木漏れ日(6)
アーサーの長い指が弓に添えられる。なでるようにバイオリンの弦と触れ合うか、触れ合わないかの一瞬に、音が溢れ出す。陳腐な表現なのだけど、まるで魔法だわ、と思わずにはいられない。
柔らかに立ち昇るような旋律に、生徒たちの息が止まったのが、マリアにも感じられた。
合図なしに元婚約者の足が前へと滑り出す。少しも戸惑わずに合わせられたのは、アーサーの音を聞いていたからだった。音色の緩急は揺りかごのようにマリアを包んで、考えなくとも自然と踊ることができる。一流の演奏家にも、全く遜色ない技術。
右にステップ、膝と腕の曲がりを意識し、そっとパートナーと目を合わせる。視界の背景には、生徒たちが真剣な表情に切り替わるのが見えた。背筋が伸びるような緊張感が、部屋に広がる。
マリアだって緊張感していた。そして手のひらを合わせている相手も、顔には出さないだけで同じなのだろう。
リチャードはマリアの視線に、片眉を跳ね上げる。
(本当、私に言えたことじゃないけれど、何を考えているのか分かりにくい方だわ。……でもアーサーだって、意外と隠し事が上手だったから、きっと、女性に限らず殿方でもうまく嘘はまとえるものなのね)
声に出さないから、余計分かりにくいのだ。なんとなく思うことがあったので、試しに小声で質問してみた。
「リチャード様は、旦那様のことが、お好きでしょう……多分、私よりも」
「……」
サッと苦い色を浮かべ、しかし、たちまちそれをかき消すとリチャードは笑顔で沈黙した。
マリアは続ける。
「間違っていたら、忘れてください。リチャード様は、ポッと出の私がアーサーと、その……私がアーサーに大切にしてもらっているから、拗ねてらっしゃるような気がします。先ほどの、図書室みたいなこと、今まで一度だってありませんでしたから」
リチャードにしては分かりやすすぎるくらい、嫉妬しているように見えた。そう、分かりやすすぎるくらい。
マリアを巡って対抗心を、と巷の陳腐な恋愛小説のようなことは、かつてにはなかったし、彼らしからぬ行動だった。アーサーは疑わなかったようだが、マリアにはそれも演技に思えた。
「違いますか」
くる、とターンをすると、足元のスカートが優美に弧を描いた。リチャードが腕を引いてリードする。
「……俺は、俺なりに元婚約者殿を大切にしたつもりだ。滅多に会いはしなかったけど、しかし、貴女を大切に思っていないわけではない」
「ええ。だって、年に数度会えたらいい方でしたものね。ほとんどは、年に一度でした。当然です」
「図書室のを見破った、そういう頭の回転の速い所も、俺は好いている。愛想がないと貴女は気にしていたらしいが、少なくとも俺は過去に不満を思ったこともない。それは覚えておいてくれ」
「はい」
一度離れ、お辞儀をした。曲調が変わっている。
生徒がついてこれているのを確認して、アーサーが曲を変えてきたらしい。そっと右手同士を重ね合わせ、リチャードと対面する。
「……こういう時は、氷公らしい眼をするのか…」
マリアと踊るパートナーは、演奏者を見やった。うなじに火花の散るような、チリチリとした感覚がする。アーサーがこちらを、鋭く、射るような眼差しで見ているのかもしれない。
「俺のそばにいた時は、だいたいあんな眼をしていたがな。貴女のそばになると、俺の演技に騙されることさえあるらしい。今のアーサーは、俺の知る師とは別物だな。腑抜け野郎は好かん」
「腑抜け野郎にしてしまった元凶は?」
「はん、腑抜けるか否かは、全て本人次第よ。だいたい、氷の公爵のままでいるなら、手こずりもしないし問題は起きてなかった。誰と結婚しようとも、そんなのは大した原因にはならん」
どうしてもアーサーに離れてほしくなかったのだと、リチャードの本音らしい片鱗が、言葉の端から伺わせる。結婚など、それに比べれば些末なことなのだと、隠しもしない。
「氷公は、必要なのですね」
「俺と遜色なく振る舞えるのは、俺と同等か同じ能を持つ者しかいない。俺の隣に立てる者は、そうでなければ、遅かれ早かれ官僚や帝国民に要らない影響が及ぶ」
マリアは手の握る強さをきつくした。
「リチャード様が、アーサーを、必要なのですね?」
帝国民を盾に取るのは、軽い脅しだ。誰が誰を必要なのか、すり替えてもらっては困る。
リチャードの顔に、何故か笑みが浮かんだ。素の表情だったので、背筋も凍りつく凄絶な、冷たく甘い笑顔がマリアの眼に映り込む。生徒が気付く前に、それは引っ込められた。
「ああ。だが、俺はやはり、貴女のことも好いているよ」
それは多分本当のことなのだろう。アーサーの奏でるバイオリンが、一音だけ外した。
(旦那様、動揺した…?)
「くくく、やっぱり腑抜けだ」
リチャードが小さく喉を鳴らす。複雑に変わっていく曲調に合わせ、細やかに右に、左に、足が動く。最後のステップに、生徒たちの足音が部屋中に響く。
ぽつ、と相手は呟いた。
「やっぱり、やめだ。腑抜けよりも使えるヤツなら、俺の周りにはごまんといる。アーサーと元婚約者殿、似合いだよ。俺にこうまで言われても、動じない貴女なら、アーサーが腑抜けでもやっていけそうだ。いいよ、貴女にアーサーをやる。それにアーサーには、貴女をやることになるな……」
いいえ、とマリアの口が動いた。
「それは無理ですわ」
簡潔な否定に、リチャードの眉根に薄いシワが寄る。怪訝な顔をしてマリアの腕を取り、リードする。




