免疫がないのである
【三】
「ここに取り出したるは一個の卵。中の黄身を包む殻が我らの肉体、白身が我らの血、内臓としましょう」
懐から取り出した、なんの変哲もない卵を提示し、ライゼンは解説する。
腕を組んで黙って聞く兄は、まだ事情を呑み込めていない。
「この卵をそのまま異世界に持っていったら? ここに似ている世界なら問題ない。でも、極寒の氷に閉ざされた世界や、マグマに覆われた世界、超重力に支配された世界なら、転移した瞬間にお陀仏だ。だから、卵を、こうする!」
片手に力を入れ、無造作に卵が砕ける。
握った手を開くと、掌には器用に無傷のままの黄身が乗っていた。
「これだけを依り代に、環境に適応した外殻を作り、それから中身も別のものにする。魂だけがこの世界の物のままだけれど、果たしてそれにどれほどの意味がある?」
卵の中身、その芯である黄身は、彼女が生み出した風の刃に包まれ、ぼやけた卵形のシルエットになっていた。
荒唐無稽、聞いたことがない。
異世界に連れて行かれる時に、人は霊以外のすべてを再構成されるなどという話は。
だが、そうなると異世界に送られる現象を「異世界転生」と呼んでいたことに筋が通る。
もっとも、誰が「異世界転生」という言葉を初めて使ったのかも不確かだが。
ライゼンの言葉を真に受ける道理がないことは、進藤も理解している。
なのに、その理性を超えて、志紀の振る舞い──見せていた戸惑い、躊躇いが、言葉に真実味を与えていた。
「記憶が、魂が同じなら妹かな? 家族ってそんなにインスタントなもの? 一緒にいたのは何年? 彼女はこの世界のことも、君のことも、まるで覚えていない。受け入れて、背を向けるんだよ、お兄ちゃん。進藤志紀を名乗る彼女は──」
「あいつは、別人?」
口にすると、すんなり自分でも納得できた。
魂以外はすべて別物。記憶だってほとんど残っていない。
血も、記憶も、時間もないなら、彼女は進藤家の娘とは言い難い。
しょせんは、進藤蓮という妹を亡くしたことを受け入れられない兄が、今度は妹を守れる自分でいたかっただけだ。
そんな歪んで甘ったれた思考を受け入れられるのなら、それで万事解決かもしれない。
「これは彼女の最後の思い出作りだ。お兄ちゃんは暖かく迎えて、ちょっとだけ良い思いをさせてあげた。それでいいじゃないか」
「さ、最後?」
「彼女は魔王だ。あたしも魔王だった」
妹が別人同然になっていることに比べれば、それはすんなり納得できた。
彼女の振る舞いの違和感。
親しくなればなるほど辛そうな顔をするところ。
幸せな思い出作りをしたいと言ったのに、実際に得ると、深い悲しみに沈んでいる様子。
「魔王になったから、思い出を作ってから死にたいってことか」
「そういうこと。魔王は魔王を殺した人間が立場を継承し、戦いは永遠に繰り返される。避ける方法はない。あたしもバグで生きてる」
自分はずっと志紀のこれからを考えていた。
落ち着いたら、もっと色んなことをして、彼女を楽しませるつもりだった。
全部、独り相撲だった。
自分はずっと、志紀に残酷な振る舞いをしていたのだ。
未来があるなんてことを、死ぬつもりの人間に歌っていた。
避けられない死を迎えようとしている人間の前で、浮かれて、はしゃいでいた。
こんなに強くなっても──あの頃のガキのままだ。
「お前らは、これからどうするんだ……?」
膝から崩れ落ちそうな無力感が、頭をぼんやりさせる。
「あの子を斬る。先代魔王だったあたしを殺して魔王になったからね。こうなると彼女は、周囲の味方だと思ったすべてを自分の配下に変えちゃう。この世界もそうなっていくだろう。殺すのが慈悲ってもんだよ」
「そんなの……!」
反論を探すが、進藤にはできない。
この二人が向こうでどんな人生を送ってきたのか、こちらには知りようがない。
少年は、どれだけ鍛えても帰る家があり、幼馴染がいた。
だから、寄り添えるはずもない。
──仕方のないことだ。
進藤志紀は、実質あのトラックで死んだ。
進藤蓮は、その考えが正しいと理解しようとしていた。
だが、それは理性においての話だ。
「正しくても嫌だ」
「ああん?」
アレルギー反応に近い反抗心だった。
どれだけ道理が通っていても、進藤蓮には受け入れられないものがあった。
妹を幸せにしてもいないのに、頷ける要素がない。
「俺は思い出じゃ嫌だ。幸せな思い出作りで満足はできない」
かすかに呟く。
言葉にしたことで、絡まっていた感情がほどけた気がした。
一歩、ライゼンへ近づく。
敏感に、彼女が戦いの構えを取った。
「俺は、ただあいつをちょっと出迎えて満足したいんじゃない。ただの“おかえり”じゃない。明日のことも、その後のことも、ずっと一緒に話をするために鍛えた」
「だから無理なんだよ。わかる? 君とうちらは違う。異世界転生者と、君たち未転生者は別なんだよ。違うんだよ。わかる、よね」
頬を歪め、鋭い目で睨み、ライゼンがゆっくりと諭すように言う。
それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
彼女の剽軽さに罅が入っている。
瞼が痙攣し、口の端が歪む。
「それで納得はしない。あいつに会って、一緒にここへ帰る」
「なんでわかんないんだよ!!」
金切り声が上がる。
長い時間、抱え込んできた鬱憤が爆発した。
「憎い憎い憎い! どうしてあたしが!! あたしがこんな憎まれ役の貧乏くじを!! 何百年もずぅっと!! 誰が答えてくれる!? あたしの問いに!!」
子供っぽい駄々。
しかし、表情は鬼気迫り、理性を焼き尽くすほどの憤怒があるとわかる。
それでも人の言葉を保っていたのが、奇跡だった。
「教えてやるよ。みんな帰りたいって泣いてた! 殺し合いのない世界を夢見てな! あたしは……昔すぎてわかんないけど、とにかく帰って来られたあの子は幸運だったんだ! それで終わりでいいじゃないか!」
「嫌だ。この再会を、俺は永遠に変える」
目を見て言った。
それを受け止め、ライゼンは奥歯を噛め、刀を抜く。
「腱を断つ。そうじゃなくても腕を飛ばす」
「なら俺は──」
両足を開き、手招きする。
「全力で抵抗する。来い」
異世界の怪物、あれらも被害者なのだろう。
もう、異世界から来た敵と戦うことを喜べない。
しかし、だからと言って何もしないというのは論外だ。
華奢にも見える少女の姿が、掻き消えた。
そよ風が頬を撫でる。
遅れて一閃、二閃。
玄関から居間へと続く廊下で、剣閃が生まれていく。
長年住んでいた我が家が斬られていく。
どうでもいい。
玄関にひっそりと立てかけてあった小さな家族写真が、斬られて舞った。
それすら気にならない。
高速の斬撃は風を纏い、受け止めることを不可能にしている。
加えて、本気を出したライゼンのスピードは視認ができず、拳を当てる余地もない。
三森茜ほどトリッキーな動きはしない。
だが、スピードは圧倒的にライゼンが上回っている。
「教えてやるよ。あたしの“魔王だった頃”の名。ライゼン=グロウアブル!」
声が廊下に反響した。
刃が電灯の光を反射させ、無尽に斬撃を放ち続けていく。
「光り、ぶっ飛ばし、薙ぎ払う!」
魔力を帯びた刀身が残光を尾にし、直線の動きで迫る。
進藤蓮も弾丸を見切って避けるくらいの修行はしてきた。
だが、目の前の相手は弾丸を遥かに凌駕する質量と技を繰り出してくる。
牽制に順突きを出す。
──当たらない。
空気を殴っただけだ。
殴った感覚すら遅れて来る。
「さあ、どうだ!? 力の差、人生の差がわかってきただろう!」
嘲笑が、耳元で聞こえた。
次の瞬間、声の主は間合いの外。
斬撃はない。
だが風に押されて追いかけられない。
ヒット・アンド・アウェイ。
あまりにシンプルだが、魔術が混じるせいで掴みにくい。
ライゼンは風の魔術を使うのだ。
魔術の使い手! ついに来た。
──これが、本当の異世界戦なのだ。
次に何をしてくるのかわからない。
理外の領域から攻撃を仕掛けてくる者たち。
ライゼンが大振りの太刀を顔の横に構えた。
剣先から突風が生まれる。
絞った風の奔流が肩に当たり、鍛えた体が大きく揺れた。
──来る。
その揺れの“ほんの一瞬”を逃さず、ライゼンが接近する。
居合。
肩から胴にかけての袈裟斬り。
深手ではない。
だがショックで意識が飛びかけた。
「まだ?」
「当然だ」
刀身から蓮の血が流れ、床に落ち、広がっていく。
染みにならないようにしないと──と、場違いで手遅れな思考が浮かぶ。
こんな思考も浮かばなくなるなら、いよいよ自分の頭も異世界に馴染んでくるのだろう。
ぼんやりそんなことを思い、歯を食いしばった。
「実際、大したものだよ。その突きの威力。でもね、経験が足りなすぎる」
ライゼンが淡々と告げる。
「この世界での経験じゃない。魔法や魔獣との一対一の経験が、あまりに無い。タイマンでは無敵の右パンだけじゃあねえ」
「……お前を倒して、初陣を飾ってやる」
「ハハッ」
笑い声。
だが眼光はさらに鋭さを増す。
刀身に展開されていた突風が、ライゼンの体を包む。
風は局地的な竜巻めいたものになっていく。
それは徐々に──鼬めいたものにもなっていき。
「舐めんじゃねえよ、村人」
殺気が、ほどばしった。
怒りの矛先が進藤蓮に集中する。
まともな判断ができるわけがない。
感情の蓋を外したのだ。
「村じゃない。市民だ」
その感情ごと受け止める。
こいつは妹の友達なのだから。
「《世界を語る52の言葉》──血狂い鼬」
血を吸った打刀が風に緋色を与え、それが獣の姿を取って襲い来る。
逃げ場はない。
廊下を埋め、壁を削る。速い。
脚力では逃げられない。
なら──師の言葉だ。
──逆に考えろ。向こうにとっても、お前は異世界人だ。
大きく息を吸って吐く。
両足を前後に置き、右手を丹田、左手を相手と自らの顎の直線上に置く。
意表を突く。
それだけに集中する。
目の下を風が通り過ぎ、血が噴き出した。
反射的に目を閉じそうになるのを堪え、接近を待つ。
3m、2m、1m80、1m50。
蓮は瞬間、右半身から左半身に切り替えた。
予想外の挙動。
血をまとった旋風の突進が、わずかに霞む。
──いける。
重心を前に倒し、右の順突き。
順突きが血狂い獣の攻撃に穴を開けた。
そして、止まる。
──だが。
右の順突きは、ライゼンに届かない。
「ハズレたよおぉぉぉぉ!! このド素人が」
会心の笑みが“音”でわかる。
右腕が外れたら、少年には打つ手が無くなる。
この真紅の竜巻で全身がズタズタに引き裂かれる。
だが──今、思いついた。
順突きに出した重心を反動で引き戻す。
その際、脱力した左腕を肩の力で振り上げた。
型も何もない。
ただ、間合いだけが異常。
右半身から左半身にスイッチする際、左腕の関節を“高速で”突き、外しておいた。
激痛が走る。
──異世界と交わって一番の激痛が、自傷とは。
だが、もう後悔している暇はない。
ぐにゃぐにゃのゴムみたいになった左腕が、本来届かないはずの間合いに滑り込む。
風に触れた瞬間、指がひしゃげ、あらぬ方向に曲がった。
「あああぁぁぁぁぁぁ――!」
痛い。
痛い、痛い、痛い。
アドレナリンで鈍くなる?
そんなものは嘘だ。
激痛に耐えて、左腕がライゼンの小さな顔に触れた。
超高速で飛んでくる相手の頬を、打った。
威力の減衰された下手な左アッパー。
それでも、当たれば──相手にとっては自爆だ。
ライゼンの意識が飛び、床に墜落して、壁まで転がっていった。
フローリングが剥がれ、壁が深く凹む。
蓮は左腕を抑えながら、声を振り絞って叫ぶ。
超高速の突撃へと無理やり左腕を突っ込んで相手に攻撃したのだ。
こちらの腕はもう使い物にならないだろう。
だが、まだ利き腕は無事だ。そして、ライゼンに勝利した。
痛みのせいなのか、勝利の喜びからか、もうわからない。
「イイーーーーーッシャアーーーーーー!」
「……うるさいな」
寝転がったまま、ライゼンが呻いた。
蓮は本当は痛みを全部吐き出したかった。
だが、腕組みをする。
その痛さで涙が際限なく溢れる。
「俺の本気がわかったか」
鼻声でくぐもって、震えている。
本人は気づかない。
ライゼンは起き上がりもせず、ぼんやり天井を見る。
それから、深々と息を吐いた。
「……まあ、認めてあげるよ。シキの所へ連れて行ってあげる。そこからは自己責任だから」
「ありがとう」
「まさかなぁ。あの子に、こんな妹魂の兄がいたなんて」
ライゼンが手の甲を目元に乗せてぼやく。
蓮は少女の肩に手を置いて頷く。
「妹だけじゃない。お前もどうにかしてやりたいって思ったからだ」
笑いかけた瞬間、左腕に強烈な痛みが走って、顔が歪んだ。
それでも、笑ってみせた。
言われたライゼンはきょとんとして首を傾げた。
「へ?」
「志紀が恵まれてるって、お前言ってたろ。ってことは、お前も志紀みたいに帰りたかったんじゃないか?」
「……ああ、そんなこと……」
くすりと笑って、ライゼンは自嘲する。
「いないよ。あたしは何百年も前の人間だ。口減らしに山に捨てられて、熊に出くわしたところで飛ばされた。他の子はともかく、あたしは帰ろうって意識はない」
「じゃあ、ここに帰ってこい」
蓮が手を差し伸べる。
少女の瞳が大きく見開かれた。
そこに光が差し、潤んだ。
「故郷に帰るのに理由なんているかよ。ここに帰ってこい。俺がいつでも迎えてやる。志紀と一緒に。だから協力してくれ。あいつも、お前も、明日もここにいられるようにするんだ」
「………………」
奇妙なものを見る目。
ライゼンの、白くほっそりとした頬が徐々に赤くなる。
顔を背けたライゼンが、小さい声で漏らした。
耳までも真っ赤に染まっていた。
「……け、けっこうカッコいいこと言うじゃん」
蓮は聞き取れず、怪訝な顔をした。
距離を詰めようとすると顔を手で隠して逃げようと大げさにのけぞった。
「ちょっとやめて。あれ、あたしってけっこう免疫ないな、これ!?」
ジェスチャーで少し離れるように訴え、ライゼンが落ち着くまで待った。
その間に彼女は両手で顔を覆い、ゴロゴロ転がった。
場違いなくらいのんきに転がってから、ぱっと顔を上げる。
「で、でもまだ完全に認めたわけじゃないから!!」
「なんでだよ。強さは示しただろ」
「そうだけど!! カッコいいなと思ったけど!! とりあえず連れて行くけど!!」
大きく息を吸って、両目を閉じ、目をカッと開く。
ライゼンは蓮を睨みつけた。
「心が強いかは、まだわからないから。そこを乗り越えられるかも見ないと」
意味深に言って、外を手で示す。
そこに広がるのは──なにもない空間。
人という人の痕跡が消えた場所。
昼は市民を三森茜が避難させたという話だった。
だが、肌でわかる。そんな比ではない。
「魔王が人々を呑み込んでいるところを見てもらう」




