ヤーウェ・リネ
話は少し戻る。
カダルは民衆がパニックを起こしているのを見て年老いた爺を一人置いておけないと走り出す。
リネもカダルの背中を追おうとした。
しかし「火竜が暴徒となった人間を恐れています」というアリウスの声で断念した。
彼の冷静な言葉に今すべきことを考えたのだ。
――ポポロを鎮められるのはわたししかいない。
リネが人の波に押されつつ広場へ向かうと、ポポロ達はやはり怯えて身を縮めていた。身体も大きく強いが、響わたる足音がどうも怖いようだ。わめき、叫ぶ声に合わせて尻尾を揺らしている。聴覚が優れているだけに普段と違う〈音〉に脅えている。
「大丈夫だからね」
リネは喉輪から首筋にかけて優しく撫でた。
このまま広場でカダル達を待とうか思っていたが、この状態ではそうもいかないようだ。リネは一旦空へと逃げることを決断した。
広場に着くまでに声を拾い、あらかたの事情は押さえておいた。どうやらデンジャーらしい。たぶん今ごろ、カダルとアリウスは巻き込まれているのだろう。
「わたしはどうしたら……」
民衆の走り方はパニックからかバラバラで纏まりがない。話を聞いても結局、どこにデンジャーが出現したのかはわからなかった。
いや。
空に昇れば情報を得る可能性がある。
「――ポポロ、上へ。お願い」
リネは脚に掴まり大空へと向った。
空の上は来た時と変わらない風が吹いているだけだった。
しかし眼下の人々は砂を巻き上げ、移動していた。十字路でぶつかり、転げ、逃げ惑う者も多くいた。
「ポポロ、もっと上昇。頼める?」
リネはできるだけ優しく声を掛ける。火竜はクォンと甘えた声で了承する。
すぐに国を軽く一望できる高さまで上がった。砂漠の太陽がまぶしい。
――二人はどこだろう……
取りあえず安否の確認がしたい。イスマイールの屋敷周辺を探そうか。
そんな時に門の所にイスマイールの私兵達が見て取れた。監禁されていたから遠目でも服装で区別できる。
目を凝らすとそこにカダルとアリウスがいるのもわかった。
「良かった。無事だわ……」
胸を撫でおろしたが、見つけた所でどうにもできない。彼らは何か――たぶんデンジャーのことで調査しているようだ。
門という場所から考えて出入口だろうか。
何か手伝えることがあれば、と思ったが火竜を降ろせるだけの場所があいにくなかった。
上空で留まっているとカダルとアリウス達は移動を始めた。それと一緒にリネも動く。
着いた先は道の両方に店が並ぶ場所――たぶん市場か何かだと思うが、目視で人間は確認出来ない。あちらこちらの屋根が崩れ、道に物が散らばっているのが確認できる。そこだけが酷く静かで、まるで廃墟のようだ。
皆はその場所をひとつひとつ確認するように歩いていた。
そして何か一件の店の前で立ち止まる。
リネはしばらく様子を見ていた。
カダルとアリウスが話し込んだ後、いきなりアリウスが剣を持ちまるで踊りのように舞い始めた。
上からよくわからないが、デンジャーと戦っているようだ。
「!」
――が、どうも変だ。
目を凝らすとあちこちに散らばっていたであろうサソリらしきものが、じわりじわりし屋根に集結を始めた。
「もう少し良く見える所まで下降をお願い」
地上ではアリウス達がまだ戦っている。爺やさんにイスマイールの兵士が小さな敵に向って行っている。
刺し、突き、戦う人間。
それを屋根の上から冷静に見下ろすデンジャー達。彼らは仲間を犠牲にして人間の動きを観察しているようにも見えた。
やがてカダルが子供を抱いて飛び出して来た。
「……なんとかしなきゃ」
わかっている。
だけどどうする? 火竜はやはり降りることが出来ない。火を吐けば店を巻き込んでの大火事になるだろう。乾いているだけに延焼は免れない。
「……」
火は駄目だ。
じゃあ、何が?
火が駄目なら水?
リネは咄嗟に思い出した。
以前のことを――監禁された時に呼び出した水を。
水で満ちた大気、霧を纏い全てを拒む大地。清らかで汚れを嫌う山。
リネは祈りを捧げながらコップを頭上に掲げ、胸の位置まで下ろした。そして額の高さに戻すということを繰り返す。
以前にアリウスの館で怪我を負った彼に〈奇跡の水〉を出した方法だ。山に属する薬師で、今はリネだけができる技でもあった。
「――水よ聖なるものよ……」
しかし今度は何も変化が起こらない。
変だと見つめていたらコップの底から白く濁った液体が少しずつ満ちて来た。紗華の花弁を滝の水に浸すと白くなるが、そんな凛と涼やかな色ではない。同じ白でも泥の上澄みをすくい煮詰めたような色だ。
匂いは甘いが毒々しい。
リネは飲んでみようかと思ったが、本能がそれを止めた。これは祈りを宿した〈奇跡の水〉ではない。
山の怒りだ。ニンゲンという者に対する憎しみかも知れない。聖地をないがしろにしてしまった民への感情の発露だ。それとも何か訴えているのだろうか。とらえようもないドロドロとした何かが否定しても湧き出ている
確か監禁中にこんなことがあった。〈奇跡の水〉はもうリネに呼び出すことが出来ない。
ならばその〈穢れ水〉はどうか? 反対の効果があるならば――デンジャーに対してならば良き働きをしそうだ。
「わたしは……」
たぶん大丈夫。使える。
雨のように拡散させてサソリの――デンジャーの上に降らせる。
「……わたしはできる」
リネは不思議な自信が出て来て拳を握りしめた。
もしかしたら御山は違う意味で力を貸してくれているのかも知れない。
「みなさん無事ですかっ!」
「リネ!」
「リネですね」
「状況はなんとなくわかります。みなさん、その場所を動かないでっ」
ポポロに可能な限り下に降りるよう頼む。風圧でデンジャー達が飛び散らないよう慎重に。慎重に。
そして祈った。
「――水よ聖なるものよ……」
リネは自然の〈流れ〉を身に取り込むためにイメージをする。
ひとつぶの雨が地に染みこみ地下水となりやがて地上へと顔出す。
光。
ひかりに満ちあふれた命の水。
頭に御山を浮かべる。その御山からは確かにニンゲンに対する怒り憎しみを感じたが、同時に不思議と慈しみも感じた。
聖地でありながら侵入を許し、また恵を分けてくれる自然。彼ら――もしくは彼女達は果てしなく広い器を持っているのではないか。目先の感情だけではなく先を見通して力を貸してくれているのではないか。
リネの胸は慈愛を感じて熱くなった。
形を変えた聖水よ、また地に満ちよ。
地に。
リネが祈り始めるとはらはらと雨が降り始めた。粒はさほど大きくはない。ゆっくりとゆっくりと空から落ちて来る。リネを中心に直径径二十メートルぐらいだろうか。かなり局所的だ。
火竜が小さく声を上げた。
「あ、ごめんねポポロ。大丈夫。ポポロほどの大きさなら何ともない。人間も平気」
……
「だと、思う」
丁度屋根の上に集まっていたデンジャー達から煙が立ち昇る。背中や尾の部分から幾筋もの煙が天に向かって昇る。
少し焦げ臭い。
そして力尽きたかのように屋根にずらりと居た彼らは一匹、また一匹と地面に落ちて行った。
「リネ?」
まずカダルが不思議そうな顔をして声を掛けて来た。
そういえば彼にこの力を見せたことはなかったっけ。
「あ、その、珠洲の村の薬師は代々――何人かは……いえ、本来の使い方は命を殺めるものではなく」
どう説明したら良いのか。リネの頬に血が集中し、熱い。みんなが見ている。視線を浴びているのが恥ずかしい。カダルやアリウスはともかく他の人達に畏敬の目で見られるのは本当に照れる。
「助けてくれたんだ。ありがとう」
「あ、それほどのことは……」
「魔法?」
「では、ないです……なんと言うか御山の加護だと思います」
「そっか」
カダルは両手で子供をしっかりと抱きながら微笑んだ。
「イスマイールの屋敷に戻ろうと思う。今回のことを長に話さないといけないし。この子も休ませたい」
ああ、カダルはこういう人だったなとリネは思う。出会った時も子供のことで憤慨していたっけ。
「その子は大丈夫ですか?」
「ああ。デンジャーから隠れ逃れていた一人だ。よくわからないが外傷がないからホッとして気絶したんだと思う」
「そうですか」
リネは良かったと小さな声でつぶやいた。と、同時にアリウスの袖が赤いのに気がついた。
「ア――キリト、その左腕は?」
「あ、あぁ。これ?」
アリウスは涼し気な顔でリネを見上げている。黒い髪が心なしか風で揺れた。
「もう乾いていますよ」
「……」
リネは唇を噛む。
なんとなく理由がわかった気がした。
だからこそ何も言えない。囮にしたのであろう腕は大丈夫? なんて綺麗ごとの心配は出来ない。
そうしなければと思った彼の決断はきっと正しかったのだろう。リネは言葉を飲み込んだ。
「イスマイールの屋敷の中庭なら火竜が休める場所もある。キリトの怪我も治療できるだろうしな。それに今は山の使者だかデンジャー討伐に成功したし救出に加わったのだから、屋敷に招かれる大義名分はできるだろ」
「そうですね。そこで僕に提案があるのですが」
カダルにアリウスが声を掛けた。
「我々はこの国に入る時に姿を見られています。顔を布で覆ってもたぶんカダルということは知られているでしょう」
「そうだろうな」
「山の使者であり、今は敵対しているであろうカダルがイスマイールを救った。美談ではないでしょうか」
「キリト?」
アリウスは下に落ちたデンジャーの死体を摘まみ上げた。
「私兵のみなさんはこれを持ってこう言って下さい『厄災は山の巫女・リネが祓った。イスマイールはこれを応援する、と』ね」
リネはアリウスが策を労し、立場を強化するつもりであることに気がづいた。
しかしこれを咄嗟に考えつくとは……きっと彼は日頃から臨戦態勢を強いられているのだろう。
「なるほど。良い考えですな」
カダルの爺が何度もうなづいている。
もちろんカダルも。
「立て札も良いかも知れません。デンジャーを殺した実績があるのですから、『今のヤーウェは私のものなのよ』なんて言っていた女の鼻を明かせますよ」
「キリトは一歩先が読める奴なんだな。スゲーぜ。あ、それにしてもさっ」
カダルは明るい声でリネに語りかけた。
「さっきの雨、デンジャーを殺したくらいだから毛根は平気なんだろうか」
「――は?」
「ほら、俺はともかく爺なんかはもう残り少ないだろ」
「ぷっ」
リネは思わず吹き出した。
横で爺やさんが慌てて頭を手で拭い始めた。そのタイミングがなんだか可笑しい。
「たぶん飲まない限り平気かと」
「濡れた僕は痛みを感じませんでした。リネ、あの雨は人間にはあまり効果がないのかも知れません。というか多少の刺激は毛根の活性化に繋がる可能性があるのでは」
なるほど。
そんな考え方が出来るのか。
「あー、そりゃ良かったな爺!」
「それ、喜べばいいのですか、悲しめばいいのですかっ!」
クールなアリウスに気の良いカダル。
悪気のない二人は良いコンビに見えた。
そう……見えた。
読んでいただきありがとうございました。




