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読書好きのプロローグ  作者: ざきや まひろ
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一冊目 この世に神はいない

一冊目 この世に神はいない




ややしばらくして「せんぱ~い」、と荷車を押す青年が情けない声を上げた。木造の荷車は年季が入っており、車輪が回る度、規則的に跳ねる。慣れてしまえば、その振動は気にならない。

「そろそろ自分で歩きませんか」

彼は露骨に不機嫌顔で提案した。だが、それはポーズであると、私は知っている。

「仕事中ですよ先輩」

その通り!現在進行形で勤務中。彼が言うことはもっともだ。いくら職場の部下だとしても、上司が乗った荷車を押す義務はない。不安定な荷車を引くのは、さらに堪えるだろう。だが、私は楽ができる。彼の文句も半分が照れ隠しで、もう半分が私とのふれあい目的だ。そうと理解できていれば、今更降りる必要もなかろう。努力家の部下は好ましい。いつか、心中だけで盛大に称賛してやろう―――と、思っていたにも関わらず。

「もう!その本、読むのやめて歩いてくださいよ!」

彼は欲しがり屋さんだ。褒める予約だけでは足りないらしい。仕方ないので、私は心の中で「あともう少しで終わるから」、「今良いところだから静かにしてくれ」と呟き、心の内を明確に伝えるために、一つ丁寧に頷く。手元から視線を上げずとも、誠実な頷き一つで意思は過不足なく伝わるはずだ。

「あぁもう、あそこに向かう時いつもその本に熱中するんだから」

彼は魂さえ根こそぎ吐き出してしまいそうな、深いため息を吐いた。厳密に言うと、私たちに寿命はない。なので、彼はため息をいくら吐き出したところで、困りはしないだろう。ため息は吐き放題だ。

台車が停まり、数秒の沈黙。神木千鶴は部下であるスウィングが、こちらを恨めしく見ている事を知りつつも、あえて無視をした。そして、荷台がゆっくりと動き出す。

「もう!結局これだよ。だからやめて下さいって、昨日あれだけ言ったのに。一回読みだしたら止まらないんだから」

 確かに昨日「先に読書、済ませておいてくださいよ」と忠告された。押すなと言われたら押すし、読むなと言われれば読む。昨日のあれも、そういったポーズである。彼のおねだりは続いた。

「室長補佐なんて肩書に騙されないで、ちゃんと調べてから就職するんだった。こんなに人使い荒い、残念な先輩しかいないなんて知ってたら、絶対就職しなかったのに。あー暇だなぁ。せめて、話し相手ほしいなー」

彼は一通りじゃれつく。飽きた頃には、荷車を加速させた。いじり甲斐がある奴だ。


ここはエデン。生者が死後訪れる世界だ。隔絶された数多の世界の通過地点。通常交わることがない世界は唯一、魂では繋がっている。あまねく生者たちは口々に、己の宗教観に適した名前で呼ぶ。天国、天界、最後の審判、高天原……

生者達がどのようにこの世界を定義しようが構わない。だが、この世界で生きる我々には、統一した名称が必要である。我々はこの世界の事を楽園の意を込めて、エデンと呼ぶ。私にとってエデンと言う名に相応しい生活がここにあるのかは甚だ疑問だが、仕方なく慣例に従っている。

名前という道具は、個人の一部性質を表すことにも重宝されている。「エデン総合神通力研究部第二研究室、室長、神木千鶴」、エデンでの私の肩書だ。エデンという名とは異なり、こちらは私が能動的な働きによって手に入れた道具だ。断じて左遷ではなく、むしろ栄転。『第二』というからには、『第一』という部署もあるのだが、あそこは、私の自由を獲得するための布石として、踏み台になってもらった。栄転物語については、しかるべき時に、相応しい人物から語られる―――かもしれない。もしくは語られないかもしれない。

大層な部署名がついているが、第二の研究員は私とスウィングの二人だけである。「部署と名乗るのも憚られる見事な零細部署」、いつかそんな噂も聞こえてきたが、私の研究が成功した暁には、自ら発した言葉に刺され、身悶えてくれると有難い。研究成功の暁には、彼らのそんな姿を見られないのが、甚だ残念だ。そのため、先に身悶えるような天誅を下してやったのも、また別のお話だ。

別のお話が多すぎる?まあ、世界には物語が溢れている。こんな物語が、一つくらいあってもいいだろう。一向に始まらない物語ほどつまらないものもないが、何事にも都合というものがある。では、主に私の都合で紹介を進めよう。私は前述の通り、第二の室長であり、つまりは部署の長である。しかしスウィングは、なぜか頑なに、私の事を先輩と呼ぶ。「二人だけの部署を部署とは認めない」とは、赴任初日の彼の発言である。このあたりに彼の細やかな上昇志向が伺えるが、所長と認めずとも、私が望んだ働きをしてくれるならば、問題はない。私は本質の方が重要だと考える。私の研究は、自由の獲得。この研究に、今や彼の働きは欠かせない。


 ポンと軽快な本を閉じる音に、ボフッと重たい音が重なる。勢いよく尻を着いたのだろう。平均的な体型の彼にしては、尻に労りのない、重く荒い音がした。彼の息は荒く、仰向けに倒れ、四肢を投げ出している。

そして、この本は何度読んでも、読後感には戸惑いが付きまとう。

「到着です」と胸を上下させながら、彼が言った。やけくその全力疾走で疲れたようだ。疲労困憊の彼に視線を合わせるため、膝を曲げる。「御苦労」という意味を込め、ペシリと軽く額を叩いてやった。不器用で実直な彼が、不服そうな顔をするが微笑ましい。 

視線を目の前の行列に移す。無機質な表情で、列を成しているのは、元人間。魂たちだ。彼らは現世で肉体の活動を停止させると、肉体から魂だけを離脱させる。肉体から弾き出された魂は、死神の助力を得て、三途の川に辿り着き、渡る。そして、無感動に一心不乱に【ゲート】を目指す。ゲートは新たな転生をするための装置だ。魂たちは一心不乱に、愚痴も溢さずゲートへ突き進む。我々はゲートまでの間に、様々な処理や手続きの場を設置している。

面白味のない虚ろな表情をしている魂たちと違い、我々は特別な存在だ。感情を保つことができる。それ故に弊害もある。次の世界に繋がるゲートや、三途の川には触れられない。なぜなら、魂だけが通過できる結界が存在しているからだ。我々は突破できないこの結界を、プロテクターと便宜上、呼称している。

エデンでは魂の管理を行っているため、ゲートについては広く知られている。だが、三途の川については、分からないことがまだ多い。私の長年の研究成果で、三途の川の効能―――と言ったらまるで温泉のようだが、効果については推察できた。

仮説が正しければ、あれはエネルギーの流動体である。そして、魂の感情消失に大きく関わっている。稀に九死に一生を得た人間が語るのはこの川だろう。現世では定番。肉体の復活が前提だが、彼らは川に触れなかったために、助かったとも言える。ちなみに三途の川の向こう岸で、若い女性が手を振っていたと言う人がいるかもしれない。その方には教えておいてほしい。それはプロテクターを越えられず、目と鼻の先にある絶好の研究対象を、指を咥えて見ている事しかできない私だ。悔しい限りである。

三途の川を通過すると自我が抑制され、思考も停滞する。よって皆が仮面のような表情で、面白みのない個体となる。そのため、渡ったが最後、現世には戻れない。

では、なぜ自我を制限する必要があるのか。我々が意図して作った訳ではないが、その効果は転生のために働いている人々にとっては恩恵だろう。


「オイ!離せよ!俺はまだ、やらなきゃならねぇことがあるんだ。ここで死んでる場合じゃねーよ!」

噛みつくように叫んだ男は、短く刈った黒髪を、まるで虎柄のように部分的に黄色に染めているのが特徴的だ。他には、無精ひげを生やし、筋肉質で強面。威圧することに長けた野性的な眼光は、強面を強調している。しかし、その男は今、数人の職員により、地面に押し付けられている。多勢に無勢、叫ぶことしかできない必死の抵抗は空しく響く。身動きが取れない状況に追い込まれてなお、高圧的な態度で威勢よく喚き散らすのは、勇敢なのか。それとも、無様を演出し、冷静に策を巡らせる切れ者タイプか。もしくは、後先考えないただの馬鹿か。残念ながらこれまでの経験上、たぶん残念な奴だ。

研究過程でも、できる事なら楽しくありたい。だが、期待薄だ。予想外の興味深い物語を秘めた人物であることを、切に願う他ない。毎度のことながら、この場合、私の願いは誰に願えば良いのか分からない。神はどこだ。責任者はどこだ。

しかし、このただの馬鹿かもしれない珍獣だが、三途の川を通過した個体というだけでも実験体として、それなりの価値がある。頭髪通りの珍獣枠。三途の川が機能していなかった場合、ここの受付係の職員は慌てふためくだろう。全てこいつの様に好き勝手に騒ぎ散らしたら、いくら人員を投入しても人手不足になるのは火を見るより明らか。今度、生者にもプロテクター越しに叫び、教えてやろう。「想像してほしい!地獄絵図だろ?」と。

死者の受け入れを放棄する部署が未だないのは三途の川のお陰だろう。そして、死後の世界で地獄絵図とは言い得て妙だな。私としても、これは会心の言い回し。

「お疲れ様です。神木室長、何か嬉しい事でもありました?」

 受付係の一人が、笑顔の理由を問う。青年の声は、珍獣を取り押さえている状況でありながら、緊迫感がなく、場違いなほど穏やかだ。

千鶴は彼の質問に不愛想に答える。

「何でもない」

まさかうまい事言えたから。しかも脳内で。などと、その後の展開が不本意すぎて言える訳がない。悟られては、恥ずか死にできるレベルのダメージだ。いじるのは良いがいじられたくはない。

千鶴はすぐに話題を切り替えた。

「その男どうする予定だ」

「そろそろいらっしゃる頃だと思いまして、待っていました」

相変わらず神がかった手回し。傲岸不遜を自他ともに認める千鶴としても彼の仕事には舌を巻く。

三途の川通過後、最初の通過点である受付では、魂たちの基本情報を記録している。千鶴は気まぐれにこの場を訪れる。なのに、この折り目正しい青年は、ここ数十年間ほぼ毎回計ったように、研究に必要な情報や実験体の提供を滞りなく行っている。そして、けしからんことに、ポーカーフェイス標準装備の私から、時折正確に心情を読む。

千鶴にとっては読むのは良いが、読まれるのは嫌だった。けしからん側面はあるが、彼のお陰で研究がスムーズに進んでいるのは事実。少人数の部署に満足している千鶴にとっても、有能な人材であれば研究室に歓迎だ。研究は捗るし、余暇の読書時間をもっと確保できる。だが―――なかなか、うまくはいかない。

何度か勧誘をかけているのだが、卒なく断られ続けられている。しかも、角が立たないように。初めの数年は、それなら仕方ないと、潔く身を引いていたが、さすがに数十年経つと、あの手この手で華麗に断られている事に気が付いた。それが一番けしからん。

「相変わらず手際が良いな」

 千鶴は皮肉も込めて言った。

「慣れてますからね。それに―――いや、何でもないです」

察しが良い彼だからこそ動揺したのだろう。言葉を詰まらせ、常人では見逃す一瞬、視線を泳がせた。頭の中でそろばんを弾いたのだろう。

「『それに』に続けて何を言おうとした」

私は常人ではないので見逃さなかった。貴重な尻尾だ。逃す手はない。

千鶴は、これまでのやっかみも含めて追及した。

「いやいや、本当に何でもないんですって、何か言おうとして、結局何も思いつかない事ってよくあるじゃないですか」

あるあるネタという、無難な理由でさらりと逃げる。

「【室長権限】」

千鶴が発したのは魔法の言葉だ。終始にこやかな彼の表情が一転した。

「―――え、本気ですか?」

 時間をかけて再確認するのは他の職員。言われた本人は顔色が悪くなり、口をパクパクさせている。魚を思い出す面白い顔に免じて、補足説明を行う。

「本気だ。むしろ冗談を言っているように見えるのか?」

 千鶴は愛想の欠片もなく真顔。ニコリともしない視線に射止められ、千鶴以外の者は一帯の気温が下がったかのように錯覚する。彼らは明らかに狼狽した。

「テメェら、俺を無視して世間話とはいい度胸だな!オラァ‼」

取り押さえられているにも関わらず、会話の外野に置かれた珍獣が吠えた。

彼が暴れて身を捩ると、羽交い絞め状態から脱出。受付係たちの反応は遅れ、自由になった珍獣に、いち早く反応したのは、千鶴と話していた青年だ。再度取り押さえようと動くが―――

「うっ……」

暴走した男に呆気なく殴り倒される。珍獣の拳は、青年の鼻面に綺麗に決まった。彼が反射的に押さえた指の隙間から、血が滴る。

「大人しくしてれば、テメーら【何様】だ!俺は泣く子も黙る獄蓮会の鬼塚虎次郎様だ。ヤクザに喧嘩売って、タダで済むと思うんじゃねぇぞ‼」

威勢よく啖呵を切り、次の標的を千鶴に定めた彼は、力強く踏み込み、丸太のように太い腕を引く。

「何の義もなく、女に手を挙げるなんて、その獄蓮会ってのは、高が知れてるな。それでも、本当にヤクザか」

今まさに殴られようとしているにも関わらず、千鶴は冷静な表情を崩さない。恐れではなく、目の前の男に、侮蔑と怒りの視線を向けている。

急な展開で、反応ができなかった周囲の受付係たちが、喉を詰まらせたように声にならない悲鳴を上げる。虎次郎の拳は吸い込まれるように神木の顔面に叩きつけられる―――と誰もが思った。

しかし、拳は当たっていない。神木は右足を軽く引き、身体をほんの少し傾けるだけで、拳を躱した。当たるはずだった拳が、空振りに終わった虎次郎は、拳の推進力に引かれ、勢いのままつんのめる。

その後、誰もが予想できない展開となった。

虎次郎は「お」とも「う」とも表現し難い、短い声を発する。その発声を最後に、千鶴にもたれ掛かり、沈黙。

千鶴は無言で押しのけると、虎次郎の巨体はそのまま地面に倒れた。彼女は虎次郎に向き直り、白衣に両手を突っ込みながら、慎ましい胸を張る。そしてニヤリと笑い言った。

「『何様』かだって?冥土の土産に答えてやろう。ただの馬鹿以下だった残念なお前にも分かるようにな。私たちは―――神様だ‼」

「「おぉー」」

意識を刈られた珍獣に、声は届かない。代わりに、周囲の受付係たちが喝采した。その者達の輪の中には、先ほど鼻面を全力で殴られ、血を流していた青年もいる。だがなぜか、綺麗な身なり、涼やかな表情で拍手を送っている。

千鶴とは違い、確実に殴られたはずだ。鼻血も出ていたはずだ。なのに、すでに止血され、顔どころか、衣服にすら、出血の痕跡が見当たらない。

千鶴は気になる事実を一度棚上げにし、虎次郎を指さす。

「こいつに【室長権限】を行使する」

「神木室長、お言葉ですが権限行使の宣言は正式名称でお願いします」

 青年は自分にその言葉が向けられた時とは打って変わり、抜け目ない。ちっ、と舌打ちし、睨み付けるが、『決まり事』ですので、と言う。 

明らかに千鶴の分が悪いことは、彼の余裕の表情も物語っている。

千鶴は「長すぎるんだよ」と悪あがきするが、「お互い【また】、上からお叱りは、受けたくないでしょ?」と【また】の部分を微妙に強調して諭される。模範的な彼が規則違反したことはないはずだが、千鶴にはありすぎるほどに、心当たりがある。

千鶴は第一と呼ばれる研究室にいた。その時の室長は、長い神生の中でも記憶に新しく、忘れることができない存在だ。道中に読んでいた本も、彼から譲り受けた物だった。

当時、千鶴は実験の代価として、大規模な爆破事故を幾度か起こした。彼女は、「研究のための施設で実験し、一つや二つ研究室を更地にしたところで、また作ればいいのだから問題ない」、とテロリストも真っ青になる理屈を通していた。しかし、周囲の賛同は得られず、第一の室長に叱責された経験があった。室長は神でなければ爆発に巻き込まれ、何度も死んでいた。傲岸不遜の彼女でも、若干引け目を感じる。受付係の青年が言う『決まり事』は、その室長が作ったものだ。

規則が確立したのは、第二への自称栄転後。研究設備の不足から、彼女はしばしば、第一に忍び込み、実験していた。その度に爆破、そして更地の展開が繰り返される、研究は確実に進んだ。そこに横やりが入る。上司連中の目も当然厳しくなり、見かねた第一の室長から全部署共通の決まり事として、「他部署では、力を行使するにあたり、フルネームと、正式な部署名を宣言しなければならない」と通達がされた。ちなみに、決まりを破った者は、罰則として望まぬ転職の憂き目に遭う。この規則ができてからは、第一を爆破できなくなった。第一で規則通りの宣言を行い、力を行使しようすると、声を聞きつけた室長を含め、有能な上司軍団が押し寄せるためだ。幾度かトライ&エラーを繰り返したものの、神通力を行使した研究は叶わない。爆発を伴う研究が、間一髪のところで次の段階に進んだ事も、わざわざ忍び込まなくても、良くなった理由だ。

私は何も爆発を起こしたかった訳ではない、憂さ晴らしで爆破した事など、一回程度しかないのに、と一回はストレス発散で暴挙を働きながら、千鶴に全く反省の色はなく、規則を煩わしく思っている。

爆発に彩られた過去を忌々しく思い出しながら、千鶴は渋々『決まり事』に則る。

「神木千鶴の名において【エデン総合神通力研究部第二研究室室長権限】を行使する」

毎度言うにしては面倒な長さだが、ものの数秒で終わる宣言。血眼で駆けつけ、私を制止できた元上司軍団は、とても有能だった。彼らが良き理解者であれば、研究の協力をしてもらいたいたかった。

宣言は実際面倒だ。うっかりどころか、意図的に忘れることもままある。千鶴は宣言中に、密告者が出る可能性に思い至る。その時は、確実に潰す手段を考えなければ、と周囲が戦慄する思考を回す。

千鶴は虎次郎の頭に手を置く。彼女が目を閉じと、手から淡く光が散った。一帯に放たれた鮮やかな光は、舞うように揺らめく。まるで花びらが、天から降り注ぐような、美しい光景。しかし、どれだけ美しい光景も、集中の為、無言になっている彼女の引き立て役となる。集中している彼女は神が見ても神々しい。

受付係たちは、余りの美しさに、目をとろけさせ、魅入る。そこへ―――

「せんぱーい」

静寂を切り裂くスウィングの大声。場違いな声を発しながら、顔に似合わない金髪を振り乱し、懸命に駆け寄る。幻想的で厳か。情緒溢れる以上に神聖な雰囲気は、一瞬で瓦解。

受付係たちが一様に、憮然とした表情になる中、揺らめく光は消滅した。スウィングが到着したのは、その数秒後。

「先輩!もしかして、もう、終わっちゃい、ました?」

全力疾走したのだろう、彼は呼吸が整わないままに言った。

「ああ」

「えー!先輩の、【室長権限】の、姿を、見たいがために、やりたくもない、肉体労働を、頑張ったのに!」  

彼は肺に残った空気を吐き切るように叫び、手で顔を覆いながら落胆した。一大イベントに間に合わなかったのが、余程悔しかったのだろう。哀れにも、呻きながら崩れ落ちた。

「スウィング」

「はい!」

名前を呼ばれたスウィングは落ち込んだ様子から一転。姿勢を正し、期待に輝く視線を千鶴に向ける。まるで忠犬。彼の大げさなリアクションに、驚く者は誰一人としていない。良くも悪くも、皆が長い付き合いだ。互いの人となりは、把握し合っている。そのため、次の展開を、スウィング以外は予想している。

「残念だったな」

千鶴はニヒルな笑みを浮かべる。

受付係たちにとっては予定調和よろしく、スウィングは再び落胆する。お約束の後、彼らは咎める。

「スウィングさん、間が悪いですよ!神木室長の【神通力】の雰囲気をぶち壊すなんて。特に【室長権限】の【人生読取】の神々しいまでの美しい輝きは、退屈な業務を日々こなす僕らの癒しなのに」

 千鶴が行使したのは、神だけに許された特別な力、神通力。その中でも人生読取は、彼女だけが扱うことができるものだ。落胆するスウィングに畳みかける非難の声。慰めは一切ない。誰もが、うんうんと頷き、非難に同意を示す。

スウィングも楽しみにしていた一人である。しでかした事の重大さが、よくわかるのだろう。懸命な謝罪を繰り返した。

 千鶴だけはそれを見て、計算通り、と内心笑う。

「それで、どうでした?彼の人生は」

謝罪を終え、幾分か、げっそりしたスウィング。何とか持ち直した様子で訊ねる。

「ダメだ。研究としても、物語としても全く楽しめなかった。主人公がクズだからな、ほとんど共感できなかった」

千鶴は虎次郎の人生自体をバッサリと切り捨てる。

「では、他の検体を探しましょうか?」

実験体として不採用になる気配を察し、受付係の青年は、事前にまとめていたのであろう資料をどこからか取り出し、提案した。

「仮にも自我を保って通過してきた個体だ。F-998として、念のため研究対象とする。だが、今日のところは、あと一人くらい適当なものを頂こう」

千鶴は視線を魂たちに向ける。彼女も以前はこの中の一人だった。ゲート側のプロテクターを通過できず、三途の川にも引き返せないと知ってから、気も遠くなるような長い月日をこの世界で過ごした。

千鶴や、他の神たちにとって、一人一人に同類としての憐れみを抱く感傷は希薄だ。尋常ではない時間の蓄積が、地層のように心を覆う。今の彼女たちにとって、魂たちは研究対象か転生対象でしかない。

千鶴は、硬くなってしまった心で、ふと考える。やはり、研究対象は研究対象にしか見えないが、当然のように受け入れられた自分が少し切ない。

感傷を切り替え、魂たちを見ると、違和感を覚えた。注意深く魂の列を観察する。細めた目が違和感の正体を捉える。

魂たちの中に、緊張で表情を強張らせ、周囲を観察しながら歩く少年がいる。少年の顔には見覚えがあった。いや、見たばかりだった。

「あれを頂こう」

 千鶴はもう一人の実験体として、その少年を指名した。

検体コードF-998―――虎次郎の人生を読み取った際に現れた少年。表情が硬いが、感情を保っている個体だと確信した。

資料を持った受付係も、すぐにどの個体か見当がついたようで、手元の資料を閉じる。

「あの子も自我が残っていそうですね。わかりました。手続きは、いつも通りこちらで済ませておきます。Fはあの少年でラストナンバー。おめでとうございます。それでは」

受付係の青年は、テキパキと話を切り上げ、立ち去ろうとする。

「次はG、Fはもういいんだ。それより分かってるな?」

千鶴は呟き、青年の肩を捕まえて制止させる。彼は肩を小さく跳ねさせ、ぎこちなく振り向く。

「えーっと、何でしょうか……」

千鶴の視線に緊張を滲ませ、しばらく考えるが、見当がつかないといった様子で、申し訳なさそうに首を傾げている。

「まさかお前ほど優秀な男が忘れている訳ではないだろう?」

千鶴は更に畳みかける。

「僕の事を高く評価して頂いているようですが、至らない点も多く、本当に申し訳ありません」

 彼は失礼にならない程度の微笑を顔に貼り付け、社会人として、模範的な低姿勢を崩さない。千鶴の目は細められ懐疑的な視線を送っているが、周囲の神たちは彼女が言わんとしている事が分からず、にわかに騒めく。

「受付係の中で、お前の事は一番高く評価している。先ほどのF-998に不意を突かれて、お前は殴られ鼻血を出したはずだな。しかし【神通力】を使って、一瞬のうちに、止血どころか、衣服の汚れまで綺麗にしている。呆れるほど素晴らしい手際の良さじゃないか。私が手を出さなくても、問題なく再拘束できただろう?これを優秀と言わずなんと言う。そんな優秀なお前は、私の真意を分かっているはずだ。まさかとは思うが、F-998の拘束を解き、私に危害を加える事までが計算か?」

千鶴が彼を優秀だと思う一例を挙げた。そして、私の考えを言い当てろと催促する。答えられないのであれば、先ほどの騒動は、彼が画策した結果であり、後ろ暗いことがあるから答えないのだ、と言外に告げている。無茶ぶりだ。すでに千鶴のいじめっ子モードは全開。

「いやいや、危害だなんて、天地が引っ繰り返っても考えません!鼻血にしても、普段からそそっかしい質なので、怪我の治療や衣服の染み抜きは得意なんですよ。今朝も久方ぶりにコーヒーを飲もうとしたら、神通力の操作を誤りまして、出勤直前にワイシャツを汚してしまいました」青年は神通力に長けている理由を説明し、流れるように称賛が始まる。

「神木室長こそ、あの一瞬のうちに虎次郎のパンチを最小限の動きで躱しつつ、コンパクトな動きで、すれ違いざまに鳩尾に強烈な一撃。―――私、本当に感動しました。

その上、私の負傷の具合までも気配りしていたとは、エデンの知的財産と言われる、明晰な頭脳を持っているだけではなく、強さと慈悲深さも併せ持っている。感動の極みです!そう、極めている!あなた様は正に素晴らしき神の中の神、女神だ!

不詳、僕もあなた様に一歩、いや半歩どころか爪一枚分でも近づけるよう、日々の仕事に邁進したいと思います。それでは、また。仕事に戻りますので、また!」

どこで息継ぎをしているのか分からない、熱を帯びた称賛。その異常な発言量と熱量は普段の彼のイメージからは、かけ離れている。さっさと仕事に戻ろうとしているあたりから、余程逃げ出したいのだろうと簡単に察することができる。

他の者たちに、千鶴の真意は理解できないが、二人の間だけで、駆け引きが続く。

「追い詰めると意外と分りやすいな。F・・いや、コードレイ。褒めちぎって私を煙に巻こうとしても無駄だ。他の者が気づかない私の動きを、お前は冷静に見抜いていた訳だ。やはり優秀だ。その証拠に周りを見ろ」

 優秀だ、優秀だと言う言葉に殴られるように、青年、コードレイは縮こまっていく。

千鶴は検体コードか何かを言いかけて訂正。コードレイが戦慄している様子を見れば、それがただの間違いではなく、隠し立てを続ければ、実験体にすることも辞さない、という脅しが、伝わっている事は明らか。実験体の件をちらつかせ、外堀からじわじわと攻る。核心を突くか突かないかの瀬戸際の会話を千鶴は楽しんでいた。

千鶴の言葉通り、コードレイは周囲を見渡す。彼以外の受付係は、「あれ【神通力】じゃなかったんだ」「まるで目で追えない早業だったよな」「あ、あそこに並んでる幼女、可愛いな。どうにか連れ出せないかな」

最後に、全く関係ない危険な独り言が、ちらりと聞こえたような気がするが、大概の受付係は、千鶴が虎次郎を倒した早業の、真相に気付いていなかった。これで、千鶴が言う優秀の根拠が一つ立証される。コードレイは動揺して、更に墓穴を掘った。

「なぜ私の名前を―――余計な詮索を受けないように、細心の注意を払って、隠し続けてきたのに」

愕然として思わず呟いた自白。彼が戦慄するもう一つの理由だ。万事に用意周到な彼が、普段は絶対に掘らないような墓穴をガンガン掘り進める。

「お前がここに赴任してから、何十年の付き合いだと思っている。何十年も仕事で付き合っているのに、名前を隠し通せるのも、異常な優秀さだ。」

 千鶴の口角が、普段よりも一ミリは上昇する。

「さあ!とっくに分かっているな。置いて行かれた聴衆に、聞こえるように答えて見ろ。これ以上私を煩わせたら、後悔することになるぞ」

コードレイの顔色が青を通りこして白くなっている。冷汗が顎から滴る。彼はまだ往生際悪く、どこかに活路はないかと、思考をフル回転させているようだ。

場の沈黙。千鶴とコードレイのやりとりをきょろきょろと見ていたスウィングが、コードレイの肩に手を乗せる。

「なんの話か全然見えないけど、コードレイさん、神木さんも鬼じゃない。同じ研究室でずっと一緒に仕事している僕には分かるよ。長年の勘では、ここで正直に話せば許してもらえる状況だと思うよ」

スウィングが出した助け舟、コードレイを哀れに感じたようだが、彼は毎度懲りずにいじられている。その舟に保証書はない。

「わ、わかりました。正直に話しますので、どうぞか許してください」

一か八か。潔く沈むかもしれない舟に乗ったコードレイに、神木は温かい眼差しを向ける。

「初めの会話で言い淀んだ『それに』に続く言葉。それは―――」

 コードレイの言葉で、周囲の神々は事の発端を遅れて理解した。そして、半ば忘れていたその会話から、どんな真相が飛び出すのか、固唾を飲んで見守る。


これは、『それに』に続く言葉の真相。そして、コードレイがなぜ優秀であり続けたかの物語であり、千鶴が主役の怪談でもある。

赤裸々に話す覚悟をしたコードレイは、まず上半身を直角に折り曲げて謝罪する。

「迅速な仕事はなにも、神木室長の仕事に貢献しようという、殊勝な考えからではありません。あなたに振り回される同僚を目の当たりにして、自分は被害を受けないようにと、極力関わりを避けようとしました。仕事ができない同僚は必ずと言って良いほど―――ひどい仕打ちをされていたようですので」

ある時、検体の推薦に手間取った同僚が、そのまま問答無用で研究室に拉致された。その後、同僚は一週間姿を見せず欠勤。その間コードレイは、彼が謹慎処分を受けたのだと自己解釈していた。たったそれだけのミスで、謹慎処分とはひどい仕打ちだし、それを他部署から手を回す彼女は、怖い人だと思った。

職場復帰した同僚にふと、何かのきっかけで、研究所での出来事を訪ねた。よく第二研究室の存在意義に、愚痴をこぼしていた同僚だ。さぞ不満を溜めているだろうと思った。それに、普段は行く機会がない研究室は、アンチの彼の目にはどう映っただろう、と好奇心も少なからずあった。結論から言うと、彼女は規格外に怖い人だった。

それはコードレイの中にある、怖いという認識を大きく覆すほどの怖さ。

それまで、にこやかに世間話をしていたはずの、同僚の顔が変わった。今でも忘れられない。見る間に血色が失われ、唇は青を通り越して白色へと変わり、顎を細かく震わせた。新種の楽器のようにカチカチと奥歯を鳴らした顔は、今思い出してもゾッとする。当事者の彼が感じた恐怖は、僕の比ではないだろう。

その日、まともに話せなくなった同僚は、周りの勧めで早退。周囲には分からない細い糸で釣り合っていた糸を、何気ない一言で切ってしまった。彼がその後再出勤する事はなかった。結局、詳しい事は聞き出せないまま、想像を超える恐怖の存在だけが認識できた。彼は今、別の部署で働いているという。心の傷は癒されず、風の噂では、時折思い出して奇声を発しているらしい。

また、ある者は受付係の内部で、熱血漢として定着していた。彼がミスを犯した時、たまたま虫の居所が悪かった室長は、必要以上にこき下ろした。その発言に反感を覚え、鬱憤が溜まっていた彼は猛抗議。口論の末、頭に血が上った彼は、自身の失敗を棚上げ、恐れ多くも、彼女の胸倉を掴んだ。

室長の言い過ぎはあったが、女性が暴力を振るわれると思った皆は条件反射的に制止しようと動き出した。しかし、その心配の必要はなかった。なぜなら、彼が胸倉に掴み掛った瞬間に、宙に浮いたのである。神が扱う特別な力、神通力を使用したと、誰もが思ったようだ。しかし、多少の格闘技経験があるコードレイには見えていた。彼女は最小限の挙動で彼の肘と膝を払い、物理的に投げ飛ばしていた。

研究室勤務者は相当の神通力を使えるものが多いと噂されていたため、まさか成人としても小柄で華奢に見える彼女が、格闘技にも精通しているとは誰も思わないだろう。素人である同僚が、目には見えない力で、宙に浮いたと見間違えても仕方がない。それほど見事な動きだった。彼女の恐ろしさには続きがある。同僚が倒れた時にはすでに、彼の意識はなかったのだ。危険な頭のぶつけ方はしていなかった。彼女は宙に浮いている刹那に、顎先に拳を一閃し、意識を刈り取ったのだ。意識を失った原因は転倒ではなく、脳が激しく揺れたからだ。コードレイの中で更に恐怖が膨らんだ。

彼もまた、何事もなかったかのように研究所に拉致されていった。後日、彼は職場復帰を果たしたが、まるで別人になり果てていた。誰と話すときでも第一声は「ごめんなさい」である。自信に満ち溢れていた以前の性格からは考えられない。別人に生まれ変わっていた。

不意に目が合うと「ごめんなさい」ペンを落とすなど、些細な小さな物音を立てても「ごめんなさい」互いの不注意で肩が擦れ合った時には、真っ青な顔で「ごめんなさい」

「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」…………

コードレイも他の同僚たちも、彼のその言葉が、異様に耳に残り始めた頃、上司から配置転換の通達があり、一部では千鶴の権力によって、劣悪な環境の部署に左遷させられたと噂になった。

千鶴の犠牲者は他にも、正面から対立姿勢で、人気取りをしようとした受付係の労働組合長、研究室を内部から崩壊させようと立ち上がった者、血気盛んな男達など、事例を挙げれば、枚挙に暇がない。

不幸な出来事を、時に近くで、時に遠巻きに見て経験したコードレイは、理解した。神木室長とは、極力関わってはいけないし、機嫌も損ねてはいけない。彼女は一種の災害だ。誰も手出しはできない。同僚の中でもそれが暗黙のルールとなった。

もしも避けられないときには、仕事は最速で終わらせ、印象に残らないようする。彼は元来持つ才覚と、血の滲むような、涙ぐましい努力で仕事に打ち込んだ。情報収集を怠らず、出没する可能性を天気予報のように、独自のデータから割り出すまでになった。時には、上司の目を盗み、手続きを遅らせる工作活動。規則違反も発覚しないように器用に行った。すべては神木室長に目を付けられないように、文字通り必死だった。

しかし、彼は優秀過ぎた。その優秀さが彼を不幸にした。目立たないようにと気を配っていても、優秀な者の働きぶりは、見るものが見ればわかってしまう。一度、目に留まってしまえば、もうカモフラージュは困難だ。気を使う度に目立ってしまう。結果としていつのまにか、千鶴御用達の受付係になってしまった。


一度言葉にしてしまうと、堰を切るように、溜めに溜め込んだストレスが爆発した。涙腺が決壊し、感情が津波のように流れ出す。もう自制は効かない。話し終える頃には、嗚咽でまともに言葉が聞き取れない。

コードレイは思った。自分もきっとタダでは済まない。怖い。だが、言いたいことは全て言った。もう思い残すことは何もない。

最悪のシナリオが優秀な脳内に生々しく駆け巡る。だが、最悪すらも前例から考えるに生ぬるいだろう。コードレイはこれから起こる想像以上の最悪への覚悟をした。

沈黙だった。恐る恐るゆっくりと顔を上げると、神木室長は優しく微笑んだ。眼差しは一点の曇りもなく、春の陽のように温かい。その表情を、涙でぼやけた目で見る。心中に、捨てたはずの期待が芽吹く。涙とともに流れ出し、枯れ果てたはずの希望。

――――そうか。神木室長は、最後まで僕の話を聞いてくれていたんだ。それも、なんの弁解もせずに、一つも言葉も発さず最後まで。この暖かい眼差しだ。僕の話に耳を傾けてくれたじゃないか。

「よく話してくれたね」

千鶴は跪き、泣きじゃくるコードレイの頭を優しく撫でる。

微笑む柔らかな表情は、迷える子羊の懺悔に、慈愛を与える女神そのもの。

コードレイは確信する。――――神はいた!これまでは、悪夢だったんだ。お互い誤解の連続で、運命のいたずらで、すれ違ってしまっていただけだ。彼女は誠意を持って話す勇気があれば、解ってくれた。心の広い方だった。僕は、いや僕らは、なんてひどい勘違いをしてしまっていたんだろう。僕らは言葉を持ちながら、心を通わせるための努力を怠っていた。陰口を叩くのは一人前で、一対多数で陰口を叩き、きっと知らぬ間に、この女性を傷つけてしまっていたに違いない。理解し合い、互いを許し合えたこれからは、手を取り合いながら歩んでいける。ああ、勇気を持って話してよかった。

千鶴が手を差し出す。導かれるようにコードレイが硬く握る。

その光景に、皆が泣く。皆が皆、千鶴に恐怖しながら働いていた。時に身内にも疑心暗鬼になっていた凍り切った心は、コードレイの醜くも勇気ある行動で溶けた。涙は受付係全員が心を動かした証拠だ。

普段、華麗に卒なく仕事をこなしているコードレイが、追い詰められていたとは、同僚であっても、誰も気が付くことができなかった。誰もが自分のミスに過敏になり、視野狭窄を生じ、自分ばかりが気になってしまっていた。彼は良くできる同僚。上司からの覚えも良く、嫉妬していた者も少なくない。器用に見えていた彼は、実は誰よりも努力家であり、その肩に、支えきれない重圧を乗せていた。目立たないためにという一心で、感情を排して仕事に打ち込んでいた。室長御用達になってから、何十年も懸命に働いてくれていた事実。皆が改めて気が付いた瞬間だった。

彼こそが一人、受付係全員の矢面に立ち、盾となって神木室長の横暴から守ってくれていた真の英雄。同僚たちの視線がそう言っている。皆の心は一つになった。

そして、神木室長を悪と決めつけていたが、コミュニケーションが不足していたのかもしれないと皆も感じた。コードレイの話を静かに、真剣に聴き、許してくれた姿勢を見れば、これからは互いに手を取りながら歩んでいける。皆がそう確信した。受付係とエデン総合神通力研究部第二研究室の未来は明るい。


「正直に、全てを話してくれてありがとう」

微笑む千鶴以外、皆が歓喜でむせび泣く。

だが、誰もが目を疑う。千鶴の微笑んだ唇が、嗜虐的に引き釣ったのだ。そして淡く輝く掌。

コードレイが「え?」と、間の抜けた声を出し、皆が言葉を失う。

「正直者のお前には、まだまだ語ってもらおう。正式な宣言が必要だったな?」

「な、なにを―――」

するつもりですか、と戸惑いの言葉が結ばれる前に、神木が嬉々として宣言する。

「神木千鶴の名において【エデン総合神通力研究部第二研究室室長権限】を行使する」

コードレイに人生読取を発動。

「ああああぁ‼やめてくださあああああああーい‼」

彼は悲鳴を上げながら、千鶴の手を引き離そうとするが、微動すらしない。華奢な外見を裏切る握力。必死の抵抗も空しく、人生読取は終わる。

「では、何でも素直に話してくれるコードレイの、生前の初恋失敗秘話を披露しまーす」

「やめてーーー!」

コードレイは必死に縋り付く。

受付係たちは、どんな残酷な事件が起こってしまうのか、肝を冷やしていたが、「なーんだ。コードレイは嫌がっているが、その程度で許されるのか」と安堵し、空気が緩む。

「ハハハ、いいですよ室長!言っちゃってください!」

同僚のうちの一人が囃し立てた。緊張から解放され、腹を抱えて笑った者も大勢いる。   

笑いの連鎖。欠点らしい欠点がなかったコードレイの失敗談を聞けるとあって、皆が浮足立つ。

千鶴は皆の顔を見回して満足げに頷く。

「そうかそうか、ここの連中は暴露話が大好きなようだ。では、ここの【全員】の暴露秘話を披露しよう」

『全員』。その言葉に、騒然とする。

「皆が暴露話を披露するのに、私が何も話さないのは不誠実だな」

すでに千鶴のワンマンライブ。誰も止められない。

「これまで、言う機会がなかったから、知らないだろうが、私の人生読取は生前の記憶を見るだけではない。生前の【人生】も、皆が神になってからの【神生】も、有効範囲。生半可な【神通力】で阻止できると思うな。当然、コードレイの全てのジンセイを読み取った。こいつの優秀さは皆、知っているだろ?見事に全員の、ありとあらゆる恥ずかしい話や、絶対に知られたくない話を、変態的なまでにリサーチしてやがった。それを今から披露しよう」

皆が凍った。


千鶴は皆の秘話を語った。コードレイの初の恋人。可愛い女の子と、初夜を迎えたと思ったら、実は男の娘だったこと。囃し立てていた同僚の、現世での死因は、親に見つからないよう、飲み込んだ赤点のテスト用紙による窒息死。そこの男とそこの男は騙し合い、互いの恋人と良い関係になっているなど、聞くに堪えない暴露話が続いた。

暴露話の直後、一時乱闘騒ぎに発展。周りの喧騒に紛れて、千鶴が寂しげな表情で呟く。

「本当にあの時のことを覚えていないんですね。いっそ冗談抜きに実験体にしてしまおうか」

 思い留まった彼女は感傷を捨てる。そして、乱闘騒ぎを続けている彼らを「見苦しい」と一喝。神通力や武力により、乱闘を鎮静化した。騒ぎの元凶にして仲裁者。最悪のマッチポンプが展開される。


それから、受付係の職場は、一時ギクシャクしたが、結局のところ、千鶴が振りまく災害が続く中で、団結を深めた。なぜか一人だけ、大量の暴露話を披露されたコードレイ。彼に比べて自分はまだマシ、と自分よりも哀れな者を見て、留飲を下げた者も少なくない。皆、不思議と吹っ切れたように明るい。同僚間では、小さなことでも抱えずに、何でも話すようになった。彼らは、千鶴の逆鱗に触れないように、これまで以上に協力し合い、皆で知恵と行動をもって、懸命に仕事に精を出すのだった。

どんなに頑張っても、誠実に生きても、結果に繋がらず報われないことは多い。もしかしたら報われることよりも、報われないことの方が多いのかもしれない。そういったジレンマは、人間も神も変わりない。自身の欲求や思惑よりも、優先しなければいけないことは多い。たくさんの神がいて、たくさんの物語がある。定められた寿命がない分、彼らは大きな苦悩や過酷な道を歩む。それでも細やかな幸せが、いつか掴めると信じ、日々を懸命に生きていく。

皆が様々な想いを胸に、困難に立ち向かう。一つの困難を乗り越えたら、また次を乗り越えるために、前に進む。絶望することも少なくない。そんな時、彼らでも、思うことがある。

―――――――この世に神はいない。


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