九章
それからは壮絶な追いかけっこの始まりだった。
ヤツの姿を追いかければ、視界の隅にいたのかと思えば眼前に現れ、すかさず拳を振るえば宙を切るのみ。再び距離が離れ、ここぞとばかりに距離を詰めるがそこにヤツの姿はもうない。それどころか隣に並び、にんまりと笑みを浮かべるソイツを再び追いかける。ほとんど、その繰り返しと言ってもいいだろう。
そして、壁を登りきった俺とヤツはショッピングモールの屋根の上に立つ。
本日は七月下旬、照りつける太陽が体を焦がすようだった。流れる汗を軽く拭けば、十メートルほど先で対峙する少年が口を開く、さも愉快そうに。
「楽しいな、本当に。こんな風に駆け回るなんて久しぶりだよ。余裕があるように見えたかもしれないけど、何度か本気で捕まるのかと思ったんだよ……ヒヤヒヤものだよ」
まるでゲームだ、そんな感想が素直に出る。しかし、これはゲームではないヤツの腕の中にはあの少女がいる。
「黙れ、その子を返せ」
一切、躊躇や迷いはない。もしかしたら、これが管理局への反逆行為になるのかもしれない。だが、ここは絶対に引いてはいけないところだ。強い信念が俺を動かす。
「落ち着いて、これがどういう意味か分かるの? ……て、分かってるよね、そりゃ。青の王は管理局に従順だと聞いていたけど、実際は違うみたいだ。これまでの追いかけっこで、既にアンタは反逆行為に等しいことをしているんだ。その意味が理解できるかい。知らないアンタじゃないはずだ、管理局に逆らうその意味を」
「お前をここで止める」
その返事は少年の嘲笑。
「ここで止めればいいと思ってるの……? お気楽だね、本当に。幸いにボクは携帯や通信機の類は持っていない。……うんうん、ここでボクを止めれば管理局に話はいかない、さらに君のどうしても助けたいこの子も守れる。うまくいけば、御の字だね」
うまくいけば、とさらに強く一言。
自分の足元に少女をそっと置く少年。
「一応、名乗っておくよ。ボクの名前は、暗部のナンバー3、ウィンド。名前ぐらいは教えておくよ」
そう名乗るとウィンドの履いているブーツに何かモヤがまとわりつく。そして、その直後にモヤの正体がヨロイだと気づいた。緑色のその塊は、ブーツの形をみるみる内に変容させる。脛まで覆うだけだった履物が腿まで布地を伸ばし、氷柱のように足のいたるところから小さな結晶が突き出している。ふわっと、氷柱が振動する。その震えに応じて、蝶の鱗粉のように緑の光がチカチカと跳ねる。
「それがお前のヨロイか」
「うん、ウィンドが地獄行きかブルーが地獄行きか。さて、暗部の王と表の王……どっちが勝つかな」
「くだらん、俺がお前を止める」
「……違うでしょ、殺す……だよね」
限界までギリギリと足元に入れた力を破裂させる。瞬間的に、ウィンドに迫ったかと思えば、吹き飛ばされるの自分の体。
「ぐっ……」
小学生の短距離走ほどの距離を体が吹き飛ばされる。勢いを殺すこともできずに、地面をごろごろと転がる。次の一撃が迫る気配を感じて起こすと同時に半回転。今まで自分の転がっていた場所が、スコップで地面を掘り起こしたような穴が開く。飛び散るコンクリートの破片を体に受けるが、ブルーの寄生を進めてさらに加速。
「甘いよね、ほんと」
耳元でウィンドの声を感じる。汗を掻くまもなく、体が宙に浮き上がる。
落ちてくる俺を待ち構えていたウィンドがさらに俺を蹴りつけた。
屋根の上から滑り落ちそうな体を腕の力で支える。すぐに体を起こすと前方にはウィンド。
「なぁんだ、ブルーてこんなもんなんだ。ま、能無しの化け物ばかり相手にしてる奴なんてこんなもんか。困ってるなら相談でもしたらどう。アンタ、喋れるんでしょ」
「……なんのことだ」
「知らないの、王の法則。最初はみんな会話をして契約するけど、それ以降もずっと会話できるヨロイは王に相応しいヨロイて言われるんだよ。ボクのウィンドともおしゃべりできるし、君もいろいろお話できるんでしょ。今の王の法則の話もウィンドに教えてもらったんだ」
――そうなのか。
――そうらしいな。
どうやら俺のブルーは相当無口らしい。質問しても教えてくれないが、何かを特別聞こうとも思わなかった俺も悪い。
管理局に入って戦い続けた結果が、王とナンバー4と呼ばれたと思っていた。そういう俺のヨロイに王の素質があったのか。呼ばれて無事に止めることができ管理局に入った奴もいたが、それと同時に襲い来る人間たちを排除し続けた。それゆえの呼び名だと。
だんまりを決め込む俺に小さくため息をつく。
「王のわりには知らないこと多いんだね。いいよ、せっかく楽しみにしてたけど本当に未熟な王だよ」
再びウィンドは姿を消す。そして、脳を鋭く揺らす衝撃。ブルーのチカラで痛覚を鈍くしながら、トドメの一撃や急所を外し続ける。
刀さえあれば何かしらの対策ができるかもしれない。しかし、今はそんな甘えを言ってられる状況じゃない。甘えは捨て、今できる全力で奴に挑まないと勝てない。並のヨロイ持ちじゃない。聞いたことがない暗部、俺の知らない王、妹を名乗る少女。コイツには、たくさん聞きたいことがある。ここでは絶対に引いてはいけない、負けてはいけない。ここで引いてしまえば、俺は一生後悔する。
どこか、どこかでコイツに一撃を与えるチャンスを。ただ、それだけを願いつつ、ウィンドの猛攻を受け、ギリギリでトドメを避ける。ひたすらにそのチャンスを決めての一手を狙う。
※
音が聞こえる。うっすらと瞼を開く。
男の人が二人、消えては現れ、消えては現れている。もう一人の男性は、体のそこかしこを傷つき、また一人はそれを愉快そうに弄ぶ。状況は誰が見ても絶望的なのに、傷だらけの人の瞳は強い意思がある。そして、瞳に見覚えがある。
「凛渡お兄ちゃん……」
お兄ちゃんは、私を守るために戦っている。すぐに分かった。昔、近所の犬に吠えられた時も犬の苦手なお兄ちゃんが庇ってくれた。あの時を自然に思い出してしまう。いつもいつも、お兄ちゃんは私を守ってくれる。いつも……それは絶対に嫌だ。昔の私と今の私は違う。
お兄ちゃんの戦っている人はこっちに気づいていない。今なら、私にも何かできるかもしれない。昨日の夜のように、この私のチカラを使って……。