3 この宇宙の元と実体
3 この宇宙の元と実体
無は存在しない
この宇宙の元と実体
《 無は存在しない 》
無は存在しません。このことは、フランスの哲学者のベルクソン(Henri-Louis Bergson)により発見されて表明されました。真と思われます。
もっとも、ホランドゥの哲学者のスピノウザ(Baruch De Spinoza, Benedictus De Spinoza)も類似する意味のことを表明していたようです。スピノウザは次のように書いています。
無からは何も生じない。これと、そして、同様の命題は、絶対的な意味で永遠の真理と呼ばれている。
そして、無が存在しないことは、次のように説明できます。
説明1:
無という言葉は、存在しないものを意味します。それは、同時に、なにも存在しないという状態をも意味します。しかし、そのようなものは体現できません。そのようなものを自ら体現できるものは存在しないです。このため、そのようなもの、つまり、無は、存在しないです。
説明2:
もしも、なにかが、無ではないなら、つまり、有ならば、その何かは存在します。なにかは、無ではない限り、つまり、有である限り、かならず存在しています。つまり、なにかが存在するなら、その何かは決して無ではないのです。なにかは、なにかとしては存在するにせよ、無としてだけは断じて存在できません。
説明3:
無という言葉は、存在しないものを意味します。それは、同時に、なにも存在しないという状態をも意味します。ここで、無が存在できると仮定してみます。しかし、こう仮定すると、その仮定は、その場で、無の意味に背くことになります。そして、ただちに、最初の仮定が虚偽なりきということになり、無は存在できないことになります。
つまり、無は、存在できないのです。存在しないという概念をひと言で表現できる無という便利な言葉があるだけなのです。無は存在しないです。無はパラドクスです。無が存在しはじめし途端、その無はパラドクスになります。なぜなら、無は体現できないものだからです。
《 この宇宙の元と実体 》
仏国の哲学者であるベルクソン(Henri-Louis Bergson)と、蘭国の哲学者のスピノウザ(Baruch De Spinoza, Benedictus De Spinoza)に依れば、無は存在しません。真と思われます。なので、それが何であるかは分からないにせよ、なにかが存在する必要があります。
そして、この宇宙にはまずエナァジが存在します。エナァジはとても不思議なものですが、物質はこのエナァジと等価である、と言われます。エナァジが、この宇宙の元である、と思われます。エナァジが、それ自身が実体であると同時に、そのほかのあらゆる実体の構成要素です。
そして、元であるエナァジで形成されるものは、すべて、物理的であり、実体です。エナァジで形成されることが、「物理的」と実体の本質と思われます。実体で形成される作用も実体です。空間を形成し物質に質量をもたらすと言われるヒグズ粒子も実体です。空間は実体です。この宇宙に存在するものは、ほぼ全て、実体です。
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さらに、宇宙はダイナミクに動きつづけています。また、物質も、対外的には自発的に動かないにせよ、内部的には自発的かつ主体的に動きつづけて――作用しつづけて――います。
たとえば、物理学には、「粒子と波動の二重性」という概念があり、物質には波動と粒子の二面が具わりている、と理解されています。しかし、波動も、粒子も、物理的な手段により観測されることで出現する、静的な結果(形態的な痕跡・物理性質・スケイラァ)でしかありません。たとえば、粒子の痕跡が残されるとしても――また、波動性も、たくさんの粒子の痕跡により示唆されます――、その実験事実は、物質の正体が粒子であることまでは、必ずしも意味しません。結果(痕跡)は、物質のほんとうの正体ではないのです。その実験事実が意味することは、そういう実験結果が残されることを可能とする何らかの根本的な作用が物質のなかで働いている、ということです。このあたりは物質の存在の基盤なので、その存在やそういう存在様相を可能とするための作用が登場せざるを得ません。なので、むしろ、そういう作用が物質の正体、と思われます。作用が働かないかぎり、物質はなんの結果(痕跡)も残せないのです。(なので、物質にそなわる作用群はヴェクタァと言えます。なぜなら、それらの作用群は、自発的・主体的・能動的に働くからです。言わば、物質には、「ヴェクタァとスケイラァの二重性」・「能動性と受動性の二重性」・「主体と客体の二重性」が具わりているのです)。
粒子と波動の二重性(という結果)は、その出現を可能とする何らかの作用の働きにより齎されます。そして、粒子の痕跡は、基本相互作用(と、その働きを補完する別の作用)の働きにより齎されます。
つまり、物質のほんとうの正体は、粒子でも、波動でもなく、物質にそなわる、自発的・主体的・能動的に働きつづけている作用群です。
こういう点で、宇宙と物質に動きをもたらす直接の原因である物質の作用群が、宇宙の元である、とも見なせます。
そして、それらの物質作用群が、エナァジにより直接に体現される、と思われます。
(ただ、細かく穿鑿しなければ、ふつうには、粒子が物質の正体である、と理解されているようです。
ただ、この場合でも、固体の粒子が物質であるとは、思われません。むしろ、作用群を体現するエナァジの緊密な集合体が、粒子のように見えるだけ、粒子の痕跡を残すだけ、と思われます。(物質の正体は、あくまで、観測できない、エナァジ、または、エナァジで体現される作用群です))。
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さらに、実体は、必ずしも巨視的とは限りません。微視的な――無形で、触れず、観測や測定が困難か不可能で、ふつうの物理法則が適用されない――ものも、もしもそれがエナァジにより体現されるなら、実体です。たとえば、基本相互作用を始めとする物質作用群は、まさに微視的です。(微視的でないかぎり、物質作用群は巨視的な結果(形態的な痕跡)を残せないのです。巨視的な結果をもたらすものであるゆえ、物質作用群は、微視的であらざるを得ない、とも言えます)。
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そして、そういうものが存在すると言うのは適切ではありませんが、この宇宙には、実体――巨視的、または、微視的――ではないものも、短時間のあいだ、動的に発生する、と思われます。それらは、身体感覚、思考、そして精神です。これらは、意識にそなわる身体感覚作用、思考作用、そして意識そのものの、動きの影ないしモニタァのようなものとして、ダイナミクに発生し、そして、また消える、と思われます。
そして、これらは観念です。観念は、エナァジで体現される実体としては存在しませんが、実体である何らかの作用の動きの影のようなものとして、動的に発生するのです。そして、観念は、実体ではないので、物理的ではありません。
(ちなみに、以上のことは推測にすぎません。身体感覚、思考、精神、観念、意識などをイメジしやすくするための、モデルのようなものです)。