微熱の帰宅
とんでもないことになってしまった。
式典の後、依頼人であるアシュクロフト氏から渡された報酬の小切手には、想像以上の額が書かれていた。
前金と合わせれば、一ヵ月はのんびりバカンスを楽しんでもいいくらいだ。
けど今の私には、高額な報酬に浮かれる余裕なんてなかった。
「今日はなかなかに面白い一日だった。アリスもお疲れ様だな」
「そ、そうだね……」
ついさっきミルトとナイアから聞かされた、使い魔のルール。
魔力補給なんていうふざけたシステムが、私の脳細胞を灰色からピンク色にすっかり塗り替えてしまっていたんだ。
「どうした? 妙に落ち着きがないようだが」
「うぐ……き、気のせいじゃないかな?」
『どうした?』じゃない!
この激渋重低音イケボ悪魔!
こっちはさっきからずっと意識しっぱなしで、いつ君がさっきみたいな『浮かれワンコ』になって飛びかかってくるか気が気じゃないんだ。
それなのに今のクロウは、魔力補給のことなんて忘れたみたいに落ち着いていた。
その落ち着き払った態度も、私だけが意識してるみたいでちょっとイラッとした。
「はぁ……クロウはさ、地獄に帰りたくないの?」
今日一日の大立ち回りと気疲れに、私はため息をつきながらベッドに沈む。
そして自分でもよくわからない、特に理由もない疑問をクロウに投げかけていた。
「ふむ? 帰りたいと思ったことはないな」
「それって、ここの方が地獄より楽しいから?」
「そうだ。前にも言ったが、地獄には何もないからな」
質問に答えながら、クロウは仕立てたばかりのコートとスーツを服掛けにぶら下げると、うっとうしそうにネクタイを外し、シャツの首元を開いてソファーに座った。
今日の仕事で汗ばんだ褐色の肌と、艶のある乱れた黒髪。
金色の瞳はまっすぐ私のことを見つめていて、なんだか少し――いや、かなり色っぽい。
「でもさっきのナイアの話だと、君はこの世界でどんどん力を失っていくらしいじゃないか。しかも着たくもない服を無理やり着せられて、私にはちょいちょい怒られてさ……もし君がそうしたいなら、使い魔の契約も取り消して、地獄に帰ったっていいんだよ?」
きっとこの時の私は、とても疲れていたんだと思う。
それくらい、あまりにも不用意な言葉だった。
だってクロウは、どうやら『本当に悪魔王』らしい。
そんな彼がずっと大人しくしてくれていたのに、わざわざこんなことを言うなんて。
「確かに服は嫌いだが、アリスと離れるのはもっと嫌だ!」
「でもそれじゃあ、私が『魔力補給なんてしたくない』って言ったらどうするつもりなの? 魔力のなくなった君は、そのまま死んじゃうかも――あっ!?」
しまった。
そう思った時には、もう手遅れだった。
さすがにこれはやぶ蛇が過ぎた。
あんなにクロウとの魔力補給を遠ざけようとしてたのに、まさか自分から話題に出すなんて。
「……そうだな。俺はアリスともっと一緒にいたい。だから、まだ死ぬわけにはいかん」
「あ、だめ……! ちょ、ちょっと待って……っ! まだ心の準備が……!」
ソファーから立ち上がったクロウが、一歩一歩近付いてくる。
前にもこういうシチュエーションは何度かあったけど、今回は事情が違う。
それになんだか、私も前より抵抗する気持ちが湧いてこない。
思考もなんだかぼんやりしてて、まるで熱に浮かされたような気分だった。
「アリス……」
「ひう……っ!?」
クロウのしなやかな片足が私のベッドに乗って、安物の木が軋む音が静かに響いた。
一拍おいて、大きな手がベッドで縮こまる私の耳元から頬、そして首元をなぞる。
それだけで私は飛び上がるくらい震えてしまって、今にも気絶しそうなほどに熱い血が全身に駆け巡るのを感じた。だけど――
「心配するな……俺はお前が嫌がることはしたくない。魔力補給とやらも、アリスが嫌ならしなくていい」
「え……?」
だけどクロウは震える私の前で、子供みたいに無邪気に笑って見せた。
それは初めて会った朝と同じ、優しい笑顔だった。
「けど、それじゃあ君が……」
「俺は悪魔王だ。少しくらい力が減った程度で死にはしない」
「あ……」
安心させるようにそう言って、クロウが目の前から離れていく。
私はなんだか申し訳ないような、寂しいような気持ちになって、思わず彼を引き留めるために手を伸ばして――慌てて引っ込めた。
「ごめん……君を使い魔にしたのは私なのに……」
「謝ることはない。俺はアリスとつがいになれて、心の底から良かったと思っている!」
優しい。
やっぱり、クロウは私には優しい。
普段はあんなに好き勝手しているように見えるのに。
それでも心を許してしまうのは、彼が絶対に私を傷つけないってわかっているからだ。
「つがいじゃないんだけどね……でも、ありがとう……」
いつものやりとりもして、ようやく心が落ち着いてくる。
そして安心したからか、さっきよりも数段上の疲れが押し寄せてきた。
さすがに、今日はもう寝た方がよさそうだね……。
「君への魔力補給については、ちゃんと考える……でもとりあえず、今日は……」
「待て、アリス。実はさっきお前に触れて気が付いたのだが」
言うが早いか、なぜかクロウはさっきよりも勢いよくベッドの上に戻ってきた。
まさか、やっぱり気が変わって魔力補給したくなったの!?
今度こそろくな抵抗もできず、なすがままになった私の視界に、あまりにも破壊力が高すぎるクロウの顔面がぐんぐんと近付いてくる。
だ、だめだ……っ!
やられる――!
けど思わず目を瞑ってしまった私の感覚は、なぜか額に触れる人肌のぬくもりをはっきりと捉えていた。
「やはりな」
「え……?」
目を開けると、そこには端正すぎる私の使い魔の顔があった。
シンプルに心臓に悪い。
それと、なんだろうね……。
気のせいじゃなければ、『私とクロウのおでこ』がぴったりとくっついているような……。
「アリスよ、お前は熱を出している! 絶対安静だ!」




