だんだんと
「智がうた、歌わせろって言うんだけど」
そう言われたのは先週の事だった。
何やら、叔母様経由でその話がお母様にいったようで
「是非歌ってもらいなさいな、智君、良い声だからきっと素敵よ」
と言われたらしい。
今のはお母様の口ぶりを真似ていたのだろう、ちょっとだけ噴き出してしまった。
「まさか結婚式で女あさりでもしようなんて思ってないわよね?」
そう口に出たのは致し方無い事だと思う。
「嫌だったら断るけど。というか断りたい」
仲は悪くない癖に、と心で呟きながら
「音痴だったら、一生笑ってやるから」
と承諾した私に
「それはないな」
と呟いていたコイツ。
何でも人さまの式なのに、出来れば余興の最後でよろしくとのこと。
なんて図々しい奴なんだ、と思いつつも親戚だからね、と了承した。
そう言えば、あんたとなんか親戚になんかなりたくないって啖呵切った事もあったっけと思い出した。
あまり思い出したくない過去の一つだったり。
そんなこんなで、結婚式まであと3日になってしまった。
怒涛のような日程だったと思う。
決まったと思ったら早かったなと、しかしながらここまできても尚、人ごとのような気持ちがない訳じゃない。
でも……
ブライダルエステに通わされ、本日ホテルの美容室で受けた顔剃りとデコルトの剃りはいやがおうでも花嫁の気分にさせられた。
肌が剃刀負けすると大変ですから、と数日前にうけるのがセオリーらしいそれ。
襟ぐりの空いた服の上から剃刀の刃をあてられた時、あのドレスの為なのだと私があれを着るのだと改めて思った。
そう言えば、あの子はあの後このドレスを着たのだろうか?
初めて試着をした時に指を差されたあの不躾なちょっと片瀬を思わせる可愛い子。
確かに、とっても素敵なドレスだ。
貸衣装というのもはそういうもので、日取りさえかち合わなかったらぜひ着たいと思うものだと思うのは納得だ。
きっと、彼女の立場が私だったら。
指は差さないと断言できるけど、こっそりドレスが空くのを待っただろうなぁ、なんて。
それにしても、いったいこのドレスで幸せなひとときを味わった人はどれくらいいるのだろう?
壁際のハンガーに吊るされたドレスを眺めふとそんな事を考えたのだった。
「梨乃ーご飯だよ」
階下から聞こえる母の声。
当たり前の日常が当たり前ではなくなるなんて。
そういえば、母が食事の声掛けをするのに、私の前に姉貴の名前が入らなくなった時もそう思ったもんで、何だか違和感を感じたのは数日だったのかもしれない。
姉貴の部屋は今となっては雅也の遊び部屋だ。
目を瞑れば思い出す、あのピンクのベットカバーに勉強机。
全く面影も無い部屋になってしまったけれど、しっかりと記憶に刻まれている。
両親の待つ家に帰らなくなる私もそうだけど、私が帰らなくなるという両親の方が感傷に浸るものなのだろうか?
これもやっぱりマリッジブルーなのかな?
「梨乃ー冷めちゃうわよー」
母の催促でベットから立ち上がった。
引っ越しはほぼ終えたこの部屋。
残るはベットと空に近い本棚と。
「この部屋を出るんだな」
誰に聞かそうともなく呟いて部屋を出た。
結婚式が近づいて、父の帰りが早くなったように思う。
そして、食卓。
最近は私の好きなもののオンパレードだ。
心の中では、こんなに毎日好きなものばかりだと食べ過ぎて、ドレスが入らなくなるんじゃないかという心配も。
だけど、父の気持ちも母の気持ちも有り難すぎて今日も今日とてたいらげるだろう私。
そして、会話が変にテンション高い。
そうこれは姉貴の時と全く同じ現象だ。
あの時はまだ私がいたから、良かったのかもしれない。
いつしか
『あせらなくてもいいんだよ』
そう言ってくれた父。
きっと本音だったのだと思う。
本当は心配してくれているって知ってるよ。
お医者さんの家系に何の後ろ盾もない私が嫁ぐことを痛いほど心配しているって。
向こうのご両親に会ってからは幾分心配も和らいだとは思うけど、ね。
「これ、美味しい」
口の中でほろりと解けるような豚の角煮。
家族の中では言わずと知れた私の好物。
だから一緒に作ろうっていったのに。
そう言った母に
「近いし、食べたくなったら食べにくるし」
自分で作ろうとは思わない娘に母は一つため息をついた。
「食べて貰おうとは思わないの?」
極当たり前の一言を放った。
私は自信を持って頷いた。
「だからその時は一緒に来るから」と。
母はさっきよりも大きなため息。
「男は胃袋で掴めっていうでしょ。料理はね、経験と感覚よ。人によって好みが違うんだからマニュアル通りじゃなくて良いの。経験と感覚。梨乃結婚したからってずっと一緒にいてくれるとは限らないんだからね」
となんとも痛烈な一撃。
ほんとうに大丈夫かしら?
それは脳内の呟きでしょうか? お母様。
ダダ漏れですけれど。
「大丈夫だよ。胃袋で掴んだんじゃなければ、ありのままの梨乃の事を選んでくれたって事だんだろうからな」
母とのやり取りを見ていた父の優しい言葉。
だけど、援護のはずのその言葉はちょっぴり私には微妙な感じ。
ありのままの私ね。
胃袋つかまなくちゃ駄目かしらね?
そんな食卓を囲んだせいだろうか。
ベットに沈んだ私は携帯を掴んでいた。
「今大丈夫?」
「どうした?」
笑っちゃう。
どうした?だって。
「別になんて用事はないんだけど、好きな食べ物って何?」
今度は向こうが笑う番だったみたい。
「嫌いなものは特にないな」
だからそうじゃないのに――
「別に共働きなんだから、気負わなくてもいいんじゃねえの」
どうやら意味は通じてるみたい。
「そう――そう言ってくれると助かる」
頭の中とは違う答え。
「イタリアンとかフレンチとかあまり凝ったもんは連続してっていうのは好みじゃないかな、まあお前が作れるとは思わないけど」
確かにそうなんだけどカチンときた。
勢いに乗って突っ込もうとしたら
「ご飯に味噌汁に魚とか? ごく普通の料理を食いたい。俺の母親そんなに料理得意じゃなかったから。といってもお前がそのレベルの可能性も大だろ。お義母さんお前は食う方専門だって。正直すぎて笑ったよ」
なんてことを。
確かに家で食事をした時言ったかも。
あの日ね。
でもハードルは低い方が無難だわ、今回ばかりは。
「精進します」
「だから、別に期待してないから大丈夫だって」
その一言は余計なのでは?
甘い言葉は一切ないけど、寝る前にこの声が聞けてじんわり身体が暖かくなった。
結婚したら、好きな物教えてくれるだろうか?
小川先生の奥さんにでも聞けばわかるかもしれない、グラタン以外の何か。
でも小さい時の好きなものって変わるかもね。
「もうすぐだな」
「そうだね」
そう、結婚式。
「忘れ物するなよ」
なんて。
私は子どもかい!
「あんたこそ、指輪とか忘れないでよね」
そう直ぐにムキニなる私もじゅうぶん子どもようだと、話終わった後に思ったのだった。