46.猫にただいま
そしてついに時は来た。
「ただいま~」
静かな靴音に続いて、巴准教授のかわいい声が聞こえた。
研究室のドアが開き、双羽さんが半身だけ入って、片手でドアを押さえる。
巴准教授の姿が戸口に現れると、黒江さんは勢いよく立ちあがった。先程までの渋面が吹き飛び、満面の笑顔で琥珀色の瞳が輝いている。
「クロ、おいで。だっこしよう」
にっこり微笑んで、巴准教授が手を差し伸べる。
ポンッ!
紙袋が割れるような音と同時に、紳士然とした古風な執事の姿が消えた。
代わりに中途半端に毛の長い黒猫が、尻尾をピンと立てて、主に駆け寄る。
俺たちの眼で観測できたのは、レスラー並の厳つい執事が、ふわふわの黒猫になった結果だけだ。変化は一瞬で、過程は全く分からない。観測不能だ。
「にぃ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ~んン!」
走りながら鳴くから、声が揺れてスタッカートになる。
巴准教授の足元に到着すると、すりすりで主の足を三周して、後ろ足で立ち上がって伸び上がった。必死の形相で巴准教授を見上げる。
「あー、はいはい。だっこしようね~」
小さい子に話し掛けるような口調で、巴准教授は、猫形態になった使い魔を抱き上げた。
ゴルルルッグルルルゴッ、ゴルルルッグルルルゴッ
猫形態の使い魔の喉を鳴らす盛大な音が、俺たちの所まで聞こえる。
クロは、巴准教授の顎に自分の頬や額をぐりぐり擦りつけ、全力で甘えている。
巴准教授から漂う消毒薬の匂いをものともせず、ひたすら甘えまくっている。
多分、脳内麻薬出まくり。
なんだか感動のご対面みたいになっているが、健康診断の間、ほんの一時間ちょい離れていただけだ。
巴准教授は、クロのぐりぐりを絶妙に回避しつつ、俺たちの方へ顔を向けた。
「何か困ったことはなかった?」
「いえ、特にありませんでした」
「電話が二件掛かってきました」
「メモはそちらに……」
俺、和坂さん、国包が簡潔に答える。
「そう。黒江に構ってくれて、ありがとうね」
「あ、いえ、こちらこそ……」
「楽しかったです」
「貴重なお話を伺えて、勉強になりました」
巴准教授は、黒猫の背中を撫でながら自分の席へ行く。
いつの間にか護衛対象の傍に来ていた双羽さんが、メモを手に取って巴准教授に見せた。
クロのぐりぐりを避けながらメモを見た巴准教授が、あっと小さな声を上げ、俺たちに聞く。
「黒江……僕が言った通りの応対をしたんだよね?」
「はい。あの、お兄さん……」
「ちょっと怒ってらしたような……」
「編集の方は、わかってらっしゃる感じでしたよ」
「あぁ……身内やよく知ってる人は除外するように、条件付けするの忘れてた」
俺たちの報告で、巴准教授が明らかに落胆した。
落胆の原因、使い魔のクロは、わかっているのかいないのか、すりすりぐりぐりを続行している。
どの形態の時でも人語を理解する能力はある、と教科書には書いてあったが、今の使い魔クロは完全に猫的な反応しかしない。
近衛騎士の双羽さんが、巴准教授こと黒山羊の王子の後ろで、こっそり溜息を吐いた。
……王子様、うっかりしてたのか。
「ま、まぁ、クロは僕の言った通り、ちゃんと電話番してくれたんだよね。ありがとうね」
巴准教授がひきつった笑顔を向け、使い魔クロの頭を優しく撫でる。
「ふぐるるにゃあ~ん」
クロは甘え鳴きしてご満悦。喉がますます激しく鳴る。
これがさっきまで、厳しい雰囲気を纏った年配の執事だったとは、到底思えない。
質量保存の法則をガン無視するこの変身の仕組みも、さっぱりわからない。
わからないことだらけだけど、ひとつだけ、確実に言えることがある。
少なくとも俺では、この魔法生物を使いこなせないし、付き合いきれないってことだ。
これを一応、主以外の人間とも、会話が成立するレベルにまで躾けた巴准教授の忍耐強さに脱帽する。
魔道の道は、遠く険しい。
全部、昔飼っていた猫にやられたことや、親戚や友人知人の家の猫が、各飼い主にしていたことを基に構成したフィクションです。
埋める時は、ちゃんと手元を見てください、お願いします……orz と思いましたよ。
そんな訳で、こんな仕打ちの数々を受けても「かわいいから許す!」と言える人でないと、猫を飼うのは難しいです。




