ようやく分かち合えた気持ち
温かい――
ポカポカする。
「ん」
身体が包まれているように感じて、私は寝ぼけ眼で目を開いた。
すると、目の前に夫の端整な顔があり、私はびくっと身体を揺らす。
(へっ?な、なんで?)
身体を硬直させ、混乱した頭で必死に昨夜のことを思い巡らした。
確か――泣いて、意識を失って…。
そこからどうなったんだった?
『ごめん、エマ』
って夫が呟いて、それから額に唇の感触がして…。
(……恥ずかしい)
寝起きにも関わらず、顔を真っ赤にした私は恥ずかしくて夫の腕から逃れようとする。
しかし、夫の腕がぎゅうっと私を強く抱き込んできた。
かああっと顔だけじゃなく、身体も熱くなり私は息が苦しくなった。
離してほしいのに…。
私の思いは届かず、夫は私を抱き枕にしたまま穏やかに寝ている。
私は柔らかな夫の服に顔を埋め、夫の匂いを堪能する。
昨夜と同じ、コロンの香りと男性的な香りが交ざって目頭が熱くなった。
こんなにも人肌が温かいのだと気付き、涙が浮かんだのだ。
少しだけ夫の服をきゅっと掴み、温かい腕の中で再び眠りにつく。
ベンは腕の中で再び眠った妻を、さらに引き寄せ身体を密着させた。
温かく、柔らかく、いい香りがする妻を離さないとばかりに強く抱き込んで、額に口づける。
「エマ。愛している」
自分の腕の中で安心して眠っている妻に、ベンは愛おしさをにじみ出しながら呟いた。
◇◇◇
あれから、再び目覚めれば夫はいなかった。
シーツの隣はまだ温かかったので、私が目覚める前に出ていったのだろう。
今回ばかりはほっとした。
だって、どんな顔して夫を見ればいいのか分からないし…。
私を抱き締めた夫の腕のたくましさや、私を見る切なそうな瞳が浮かんで頬が火照る。
朝食の時間にはまだ早いので、私はお庭を散歩しようと思い、長衣の寝巻きの上に羽織を着ただけの格好で部屋を出た。
お庭へ出て、花に癒されよう。
じゃないと、夫の顔ばかり浮かんできておかしくなってしまう――。
朝の空気は澄んでいて、火照った肌には心地がよかった。
まだ寒い季節じゃないので、羽織だけでも十分だ。
みんなまだ寝ているだろうから、私はうきうきしながらお庭を進んでいく。
中庭には大きな薔薇の庭園があった。
私は庭園に入る前に、大きなアーチをくぐり抜けたくさんの色とりどりの薔薇を見て回る。
赤、ピンク、黄色――
見映えする花々たちに、私は自然と笑顔になった。
朝早く目覚めたときは、よくこうして一人、こっそりと薔薇の庭園に忍び込むのだ。
私が心から笑顔になれる場所で、気に入っていた。
たまに庭師の方ともお話をしたり、手伝ったりもしており、愛着があるのだ。
私が気ままに歩いて回っていると、端の方でひそひそと話し声が聞こえてきた。
「兄さん、私諦めていないから」
「はあ。マリー…朝早くから止めてくれ」
声のする方を覗くと、こちらに背を向けた夫と、可愛らしい瞳を潤ませたマリーベルが夫を見上げていた。
「兄さん!私、兄さん以外の人は考えられないの!兄さんじゃないと嫌!」
「マリーベル。俺は結婚しているんだ。俺に言われてもどうしようもできない」
「いやよ!他の人と結婚はできないわ。兄さんじゃなきゃ…」
「はあ」
私は見てはいけないものを見てしまっている。
去らなければならないのに、足が動かない。
マリーベルは必死に夫に訴えているが、夫の声はげんなりとしているように聞こえた。
その時だ―――。
マリーベルがいきなり、夫に抱きついた。
「!」
「兄さん、私、私…」
しおらしい女の声で、マリーベルは夫の胸で泣いている。
夫もなにも言わずに、マリーベルの背中を擦っていた。
私はついに二人から目をそらし駆け出した。
「っ…」
これ以上はだめだ。
どうして――?やっぱり二人は…。
「エマ。起きてる?」
夫が続き間から声を掛けてきた。
「エマ、入るよ」
私はベッドで寝たフリをしていて、夫が部屋に入ってからも返事をしなかった。
夫がベッドの側までやってくるのを感じ、私は寝ぼけたフリをして布団に潜り込む。
「エマ?寝てるの?朝食の時間に遅れるよ」
「……」
「エマ?」
夫の声が近くで聞こえたかと思うと、頭まで被っていた布団を少し下げられた。
「! ……」
「……エマ」
横顔がさらされ、夫の視線を感じる。
しかし、意地でも私は目を開けなかった。
どきんどきんと緩やかに波打つ心臓を押さえつけ、必死に寝たフリをする。
すると、耳裏の髪に指が通される感触がしてさらっと流された。
夫が私の髪に触れている…。
今は触れられたくないと思い、寒いフリをしてもう一度布団を頭まで被る。
夫の戸惑う雰囲気を感じたが、やがて私の部屋から出ていった。
私はようやくベッドからのそっと顔をだした。
(なによ。大事そうに触らないで)
夫の長い指が髪に絡んで、すーっと流されていく感触にゾクッとしたのは認めたくない。
私は、特に見映えもしない自身の茶髪に触れ小さく嘆息する。
それから結局、朝食の場には出なかった。
一応、召し使いがいてくれるのだが、今日は具合が悪いので部屋に来ないでほしいと伝言したのだ。
義父母や義弟が心配そうに様子を見に来てくれたが、大丈夫の一点張りで顔合わせはしなかった。
―――――もう夕方か
窓から夕日が見え、部屋を橙色に染め上げていた。
今日は1日部屋に籠っていたので、時間の感覚が狂っている。
夫とマリーベルが抱き合う場面を見て、こんなにもショックを受けるなんて以前はなかったのに。
以前よりも夫を知ってしまったから?
あの優しい微笑みで諭されてしまったから?
分からない…。
考えるだけ無駄だと思い、ベッドから出てベランダへと出る。
夕方の少し肌寒い心地よい風が、頬を撫でていく。
少しばかり感傷に浸っていると――。
「エマ?」
落ち着いた男性の声が背後から聞こえた。
どきんと胸が高鳴り振り返ると、夫が窓の側でこちらを見ていた。
いつの間に入ってきたの。
「…具合が悪いんだろう。中へ入ろう」
「結構ですわ。それに入らないでくださいと侍女に申し付けたはずですが」
「ああ、聞いたよ。でも心配ぐらいしたっていいだろう?夫なんだし」
「いいえ、ご心配無用です。ですから早く出ていって…」
「エマ?」
私が語尾を濁し夫に背中を向けたため、夫が困惑した声を出す。
「いいから…出ていってください」
「……いやだ」
「!」
夫が背後から抱き締めてきた。
胸の前で両腕を交差され、身動きがとれない。
「や…離してください」
「だめだ」
さらに強く抱き込められ、背中に硬い胸板が密着する。
かああっと身体に熱が上がり、私は必死に暴れた。
「いや、いやです!離して!」
「エマ」
私の必死な抵抗もいとも簡単に押さえつけ、夫は優しい声で宥めようとしてきた。
「っ!私のことなど放っておいてください!どうせ、あなたは…私のことなど」
「エマ、落ち着くんだ」
何を言っているのか分かっていないまま、涙もボロボロとこぼれだし、私はひっくひっくとしゃくりを上げる。
そんな私に夫は、私の身体を反転させ正面から抱き込む。
泣きじゃくる私を抱き締め、背中を擦ってくれる夫に、さらに嗚咽が止まらなくなった。
夫の服を掴むと、ふわっと身体が浮いたので慌てて夫の首に両腕を回す。
夫が私の身体を子供のように持ち上げ、室内へと運んでいく。
ベッドの上で、夫は膝の上に私を乗せたまま背中をポンポンと叩いてくれていた。
涙は一向に収まらず、夫の胸元の服を濡らしていく。
「ひっくひっく…うっく…ず…」
子供のように泣きじゃくり、服を涙で濡らしまくっても夫は責め立てずに優しく、どこまでも優しく私を包み込んでくれる。
自分が何故泣いているのか分からないまま、ただただ時間が過ぎていく。
ようやく嗚咽が収まったときには、もう夜だった。
「…ず……ず…」
静寂な部屋に私の鼻をすする音だけが響き、辺りは暗闇に包まれていた。
窓から微かな月光が、部屋を照らしていく。
「落ち着いた?」
夫の優しく穏やかな声が、耳元で聞こえた。
「…は、い」
「そうか。何か飲む?」
掠れた声に気づいたのか、夫は飲み物を勧める。
「いいえ」
「そうか…。エマ、君の泣いている理由が俺だとしたら遠慮なく言ってほしい。君がそうまでして泣くのは、見てて辛い」
静かに諭すように、夫は話していく。
気遣わしげに、背中を擦っていた大きな手は後頭部に回り優しく撫でてくれる。
言ってしまったら楽になれるだろうか。
幻滅されるかもしれない。嫌われるかもしれない。
でも、この苦しみからは解放されるかもしれない。
相反する感情がせめぎ合い混乱するが、もはや正常な働きはできなかった。
私は最後に、ずずっと鼻をすすってからゆっくりと話す。
「私は、お飾りの妻ではありません…」
「…うん」
「いつも、家族の一員には、なれないのだと…言い聞かせていました」
「……」
「結婚してから、数ヵ月で、あなたとマリーベル様が抱き合うところを、見てしまい、あなたとは夫婦には…なれないのだと思っていました」
「それは…」
「いいのです。元より、政略結婚ですから。あなたが他の方を、好いていることは構いません」
「……」
「ですが…。この一年半で、私は、欲深くなってしまいました」
「……」
「あなたのことを、知るたびに…この気持ちが苦しくなってしまったのです。割りきろうと…思っていたのに…」
「エマ」
「ごめんなさい…ごめんなさい」
再び涙がじわりと浮かび、小さく嗚咽を漏らした。
「エマ。話してくれてありがとう。でも、エマは大きな勘違いをしている」
「え?」
「エマをお飾りの妻なんて思ったことないし、家族じゃないとも思ったことない。それと、マリーは婚約者がいるくせに俺に過信しすぎているんだ。それに最近目に余る行動ばかりしているからな。少しばかり、お灸を据えるのが必要かなと思っていた」
「……」
私がぽかんとしていると、夫が顔を覗き込んでくる。
あまりにも近すぎる距離に、慌てて離れようとするが夫は許してくれなかった。
「だめだよ。エマ、もう逃がさない」
背中をがっちりと抱き寄せられ、羞恥心から顔を横向ける。
「ねえ、エマ。俺のことが怖い?」
私は首を横に振る。
「じゃあ、好き?」
かあっと顔を赤くさせると、夫は緑の瞳を細めた。
「俺はエマを愛している。もう…結婚当初から」
「え」
「一目惚れだった。君の意思の強い目に心を奪われた。でも、一緒に過ごしていく内に本当は泣き虫なところや、我慢強いところ…コロコロと表情が変わるところ」
「え?」
「実は…エマを見ていたんだ。朝方早くに庭に出るところ。薔薇の花を見ながら君は…笑顔で…俺にも見せてくれないとびきりの笑顔で庭園を走り回っていた」
私は夫の顔を見る。
緑の瞳はどこまでも優しい色をしていた。
私の好きな草原の色を――――
「っ……ベン」
「…え」
「ベン…ベン」
片目から涙を一滴こぼし、夫の名を呼ぶ。
夫は驚きに目を見開いていた。
私は感極まったかのように、静かに涙を流し夫の名を呼び続けた。
「ベン…ひっく…ベンっ…」
「エマ…」
夫は私を腕の中に抱き寄せ強く、けれど壊れないようにしっかりと収めた。
「エマ、愛している」
「ひっく…私も」
「エマ、エマ…。やっと言えた。やっと…」
夫は私の額や眉間に口づけをし頬を伝う。
遠慮がちに唇の端に口づけ、私の反応を見ている。
「ベン」
私が涙でいっぱいの瞳で見上げながら夫の名を呼ぶと、夫はたがが外れたように私を求める。
「エマ…エマ」
「んぅ」
激しい口づけに、私は息切れをし顔を背けた。
「だめだ。逃がさない」
私を強く抱き締め、再び唇を奪われる。
苦しくなり、口を開けばぬるりと舌が侵入してきた。
「ん!は…」
今までこんな口づけをされたことがないので、されるがままになっていると、身体から力が抜けた。
夫は私を支え優しくベッドに横たえた。
「エマ…。ずっと、ずっとこうしたいと思っていた」
「私も…」
「もっと名前を呼んで」
「ベン、ベン、ベン」
私は口づけに溺れながら、今この瞬間に幸福を感じていた。
愛している―――
お互いに囁いて。