在の曖昧さ――非決定性――は、そういう事情の反映なのかも知れません。


物質は自分が固体であることを自分で偽装しているわけではありません。サイズの大きな世界にすむ私たち人間や生物には、物質が固体であるよう、見掛けじょう、感じられるばかりです。


物理的に死にている固体に押しかえす力はありません。しかし、物質には、無数の痕跡で形成される、固体としての確かな手ごたえがあります。そして、そこに実際あるのは、物質の機能的な正体であり、エナァジで体現される、内的な作用群と、思われます。(この作用群は、非物質的で、微視的であり、直接に観察することは不可能です)。


そして、そのなかには、(作用・反作用の法則――ニュートンの運動の第三法則――で定式化されて、それを体現する)、相互作用にて押しかえす作用も含まれます。物質には押しかえす作用も具わりていて、それが押しかえすです。たとえ物質が実際には固体でなくとも、もしも押しかえす作用が具わりているならば、それは自分が見掛けじょう固体であることを偽装できます。ぎゃくに、もしも物質に押しかえす作用が具わりてはいないなら、それは、ほかの物質にとりては透明になるゆえ、実質的に、この宇宙に存在しないことに、なります。


物質にそなわる内的な作用群が、物質が固体であること――物質の痕跡・写像・印象・解釈――の源です。


こういうことのゆえ、固体はこの宇宙のどこにも存在しない、と思われます。


4) 波動関数はまだ実証されてはいない


波動関数は、エナァジで体現される実体としての何らかの無数の構成要素群で形成される、実体としての波動は、定式化してはいぬ、と思われます。


しかし、波動関数は、1個の単独の物質――または、1個の量子系――に可能な無数の量子状態で形成される観念的で非物理的な波動を定式化しているそうです。


量子力学では、ドゥ ブロイ波そのものや二重スリトゥ実験で示唆される波動そのものが観測できないゆえに、次のように想定されている、と思われます。


1個の粒子としての物質(量子)には、同時に、波動性も具わりている。しかし、もしも実体としての粒子と実体としての波動が同時に存在するなら、それは不合理である。このため、波動性は、(エナァジで体現される)実体でない抽象的なものとして同時に存在する。


そして、その抽象的な波動は、無数の量子状態から形成される。そして、1個の量子状態は、1個の物質が取りうる無数の状態のうちの一つの状態を表現する情報である。つまり、1個の物質の波動は、その物質が取りうる無数の状態を表現する無数の情報から形成される。


そして、その波動は、波動として振動しており、条件次第で干渉を起こすことができる。ドゥ ブロイ波や二重スリトゥ実験では、この干渉による干渉縞が観測される。


しかし、波動そのものが観測できないのには理由がありうると、思われます。それは、波動そのものを観測できる媒体――例えば、最低単位のエナァジ――を人間が随意に扱うことがほとんど不可能だから、ということです。物理的な理由は考えうるのです。このため、もしも最低単位のエナァジを人間が扱うことができるなら、物質の波動さえもが観測できるかも知れません。


そして、情報は、観念であり、普通には、非物理的です。つまり、1個の量子状態は、物質が取りうる無数の状態のうちの一つを表現する非物理的な観念なのです。このため、無数の量子状態で形成される波動も非物理的で観念的なもの、ということになります。つまり、波動関数で定式化される波動は、非物理的で観念的な波動なのです。


しかし、ドゥ ブロイ波や二重スリトゥ実験では干渉縞が観測されますが、それは具体的なものであるゆえ、それにより示唆される波動も物理的で具体的なもの、と判断されます。


なぜなら、波動が、エナァジで体現される何らかの実体としての構成要素群により形成される具体的で物理的なものでないかぎり、実験で観測されうる具体的な干渉縞を形成することは、不可能だからです。そういうことは不合理であり不条理です。


この世は一元論の世界と思われます。そして、エナァジが、その唯一の元と思われます。さらに、スピノウザやベルクソンに依るならば、無は存在しません。真と思われます。このため、無は何事も体現しえず、もしもそこに何かが存在するなら、それは、必ず、無以外の、エナァジで体現される何らかの実体でなくてはなりません。


そして、エナァジで体現される実体ではないものは、物理的には、無に該当します。このため、そういうものは、何事も体現できす、具体的な干渉縞を形成することは断じてできないのです。


そして、実験で示唆される波動が具体的なものであるゆえ、その波動は、波動関数で定式化される非物理的で観念的な量子状態の波動ではありえない、と判断されます。それは、波動関数の波動とは別物です。


つまり、ドゥ ブロイ波や二重スリトゥ実験で示唆される波動は、波動関数で定式化される量子状態の波動ではないのです。ドゥ ブロイ波や二重スリトゥ実験では、量子状態の波動が実証されしわけではありません。つまり、波動関数は、まだ実証されてはいないです。そして、単独の物質に、無数の量子状態で形成される波動性の具わることも、実証されてはいないです。


さらに、量子状態という非物理的で観念的なものが、自分らで相互作用をし干渉を起こすことも、まだ実証されてはおりません。


量子力学で想定されている波動性は、無数の量子状態で形成される非物理的で観念的な波動を指しており、かつ、物質にそういう波動性の具わりていることは、量子力学では自明のこととされている、よう思われます。しかし、物質にそういう波動性の具わりていることは、まだ実証されていず、まるきり自明ではないのです。


5) 量子力学は物理的な因果性を超越している


さらに、複数の波動関数は線形結合させることができ、その結合は重ねあわせと呼ばれるようです。つまり、接触の有無を問わなく、複数の物質(または、系)の波動関数は、シムプルに結合させることができるらしいです。


しかし、もしも1個の物質の波動が実体ならば、(核融合や化学合成などに依らないかぎり)、複数の波動を単純に結合させることは不可能と、思われます。(このことからも、波動関数は非物理的・観念的・抽象的な波動を定式化していると、判断されます)。


恐らく、量子状態、波動関数で定式化される波動、そして、波動関数の重ねあわせは、観念として、研究者の意識のなかにのみ存在し、それらの現実的な対応物は、この物理世界には存在しなかろう、と推測されます。


波動関数を定式化せしシュローディンガァは、「シュローディンガァの猫」の思考実験を考案しました。しかし、彼は、波動関数の重ねあわせについての疑問を呈するために、その思考実験を考案せしそうです。つまり、シュローディンガァ自身は、波動関数の重ねあわせに懐疑的なりきのだろう、と思われます。


(しかし、シュローディンガァの思いとは裏腹に、「シュローディンガァの猫」はこれまで一人歩きをしてきしよう見えます。さらに、波動関数も、実証されないままに、遠くまで一人歩きをしてきしよう見えます)。


さらに、波動関数の重ねあわせの枠組は、きわめて強力と思われます。ほとんど無敵です。なぜなら、その枠組によるかぎり、あらゆる物理事象を、なんの根拠も原因もなく、随意に、ごく簡単に関係づけてしまえるからです。


しかし、この世は物理的な因果性により成り立ちているように見えます。そして、その枠組は、その因果性をほとんど超越するのに等しいと、思われます。


そして、それが可能なのは、やはり、波動関数が非物理的で観念的なものだから、と思われます。


意識は、量子力学にては、なぜか、外部の物理事象に巻きこまれているように見えます。しかし、それは、量子力学てには因果性を無視できる枠組が採用されているからと、思われます。


しかし、意識は、物理的ではあるものの、完全に受動的であり、かつ、それの発生する領域内部に完全に閉じている、と思われます。意識は、能動探知をするレイダァでも魚群探知機でもなくて、因果性の枠組のうちでは、外部の物理事象とは丸きり関わりないのです。意識は外部の物理事象には全ぜんお呼びでなくて、意識の出る幕はないと、思われます。


たとえ運動する単独の物質に波動性が発現するにせよ、干渉縞が実験で実際に観測されるなら、それによる示唆される波動を、実体としての無数の構成要素群から形成される物理的で具体的なものと考えるのは、ごく自然です。


しかし、もしも、現実の物理系を表現するとされる複数の波動関数が、因果性の裏をかき、現実的な根拠や原因もなく、理論上で簡単に重ね合わせられるなら、それは、見掛けじょう関係のない複数の物理系が、理論上では関係づけられてしまうようなことです。それは、並みの感覚より一枚うわてでありて、とても巧妙であり、とても高尚で深遠です。


しかし、そういう想定は、オカムの剃刀――思考節約の指針――に背いているかも知れません。


6) 波動関数の起源


波動関数は、非物理的で観念的な量子状態の波動を定式化していると、思われます。どこからそういう想定が始まりつのでしょう? 光子に波動性とともに粒子性も具わりていることが、アインシュタインとコムプトンにより発見されしこと、かも知れません。


なぜそういう想定が為されつでしょうか?


私たち人間は、粒子を無意識的に確実なものと考えているように思われます。そして、そういう印象や先入観はとても根深くとても強い、と思われます。さらに、素粒子については、そういう印象はより強いと思われます。


つまり、観測されし波動にかんし前記のような非物理的で観念的な想定が為されつのは、電子――素粒子――が1個の粒子であるという先入観があまりに強かりしため、と思われます。電子が、いきなりバラバラになり、波動を形成するというのは、きわめて考えにくいです。または、電子が、1個の堅固な粒子でありつつ、実体としての波動性を帯びることは、端的に不合理であり、不条理です。


そして、この想定には、電子が、1個の粒子であると同時に、波動性もおびる、という想定も、含意されています。(先に推測せしとおり、量子力学では、物質の粒子性と波動性は同時に共存する、と考えられているのです)。


それで波動性は非物理的で観念的で抽象的にならざるを得なかりきです。


ドゥ ブロイ波や二重スリトゥ実験で示唆されし波動の(構成的な)正体は、まだ見極められてはいない、と思われますが、それも上記の理由によると思われます。


しかし、電子が、いきなりバラバラになり、波動を形成するということが、ありそうもないという思いは、粒子の意味の曖昧さに起因する一つの実証されてはいない想定です。しかし、電子が、いきなりバラバラになり、波動を形成するということは、ありうるかも知れません。実証科学として量子力学は、この辺りのことを確認するのが望ましいかも知れません。


7) 粒子性と波動性の様相についての可能性


粒子性と波動性は同時に現われるのではなく、単に、相互作用の発生の有無により互いに切り替わるだけである、とも考ええます。(このことは、さらに、粒子の意味や形態的な存在様相によりても影響される、と思われます)。


波動の粒子への切り替えは、波動関数の崩壊に該当するのではないかと思われますが、このように考えるなら、ごく簡潔なものになる、よう思われます。


いずれにしても、この宇宙は因果性により成り立ちているのでありて、どのような物理事象であろうとも、それが発生できるためには、なんらかの物理的な原因が必要です。そして、波動性と粒子性の相互切りかえについては、相互作用がその原因になる、と思われます。


光電効果やコムプトン効果により示唆される光子の粒子性は、そういうものかも知れません。光子の波動が電子(の粒子)に衝突し、相互作用が起きる瞬間に、光子の波動は、粒子のような状態になり、物理量が確定されるです。そして、光子のそれまで曖昧なりし存在は、明確になります。そして、そのことで、光子は、その明確な運動量により、電子を弾き飛ばせるのです。


(そもそも、ビグ バンでは、途轍もない量のエナァジや物質が、1ミータァほどの大きさの初期空間のなかの無数の極微の点から同時に噴出せしくらいです。このゆえ、それらは、物質的で具体的な固体ではありえなく、波動の状態と粒子のような状態の相互的な切りかえくらいは朝飯前、と思われます)。


そして、波動性は、物質が緊密な粒子のような状態にあるときに、その振動に変化する、という可能性も、あるかも知れません。


物質の波動のおのおのの構成要素も波動であればいい、と思われます。


(そもそも、最低限のエナァジや超弦が、固体ではない、非物質的な(球形の)波動のようなものかも知れません。(なぜなら、エナァジや超弦が存在できるためには、それらは少なくとも動いていないといけないからです。なぜなら、エナァジや超弦は作用そのものでなくてはいけないからです。そして、動いているなら、作用でありえます。そして、波動であれば、動いていることができ、作用でありえます))。


そうすれば、1個の物質が、波動の状態にあろうとも、粒子のような状態にあろうとも、その構成要素群は、波の重ねあわせによりて、大きな波動、または、粒子のような緊密な波動を、形成できるかも、知れません。


(こういう解釈はシムプルであり自然と思われます。そして、この解釈は、オカムの剃刀――思考節約の指針――に背くこともない、と思われます)。


8) 非決定論と確率解釈はごく自然なことかも知れない


さらに、また、もしも電子がなんらかの無数の構成要素群で形成される1個の統合的な集合体なら、基底の状態である波動の状態にあるときに、その物理量――空間位置――が確定していず、電子の存在が、ある意味、曖昧であることは、ごく自然です。そして、ほかの物質とのあいだで相互作用が発生するさいに、物理量の確定が確率でしか予測できないことも、自然です。つまり、非決定論と確率解釈は、電子(物質)にとり、ごく自然なことかも知れません。


ただ、物質の基底の存在様相は波動の状態とも考えられます。そして、それは順当と思われます。


(なぜなら、最低単位のエナァジや超弦が、根本的には、波動ないし振動子のようなもの、と考えられるからです。エナァジや超弦は、自発的・主体的・能動的に動作しつづける物理的作用そのものと思われますが――なので、エナァジや物質は永久運動機関のようなものと言えます――、動作するには、少なくとも、時間の経過のなかで変化できることが不可欠です。そして、変化するには、波動ないし振動子のようなものであることが、ベストゥです。もしも振動してはいないなら、エナァジや超弦は存在できないのかも、知れません。


他方、もしもエナァジや超弦が波動ないし振動子のようなものならば、無数のエナァジや超弦の結集は、(外的なエナァジの働きと)波の重ねあわせによりて、より大きく統合的な集合体を形成できる、と予想されます。それが物質の創発――核融合や化学合成――に該当するかも知れません)。


電磁波や空気の分子を除外して、地球のほぼ全ての物質はつねに他の物質と接触しています。このため、地球のほぼ全ての物質の物理量はつねに決定されており、その存在はつねに明確です。(これは、圧倒的な偶然という先の見えない非決定性につねに包囲されている私たち人間や生物にとり、心休まることかも知れません)。


9) あたらしい実体論の模索


「<現実>とは何か」 (1) という表題の本があります。


(1) 西郷甲矢人さいごう はやと田口茂たぐち しげる 「<現実>とは何か」 副題: 数学・哲学から始まる世界像の転換。東京 筑摩書房、2019


この本では、物質・現実・それらについての考えかたなどにつき、たくさんのことが、現象学と数学の圏論を拠りどころとして、ふかく掘りさげて考察されています。


そして、この本では、「現 わ れ る も の を 現 わ れ る ま ま に 受 け と る」という現象学的な思考法にもとづき、「粒子の実体論」と「場の実体論」の両方が否定され、物質の存在様相をより「現 実 に 即 し て」解釈する新しい物理的な枠組の模索が提案されている、よう思われます。


もっともなことと思われます。そして、なにが光子や電子――物質――の粒子や波動を体現(構成)しているのかの見極めは、その新しい枠組の模索の目的に答えるもののよう、思われます。


10) 物質の波動での干渉


ところで、二重スリトゥ実験は光子でも実施され、光子でも干渉縞が観測されしそうです。すると、光はエナァジの塊なので、光子の波動がエナァジで直接に体現(構成)されること、そして、最低単位のエナァジ群――エナァジの量子群――が自分らで直接に干渉を起こすことは、容易に推測されます。


ドゥ ブロイ波や、二重スリトゥ実験での波動は、無数の量子状態で形成されるひ抽象的で非物理的な波動でなくて、無数の最低単位のエナァジ群で構成される具体的で物理的な波動なのかも知れません。


物質の波動での干渉は、それを構成する無数の最低単位のエナァジ群が自分らで起こしているかも知れません。


そして、光子や電子――物質――の粒子も、無数の最低単位のエナァジ群で構成される、具体的な、しかし、緊密な結合状態にある、粒子のような波動なのかも知れません。


11) むすび


量子力学は、事実(現実)ではなく、事実についての一つの解釈に基づきていて、かつ、その解釈はまだ実証されてはいない、と思われます。


量子力学では、非物理的で観念的な量子状態から形成される波動が大まじめに扱われています。しかも、そういう波動を定式化する複数の波動関数を随意に重ね合わせることができる、ともされています。このため、量子力学はこの世の因果性を超越していると、思われます。


量子力学は、実証科学でなくて、物理学でさえないことに、なりかねない、と思われます。


量子力学は以下のことを果たすのが望ましいと思われます。


i) なにが物質の粒子や波動を体現(構成)するかを見極める。


ii) 物質の粒子や波動の形態的な様相――構成的な状態――がどのようなものであるかを、明らかにする。


iii) 物質の粒子性と波動性が同時に共存しているか否かを見極める。


iv) 量子状態の存在を実証する。


v) 波動関数で定式化されて無数の量子状態から形成される波動の存在を実証する。


vi) 波動関数で定式化されて無数の量子状態から形成される波動が物理的な干渉を起こすことを実証する。


vii) 複数の波動関数の重ねあわせが現実の物理事象に対応することを実証する。


12) (追記) 二重スリトゥ実験の変形


物質の形態的な様相を明らかにするための試みの一つとして、次のような、二重スリトゥ実験の変形が考えられます。


二重スリトゥ実験におき、スリトゥの向こうの左の空間と右の空間のあいだをマイナスに帯電させし板などで完全に遮断する。この実験は、干渉縞を観測することは目的とはしない。


電子の波動が、二つに分割されしまま、再び一つに融合することができなくなるかも、知れません。そして、左と右のそれぞれで、半分の電子の痕跡が残される、かも知れません。しかし、1個の電子は、左右の波動を合わせし全体で構成されます。そして、電子が素粒子であるという点で、この状態はきわめて強い、と思われます。このゆえ、そういうことは起こりえない、とも思われます。このため、どのような結果が得られるのかは、予想がつきません。それでも、電子の形態的な様相――構成的な状態――がどのようなものであるかをより詳しく推測するための一助にはなるかも知れません。






  《 二重スリトゥ実験の変形 》


物質の形態的で構成的な存在様相を明らかにするための試みの一つとして、次のような、二重スリトゥ実験の変形が考えられます。


二重スリトゥ実験におき、スリトゥの向こうの左の空間と右の空間のあいだをマイナスに帯電させし板などで完全に遮断する。(この実験は、干渉縞を観測することは目的とはしない)。


電子の波動が、二つに分割されしまま、再び一つに融合することができなくなるかも知れません。そして、左と右のそれぞれで、半分の電子の痕跡が残される、かも知れません。しかし、1個の電子は、左右の波動を合わせし全体で構成されます。そして、電子が素粒子であるという点で、この存在様相はきわめて強い、と思われます。このゆえ、そういうことは起こりえない、とも思われます。このため、どのような結果が得られるのかは、予想がつきません。さらに、実験結果は、実験装置での、左右の半波動の再融合を阻止する仕方にも、おおきく影響されるかも、知れません。


それでも、結果については、次のように、いくつかの可能性は考えられます。


i) もしも遮断が物質的に弱ければ、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、左右どちらかの半波動が、遮断を突き抜けて、もう一つの半波動に合流する。そして、左右どちらかの板に、衝突痕跡が1個のこされる。


ii) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、遮断の隙間をとおり、もう一つの半波動に合流する。


iii) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、電子の衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、二重スリトゥの位置まで瞬時にもどり、そこから、もう一つの半波動に合流する。


iv) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、電子の衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、テリポートゥ(瞬間移動)して、もう一つの半波動に合流する。


v) 二つの半波動は、分割されしまま、左右それぞれで板に衝突し、それぞれで痕跡をのこす。


vi) 二つの半波動は、再融合できないゆえに、電子という素粒子としては崩壊し、電子としての結合エナァジを放出しながら、エナァジに還元してしまう。左右それぞれの板に、衝突の痕跡は残るかも知れない。


そして、得られる結果は、電子の形態的で構成的な様相がどのようなものであるかをより詳しく推測するための一助にはなるかも知れません。


この実験は、電子(物質)の存在そのものを扱うゆえに、素粒子物理学の分野での実験になるよう思われます。それでも、電子の形態的で構成的な存在様相を見極めるための手がかりを齎してくれるかも知れないゆえに、量子力学にも深く関係していると、思われます。


実証科学としての物理学にとり、この実験は決して無意味ではない、と思われます。どこかでこの実験が実施され、結果の出されることが、つよく望まれます。






  《 物質の存在 》


1) 光子や電子の存在の曖昧さ


2) 問いがなければ答えはない


3) エナァジには創発の傾向が具わりているように思われる


  ................


1) 光子や電子の存在の曖昧さ


光子の波動や、(二重スリトゥ実験で実証されているように)、電子が単独で存在しているあいだの波動の状態は、物質の基底の存在様相と思われます。この様相では、波動の構成要素群が波動の占める空間に散在するゆえ、物理量――空間位置――が確定していず、物質の存在は、ある意味、曖昧です。


しかし、その曖昧さは、むしろ、自然と思われます。(その前に、物理量が確定してはいないこと――物質の存在が根本的に非決定論的なこと――も、自然です。なぜなら構成要素群が散在しているゆえに)。なぜなら物質は元もと存在してはいなかりきからです。元もと物質は存在してはいなかりきです。


つまり、物質にとり、非決定論――その物理量が確定していず、その存在が、ある意味、曖昧なこと――は、自然なことなのです。


他方、存在してはいなかりしものが存在しはじめるというのは、端的に不条理です。


このため、物質は、それの存在を偽装できるギリギリのところで辛うじて存在しているのかも、知れません。曖昧さは、そういう事情の反映なのかも知れません。


そして、(元もと存在してはいなかりきので)、物質(と、その構成要素群)は、じつは、物質的でない、と思われます。(元もと存在してはいなかりきので、物質的なものが存在するというのは、不条理です)。それなのに、物質は、じぶんが堅固な物質であることを偽装しているように、見えます。


その存在様相が粒子様のものになることが、その偽装の手段である、と見なせます。なぜなら、物質が単独では波動の状態にあろうとも、その物質は、その構成要素群を空間の局所的な1点に集中させて、その物理量を確定させて、相互作用の相手になんらかの明解な応答を返すことで、自分がここにしっかり存在することを、相手にたいし主張できるからです。


(物質にとり、それくらいのことは朝飯前、と思われます。なぜなら、そもそも、ビグ バンでは、途轍もない量のエナァジと物質が、およそ1ミータァほどの小さな初期空間のなかの無数の極微の点群から噴出しつからです)。


つまり、よしんば、それが偽装であろうとも、粒子様の状態になり、相手にたいし何らかの応答をかえすことは、この宇宙に明確に存在するためには、合理的なわけなわけです。


つまり、もしも、物質が、このような枠組で存在しているならば、その枠組は、自然でありて、かつ、合理的なわけなわけです。(そして、この枠組は、オカムの剃刀――思考節約の指針――の指針も遵守しています)。


2) 問いがなければ答えはない


さらに、二重スリトゥ実験は、前記の「<現実>とは何か」 (1) でも言及されています。そして、この実験は、「粒子の実体論」や「場の実体論」とともに、現象学と圏論の立場から、詳しく検討されています。さらに、この本では、「不定元」「非規準的選択」「置きかえ可能性」「問いがなければ答えはない」なども詳しく検討されて説明されています。


そして、この本の考えかたに倣うなら、電子の波動のおのおのの構成要素は不定元と見なせ、波動は不定元の海と見なせます。さらに、相互作用の発生は、電子の存在を問う問いと見なすこともできます。そして、不思議なことに、なぜか、電子(物質)の基底の存在様相(と現実)は、この本の考えかたに添いている、よう見えます。


この宇宙に元もと存在してはいなかりし電子(物質)は、根本的には、辛うじて存在できる曖昧な状態――波動の状態――で存在しているよう見えますが、それは、問われないかぎり――相互作用に巻きこまれないかぎり――、その存在を確定させる必要のない状態とも見なせます。


そして、(不定元の海の状態にある)単独の電子は、問われることで、その存在を、(非規準的選択により、そして、置きかえ可能性を適用し)、なんらかの値に確定させて、なんらかの応答を実施するのです。そして、こういう動きによりて、その電子は、相互作用の相手にとりて、めでたく存在していることになります。


ちなみに、物理的な相互作用の発生が問いの発生と見なせることは、必ずしも比喩的なものというわけでもありません。


相互作用の発生は、まず、物質自身によりて検出されて測定されなくてはなりません。そして、この検出と測定の働きは観念的です。さらに、物質は、測定結果にしたがい、粒子様の状態への移行――物理量の確定――を遂行しなくてはいけませんが、構成要素群を空間の局所的な1点に集中させるには、そのための計画・設計・指令のようなものが必要です。そして、それらは何らかの演算なしでは齎されません。つまり、問いがなければ、思考(演算)はなく、答えもないのです。そして、演算も観念的です。そして、相互作用が、測定と演算という観念的な働きを活性化させるなら、相互作用の発生も、観念的なものである問いと見なせるのです。


(ところで、物質におき、測定や演算という観念的な働きが果たされることは、物質が存在するためには不可欠です。なぜなら、物質の動き――物理事象――は極めて厳密だからです。そして、厳密な動きの実現には、測定や演算が欠かせないからです。さもなくば、物質の動きは完全にランダムで一貫性のないものになり、そもそも、この宇宙や物質は存在できないからです。


さらに、測定や演算という観念的な働きは、言わば、知性の働きです。このため、物質に測定や演算の働きが具わりているということは、物質に知性が具わりていることを含意します。物 質 に は 知 性 が 具 わ り て い る のです。そして、物質にそなわる知性が、人間や生物の知性と意識の源です。そもそも物質に知性が具わりているゆえに、人間や生物にも知性が具わりつ、とも考えられます。(ただし、これは汎心論ではありません。心とは異なり、知性は必ずしも生物だけには限られないからです))。


もしかすると、こういう、物質の存在の基底のレヴェルにおける、問いの発生と、測定と演算という観念的な働きの活性化の枠組は、一般的な問いと思考の枠組の原点ないし原型なのかも知れません。


そして、このことは、さらに、自由意志のないことも含意しているよう、思われます。なぜなら、思考(演算)が、問いとしての外因的な相互作用――言わば、思考の種――により活性化されるからです。なぜなら、外因的な相互作用が、考えはじめるための切っかけになり、かつ、思考の方向――たとえば、粒子様の状態に移行するための演算という方向――を指定するからです。意識は、自分の意志で自由に考えはじめ、かつ、考える方向も自由に決定しているわけでない、のです。


ちなみに、つぎの二つが自由思考の要件と思われます。


i) 意識はじぶんの思考機能(作用)を自分で形成する。


ii) 意識は考えはじめるための切っかけ――初期入力・思考の種――を自分で用意する。


物質内部で観念的な働き――思考の原型――が活性化されるには、問いとしての外因的な相互作用の発生が必要ですが、このことは、物質には上記のiiを果たすことができないことを、意味します。それで自由思考(自由意志)はないのです。


さらに、物質には、上記のiを果たすこともできません。そもそも物質は被造物だからです。


3) エナァジには創発の傾向が具わりているように思われる


電子(物質)での波動の状態と粒子のような状態の相互的な切りかえは、電子内部の事象なので、外的なエナァジやエントゥロピは関係ないと思われます。それでも、電子の基底の状態である曖昧な波動の状態は、秩序が低く、粒子のような状態は、すこし秩序が高い、と思われます。


物質にとり、基底の状態である波動の状態は、ある意味、比喩的には、らくな状態なのかも知れません。


物質の外部において、物理的秩序は、エントゥロピは増大するという熱力学第二法則により――外的なエナァジのランダムな働きにより――、自然には崩壊します。


しかし、物質内部での二種類の形態的な存在様相の相互的な切りかえ(と、物質の、より大きく複雑な物質への進化という、一般的な事象)から、エナァジには、自分自身を素材として、より高い物理的秩序を形成しようとする傾向が具わりている、ように思われます。この傾向は、言わば、創発の傾向です。エナァジには、創発の傾向が具わりているのです。


これは意外に大事なことかも知れません。なぜなら、より大きく複雑な物質の自然形成は、エナァジにそなわる創発の傾向に負うているかも知れないからです。また、意識の創発や、各種の物質の、統合的で包括的で協調的で見事な形をゆうする結晶の塊の自然形成――オートポイエシス――や、生物の発生・自発的で主体的で能動的で協調的な動き・進化――オートポイエシス――も、エナァジの創発の傾向に負うている、よう思われます。


(ちなみに、それぞれのオートポイエシスのシステムの全体に統合性・包括性・協調性などをもたらす物理的な枠組――単なる物理的な力や要因だけではそれらを齎すことは決してできません――は、今のところ、まだ物理学には知られていない、と思われます。なので、それは、物理学や自然科学にとりての未踏の領域です。特に、結晶の塊の形成プロセスのなかでは、そういう枠組が間違いなく働きている、と予想されます。そして、結晶の塊の形成はとても静かなので、かなり扱いやすい、と思われます)。






  《 固体は存在しない (1) -- ビグ バンを根拠として 》


固体は具体的です。しかし固体は元もと存在してはいませんでした。なぜなら、この宇宙は、およそ137億年まえに、ビグ バンから始まりつからです。


そして、元もと存在してはいなかりしものが、いきなり存在しはじめるというのは、端的に不条理です。


この宇宙に存在するエナァジと物質の量は途方もありませんが、(ビグ バン理論によるならば)、この宇宙のはじまりのビグ バンでは、まず、極微の宇宙の種が、ごく短時間のうちに、1ミータァくらいの大きさの空間にまで膨れあがりしそうです。そして、その後、途方もない量のエナァジと物質――物質は、ここでは、ビグ バンで噴出せし各種の素粒子を指します。原子は水素原子とヒーリアム原子までです――が、やはり、ごく短時間のうちに、その小さな初期空間のなかの無数の極微の点から、同時に、一気に噴きだししそうです。


しかし、もしもエナァジと物質が具体的な固体なら、途方もない量のそれらが、互いに重なりながら、極微の点から一気に噴きだすということは、端的に不可能です。


むしろ、途方もない量のエナァジと物質が極微の点から一気に噴きだすことができつとするなら、それらは、サイズの大きな世界に住む人間にはとても理解できない極めて抽象的で不思議なものなくてはなりません。


途方もない量のエナァジと物質が、小さな初期空間のなかの無数の極微の点から同時に噴出するという強烈な芸当を果たすことができつという点で、それらは、もう、固体でないと、判断されます。そもそも、ビグ バンでは、固体は噴出しなかりきです。エナァジと物質は、根本的に、物質的――固体――ではありえないです。


さらに、きわめて抽象的なものとして噴きだししエナァジや物質が、噴きだししのち、具体的な固体に変貌するというようなことは、とても考えられません。なぜなら、エナァジと物質の形態的な存在様相の質に、固体でない質と固体としての質の二種類の質があるわけではないからです。この宇宙に噴出せしときのエナァジと物質の形態的な存在様相の質は、以後も変化することはなく、いつまでも持続する、と思われます。


こういう次第で、物質的で具体的ななもの、物質的で具体的ななものである固体がこの宇宙に存在するのは、そもそも不条理です。元もと(この宇宙に)存在してはいなかりしエナァジや物質は、固体ではない極めて抽象的で不思議なものとして、この宇宙に存在しはじめ、かつ、いつまでもその質を持続させるです。


このゆえ、エナァジや物質は固体でなくて、固体は、実際は、この宇宙のどこにも存在しはしない、と思われます。


  ................


ちなみに、こういうことのため、たとえ、固体と解釈されるものがこの宇宙に無限に存在するよう見えるにしても、それらは実際には固体ではありません。固体は、実際には固体でないものが固体と解釈される物理的な枠組をとおし、見掛けじょう存在しているばかり、と思われます。


そして、そういう、物質の形態的な存在様相の質についての枠組は、二重スリトゥ実験の結果で示唆されている、よう思われます。なぜなら、二重スリトゥ実験の結果は次のようにも解釈できるからです。


ほかの物質と相互作用をするときは粒子のような存在様相をとる物質も、単独で存在する基底の状態に戻るなら、なんらかの、無数の、直接には観測できない、非物質的で抽象的な構成要素群で形成される波動の存在様相をとる。


  ................


ところで、さらに、エナァジは作用そのものと思われます。なぜなら、作用でないなら、エナァジには如何なる動きも働きも生じなく、そもそも存在できないと、思われるからです。


(エナァジの外に物理法則は存在しなく、言わば、エナァジの正体である作用(の働き)が、エナァジにおける物理法則であり、すべての物理法則の源と、思われます。作用が、みずから、自分(= エナァジ)の動きと働きを、自発的・主体的・能動的にもたらしているのです)。


そして、そういうエナァジは、固体でないと、思われます。なぜなら、固体は動かないからです。動かないものは、根本的に、いかなる働きも果たすことできず、作用たりえません。作用そのものであるエナァジは、作用として動くので、固体ではありえないです。


(なにかがこの宇宙に存在できるためには、少なくともそれは何らかの状態で動いていることが必要なのでしょう)。


そして、エナァジが存在しはじめるにしても、それは、辛うじて存在できるギリギリのところで存在しはじめる他はない、と思われます。エナァジは、固体にはならなくて済み、かつ、動いて作用を果たすことのできる、ギリギリのところで存在しているに、違いありません。


(物質ならば、そういう枠組は二重スリトゥ実験で示唆されましたが、最低単位のエナァジで二重スリトゥ実験を遂行することは不可能です。(そもそもエナァジは作用そのものなので、エナァジそのものについての何かを実証することは不可能です。なぜなら、エナァジに対してどういう操作を加えるにせよ、その操作においてエナァジの作用が働きてしまい、邪魔をしてしまうからです))。


それが、固体ではない、抽象的で不思議な様相での存在です。エナァジにそなわる作用は、人間にはとても理解できない不思議で抽象的なものと思われます。


こういうことのため、エナァジは固体でないのです。


(このことから、さらに、(時間の経過のなかで)自発的・主体的・能動的に動けることが、エナァジの根本的な要件と、考えられます)。


  ................


そして、アインシュタインによれば、物質はエナァジと等価でありて、物質は根本的には無数のエナァジで形成される、と思われますが、作用そのものであるエナァジが固体でないので、物質がどれだけ無数のエナァジで形成されるにしても、その物質も固体でないことになる、と思われます。(固体でないものをどれだけたくさん結集させようと、それは決して固体にならないのです)。


つまり、この宇宙に固体は実際には存在しないです。


  ................


ちなみに、固体は、人間が、物質と人間の意識のあいだで発生する無数の物理的な相互作用の果てに感知する痕跡・写像・印象・解釈のようなものにすぎないと、思われます。私たち人間は、物質を直接に感知しているわけではないのです。


そして、固体であること――痕跡・写像・印象・解釈であること――が、「物質的」の意味かもしれません。私たち人間は、痕跡や写像などを物質的と感じているのです。


他方、固体ではなく抽象的で不思議なもの(= 作用)であることが、「非物質的」の意味かも知れません。


エナァジや物質は、実際には固体ではない抽象的で不思議なものとして存在しはするが、固体でありて物質的なものは、この宇宙には存在しない、と思われます。






  《 固体は存在しない (2) -- 素朴な説明 》


1) 物質が堅固な固体の粒子なのか否かはまだ明確でない


2) 固体の意味


3) 人間は、感知対象を直接に感知しているわけでない


4) 物質の究極の構成要素は固体ではない


5) 固体がただで存在できるとするなら、それは出来すぎである


6) 物質の存在様相は石鹸の泡に似ている


7) 固体の意味 (2)


  ................


1) 物質が堅固な固体の粒子なのか否かはまだ明確でない


二重スリトゥ実験からは、単独で存在するあいだの物質が、無数の構成要素群から形成される波動の存在様相を取ることは、ほぼ明らかです。さりとも、ほかの物質とのあいだの相互作用に巻きこまれしさいに、堅固な固体の粒子になるか、それとも、構成要素群の緊密な集合体になるだけなのか――空間の局所的な1点に集中する目の詰みし結合状態になるだけなのか――は、まだ明確ではありません。


もしも、物質が相互作用時に堅固な固体の粒子になるのなら、固体は、この宇宙にめでたく存在することになりますが、さもなくば、固体は存在しないことになります。


ちなみに、もしも物質が堅固な固体なら、単独の存在になるさいに、瞬時に、ひろい空間に散在する波動の存在様相を取るなど、逆立ちしてもできやせぬ、と思われます。


ちなにみ、また、もしも物質の正体が内的な作用なら、物質が堅固な固体でないことは、説明ぬきに、ほぼ明らかです。ぎゃくに、物質が、内的な作用の具わらない堅固な固体であれば、ほかの物質とのあいだの物理的な相互作用に与かれないので、そもそも物質は存在できないと、思われます。これもほぼ明らかです。なので、根本的に、固体は存在しえないのです。


2) 固体の意味


固体の意味は、比較的、曖昧と思われます。


それでも、具体的で、物質的で、動きのないものが、普通は、固体に該当する、と思われます。


このため、液体や気体の状態にある物質も、その構成要素――分子や原子――は固体、と思われます。


3) 人間は、感知対象を直接に感知しているわけでない


さりとも、固体は根本的に存在しえないと、思われます。固体は、実際には、この宇宙のどこにも存在しない、と思われます。


まず、人間は、感知対象――物質――を直接に感知しているわけではありません。


なぜなら、人間による観測は、かならず光や電子などを情報伝達の媒体としなくてはならないからです。光などが媒体となりているなら、その媒体が観測対象と接触する瞬間、相互作用が発生します。そして、相互作用が発生するなら、波動は消滅し、物質は空間の1点に局在する粒子のような状態になりてしまいます。


しかも、人間は、観測対象を直接に観測しているわけでもありません。人間による観測におき観測されるものは、観測対象に衝突し、跳ねかえりてきし、(媒体である)光や電子です。その媒体の形成する像が、物質と解釈されるです。しかし、その像は、言わば、光や電子などの媒体と観測対象とのあいだに生じし相互作用の痕跡であり写像です。その像は、観測対象そのものでは決してないのです。観測対象そのものは、あくまで物質です。


(ただし、観測対象の像が人間の意識に形成される枠組は、それほど単純なものではありません。観測では、観測対象についての物理的な情報――意味的には、痕跡ないし写像――が、観測対象と人間の意識までのあいだに存在する無数の物質群に発生する無数の相互作用のなかで果てしなく伝達されてくるのです。そして、その結果として、観測対象の像――痕跡ないし写像――が、意識に最終的に形成されるです)。


ちなみに、物質そのものを媒体なしに観測することはできませんが、しかし、ある意味、観測対象の物質と直接に相互作用をする媒体は、物質を直接に観測している、とは言えます。


(そして、物質の正体は、物質にそなわる内的な作用群です。そして、作用群そのものを直接に観測する方法は存在しないです。なぜなら、相互作用が生じてしまうので)。


そして、媒体の形成する痕跡ないし写像は、一般に、物質的な固体である粒子ないし固体の物質に見えます。


おそらく、人間は、媒体の形成する像(写像)を観測対象――物質(にそなわる内的な作用群)――そのものと勘違いしているのです。


しかし、よしんば、このような観測の枠組におき、物質が固体に見えようと、そのことは、物質そのものが固体であることは、決して意味しておりません。(たとえば太陽や恒星がその良い例です)。


なので、いまの段階では、物質が固体であるか否かは、まだ不定です。


しかし、私たち人間のすむ大きなサイズの世界では、物質は、一般に、内部にも、固体――粒子――と解釈される分子や原子が隈なく詰まりています。(もっとも、それらの構成要素のあいだには、物質が存在しなく、かつ、空気の分子も存在しない真空が存在するので、物質には、じつは、真空が多量に含まれていることに、なります)。このため、人間が、物質が固体であると誤解するのも、無理はない、と思われます。


4) 物質の究極の構成要素は固体ではない


しかし、原子より小さな素粒子の世界に降りてゆくなら、物質の構成の様相はかなり変化します。


素粒子は、一般に、少数の、より小さな、そして、種類の少ない別の素粒子により形成されます。そして、この枠組は、素粒子のサイズが小さくなる方向で再帰的に繰りかえされます。


つまり、素粒子の世界では、サイズの大きな世界での物質とは異なり、物質は、その表面も、内部も、無数の同じ種類の構成要素により形成されているわけではないのです。


そして、この宇宙で一番ちいさな物質はニュートゥリノウと言われ、それも粒子と見なされるようですが、ここまで来てしまうなら、最早、その構成要素は見当たりません。強いて言うなら、ニュートゥリノウの構成要素はエナァジと、考える他はないのかも、知れません。


つまり、相互作用により得られるニュートゥリノウの痕跡が粒子であろうと、ニュートゥリノウが固体であるか否かは実際には分からなく、かつ、その内部には、最早、固体の構成要素は含まれないのです。(すると、ニュートゥリノウの表面も固体でないと、強く推測されます)。なぜなら、ニュートゥリノウの構成要素と推測されるエナァジは、固体では有りえないからです。固体は、自発的かつ主体的な作用の面で、外的にも、内的にも、物理的に、完全に不活性であり、比喩的には、物質として、物理的に死にていて、硬直しています。そのようなものでは、より大きな物質――より大きな物理的秩序――は形成されえません。物質は、かならず、自発的かつ主体的に働きつづける能動的な作用をゆうする――体現する――柔軟なものにより形成されなくてはいけないのです。それはエナァジです。


つまり、この宇宙に存在する全ての物質の究極の構成要素――エナァジ――は固体ではないのです。


すると、固体でないもの――エナァジ――により形成される、この宇宙に存在する全ての物質も、実際には固体ではないと、判断されます。この宇宙に固体――粒子――は存在しないです。固体の外見や手ざわりは、物質そのものでは決してなくて、(作用群の働きにより残される)痕跡ないし写像にすぎないのです。


アインシュタインによれば、物質とエナァジは等価だそうです。それはその通りと思われます。しかし、固体の物質は実際には存在しません。むしろ、物質は、エナァジそのものです。または、エナァジで体現される作用群が、物質です。


5) 固体がただで存在できるとするなら、それは出来すぎである


もしもシムプルな固体がただで存在できるとするなら、それは出来すぎです。不条理です。この宇宙での全ての物理的な存在は、その正体が、エナァジまたは作用群という、非物質的で、きわめて不思議なものだからこそ、存在できるかも、知れません。存在するものは、根本的に、不思議なものでなくてはならないのです。(もしもエナァジや物質が私たち人間には容易に理解できない極めて不思議なものということであるなら、まだ許せます、受け入れられます)。さもなくば、存在できません。


元もと、この宇宙や物質――それらの正体は究極的にはエナァジ――は、存在してはいませんでした。それなのに、ビグ バンをとおし、それらが創造されつということは、ただ事ではありません。存在しなかりしものが存在しはじめつということは、それらが存在の世界に無理やり捻じこみてきしようなものであり、ただ事ではないのです。その創造の物理的なメカニズム――創造作用のメカニズム――は、きわめて深遠であり、サイズの大きな痕跡(写像)の世界にすむ私たちには逆立ちしても理解できないに違いありません。


このゆえ、物質が、単独で存在し、ほかの物質と相互作用をしていぬあいだ、(物質の基底の存在様相とおもわれる)波動の存在様相をとり、その存在――物理量――が確定していぬということは、むしろ、自然です。元もと存在していなかりしゆえに、ほかの物質と関係を持たぬあいだ、波動が振動していてあやふやであることは、存在と非存在の中間の状態のようなものであり、存在――言わば、より高い物理的秩序の形成――にむけての動的な準備体操のようなものと見なせるかも知れません。


そして、そういうことは、物質の正体である内的な作用群のメカニズムについても同じ、と思われます。作用群の働きのメカニズムすら、私たち人間には理解できないに違いないのです。そのようなものが、物質的――物理的に不活性な固体――なわけはなく、眼に見えるわけもなく、物理的に観測できるわけもありません。


さりとて、サイズの大きな痕跡の世界にすむ私たちにとり不思議なものでなければ存在できないということは、ある意味、合理的で自然なことと思われます。


6) 物質の存在様相は石鹸の泡に似ている


大きなサイズの世界での物質の存在様相は、たくさんの泡で形成される石鹸の泡に似ていると、思われます。石鹸の泡の内部には石鹸液は含まれてはいませんが、これと同様、物質の構成要素――分子や原子――の内部にも、固体は含まれてはいないです。内部は、物理的ではありても、物質的でない、そして、その作用の動作にかんして柔軟な、微視的な作用群により満たされている、と推測されます。そして、その表面も固体ではありません。表面には、微視的な作用群が露出していないといけないのです。(表面が固体でありて、作用の面で不活性ならば、分子や原子は決して化学反応に関与できないからです。そもそも、相互作用に与かれないので、この宇宙に存在できません)。


しかし、私たち人間は、物質を、その痕跡ないし写像を経由して感知するしかないのであれば、(固体と勘違いされる無数の痕跡が隈なく充填されている)物質は、やはり、固体と勘違いされる他はないのかも、知れません。


さらに、無数の痕跡で形成される、固体としての確かな手ごたえもあります。死にている固体に押しかえす力はありませんが、作用・反作用の法則――ニュートンの運動の第三法則――を体現する作用が押しかえすです。物質に押しかえす作用が具わりているならば、それは自分が見掛けじょう固体であることを偽装できます。押しかえす作用が存在するのです。


7) 固体の意味 (2)


固体は存在しないので、固体を定義することは難しいと思われます。それでも、物理的かつ内的かつ動的かつ微視的な作用の具わりていないこと・物理的かつ内的かつ動的かつ微視的な作用にかんして死にていること・物理的に死にていることなどが、その意味になるのではないか、と思われます。


「物質的」とは、物質にそなわる内的な作用の働きの結果として残される(得られる)(静的で物理的に死にている)痕跡ないし写像を物質とみなす、物質の外部――巨視的な領域――における、静的な観点での形容詞、と思われます。ひと言で言えば、「物質的」は「固体である」を意味するのです。そして、「非物質的」は「非固体」「固体ではない」を意味するのです。


(ひるがえり、「物理的」は、作用やその働きを重視する、物質内部――微視的な領域――での、動的な観点での形容詞です)。


ちなみに、痕跡や写像は、基本的に、作用・反作用の法則の働きから得られると、思われます。このゆえ、力学的な相互作用を律するニュートンの運動の法則――運動の第一法則(慣性の法則)・運動の第二法則・運動の第三法則――は、物質にそなわる内的な作用のレヴェル――(物質の内部空間での)微視的なレヴェル――で働きている、と思われます。


それにしても、固体――粒子――が存在できないこと、そして、固体が、実際には、この宇宙のどこにも存在せぬことは、すこし驚きです。






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