神様の前で絵は描けない2
「いやだから無理……っ!!」
美しいかんばせを前に、私はまた絶望の底へと落とされた。
「リュエット、大丈夫?」
絵のモデルになってほしいと呼び出したというのに少しも筆が進まない私の奇行を、優しいヴィルレリクさまは心配してくださった。お茶でも飲んで少し落ち着いたら、と保温されていたお茶を新しいカップに注いでくれた。ミルクを多めに、蜂蜜はほんの少し。私の好みのミルクティーの優しい味に、絶望中なのに少し気持ちが和らいでしまう。
「ウィルさま……描けないんです。私、ウィルさまを描けないんです……!!」
「どうして?」
どうしてもこうしてもない。
上着を脱いでいるヴィルレリクさまの黒いベストの色だけでさえ、塗りつぶすだけでなんか違う気がする。ポケットの切れ込みも、ボタンの影も、まっすぐなはずの縫い目すら、ちゃんと描けてない気がする。
「考え過ぎじゃない? 変なところはないと思うけど」
「ぁあああ見ないでください……!!」
クッキーを載せた小皿を持ってひょいと覗き込んできたヴィルレリクさまに慌てて、私はスケッチブックを抱きしめた。
国一番……いやこの世界で一番、1000年にひとりといっても過言ではない絵を描くひとである。いい出来だと思う絵でも恥ずかしいのに、こんな、こんな状態の絵を見せるなんて!
「リュエット、服が汚れるよ」
「見せられません!」
「リュエットの絵なら今まで何度も見てるのに?」
「違うんです! 今はもっと下手になってるんです! だから……だからあんな素敵で美しくてきらきらして生き生きしている魔力画を、生涯をかけて推したい魔力画家であるウィルさ」
「描いてないよ」
唐突にヴィルレリクさまの手が私の口を塞いだ。じっと見つめられて、私は慌てて頷く。
推しちゃだめ、推しちゃだめ。
「…………絵のお上手なウィルさまに見せられないんです」
「そんなことないと思うけど」
「でもそうなんです。納得がいく絵を描けるまで、もう少し付き合ってください」
「それはかまわないけど」
忙しく過ごしているヴィルレリクさまのせっかくの休日を絵のモデルとして費やしてしまっているのに、ヴィルレリクさまは不満も言わずに頷いてくれた。どうにか、せめて描く構図や角度くらいは決めたいけれど。
「今までと同じ体勢でいい?」
「あ、ずっと立ってらっしゃるのも疲れますよね? いま椅子を……」
「座るならここでいいよ」
ヴィルレリクさまは、気軽に言って私の隣に座ってしまった。
立ったままじっとしていたヴィルレリクさまに座ってほしいと思ったけれど、同じソファのすぐ隣は近すぎる気がする。
「あの、ウィルさま」
「全体図が描きにくいなら、細部の描写の練習からしたら? 人間の頭部は複雑だけど、線が多い分手を動かしやすいから」
「そう……ですね」
自分の線に不満を持ってから、歪みやすい緻密な線よりも全体の流れを掴めるように頑張ってきたけれど、一部分だけを練習するのもいいかもしれない。
深呼吸を繰り返し、新しいページを捲り、紙越しにヴィルレリクさまを見つめる。
大きめのソファの左側に座ったヴィルレリクさまは、肘掛けを背にするようにこちらを向いている。腕まくりをした右腕は背もたれに肘をついて軽く頭を支え、左手は、つま先が私に当たらないようにと組んだ足の膝に軽くのせている。
差し込む光が髪の毛をプラチナのように輝かせ、こっちを向いている琥珀色の目は眩しいのか少し細められている。
「………………」
待ってほしい。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
「描かないの?」
「……か……か……」
もしかして、スランプなんか関係なく、描けないのではないだろうか。
もはや誰にも。
ヴィルレリクさまが美しすぎて。
忘れていたけれど、ヴィルレリクさまだって、乙女ゲームの攻略対象だったのだ。前世では私は見たことがなかったけれど、きっとそれはSSR級だったからで、つまりそれは乙女をときめかせるほどの人だったからなわけで。
事実、今の私だって会うたびにときめいているわけで。
イケメンがあふれるこの世界で、ひときわ輝いているヴィルレリクさまを、描くなんてそもそも無謀すぎたのではないだろうか。
リュミロフ先生はよく見てよく描くことが脱スランプの方法だと言っていたけれど、ヴィルレリクさまの顔をじーっと見つめるだなんて、それだけでときめきすぎて難しい。
私は両手で顔を覆って呻いた。
「リュエット?」
「うう……」
「こっち向いて」
「むりです……」
「どうして?」
「直視できないからです……」
婚約者が美形すぎて絵にも描けない。顔のつくりはもちろんだけれど、ちょっとした仕草から言葉遣い、芯の強さが垣間見える目まで何もかもがかっこよすぎて、たとえ私が世界一の画家になろうとも描くことができないのは明らかだ。
描きたい。私をスケッチして楽しそうにしているヴィルレリクさまのように、私も恋人のふとした瞬間を留められるような人間になりたい。でもきっと一生できない。
世界一幸せなのか、それとも世界一不幸なのかよくわからなくなってきた。
「リュエット、もう少し横を向いて、手をずらして」
「はい……はい?」
自分の感情についていけず戸惑うまま、ヴィルレリクさまの注文に頷いた。頷いてから疑問に思ってヴィルレリクさまの方を見ると、何やらさかさかと軽い音が聞こえてくる。何をしているのか見えないのは、大きなスケッチブックが邪魔をしているからだ。その長方体の横からヴィルレリクさまの顔がこっちを覗いて、またさかさかと軽い音が響く。
そのスケッチブックは、私のものだった気がするけれど。
いつのまに。
「あの……ウィルさま? 一体何を?」
「リュエットを描いてる」
「何故ですか?!」
いつの間にかモデルと描く側が反対になっている。
おかしい。
順調に動いているヴィルレリクさまの手は、絵を描くのにふさわしい軽やかさを纏っているけれど、おかしい。
とりあえずスケッチブックを取り返そうと、そしてあわよくば描きたてホヤホヤのものを見せてもらおうとスケッチブックに手をかけると、ヴィルレリクさまは手を止め、そして私を見て微笑んだ。
「リュエットがかわいいから」
そうやって微笑んでから軽く口付けをしたヴィルレリクさまは、時を止めるように絵に残したいほど素敵で。
ヴィルレリクさまが描いた私は、スケッチなのにいきいきと恋する乙女をしていて。
きっと私には一生こんな絵は描けないけれど、でもやっぱり描いてみたくて。
私の悩みは、まだまだ解決しそうにないことはわかった。