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赤い月の夜


 それは、赤い月の夜のこと。

 

 霧と蒸気に沈む街、ロンドン。

 ただでさえ辛気くさいこの街は今、地獄に繋がる門から現れる『悪魔』のせいで血と死臭にまみれている。

 

 街のみんなも頑張ってはいるけれど、門も悪魔も増えるばかり。

 まあ、おかげで私みたいな厄介者の『私設魔女』でも仕事には事欠かないんだけど。


「なんとか帰って来れた……」


 ふらふらになりながら家のドアを閉めたところで、私は思わず床に座り込む。

 すぐ横に置かれた姿見に目を向けると、そこには酷い有様の自分が映っていた。


 出る前はきっちり整えていた紺色の髪は煤と埃でバサバサだし、母さん譲りの青い瞳もすっかり淀んでしまっている。

 お気に入りの服は悪魔の返り血と泥で汚れて、体のあちこちが痛んだ。


 街を守る教会と騎士団は、異端の魔女を助けるほどお人好しじゃない。


 大通りを埋め尽くす悪魔の群れ。

 見上げるほどに大きな地獄の門。

 そんな悪夢みたいな光景に、私は杖と銃だけを手にして立ち向かった。


 今思い出しても、恐ろしくて震えが止まらない。


 世間では『真鍮の魔女(ブラスウィッチ)』だとか、『悪魔狩りのアリス』だとか呼ばれているけど、私だって本当はどこにでもいるうら若き乙女なんだ。


 悪魔と戦うのは怖いし、死にそうな目にあえば泣き叫びたくもなる。


「もし『この子』が飛び込んでこなかったら、きっとあのまま死んでいただろうね……」


 ふうと息をついて、腕の中に目を向ける。

 そこには、私に抱かれてすやすやと眠る傷だらけの黒い子犬……いや、『狼』がいた。

 

 この子は悪魔だ。

 それも、きっととても強い悪魔。

 

 さっきまでの悪魔との戦い、私は完全に追い詰められていた。

 いくら倒しても、悪魔は門から無限に湧き出てきた。

 弾丸も魔力も尽きて、あとは殺されるのを待つだけ。


 そんな絶体絶命の私を助けてくれたのが、この子だった。


 あの時……地獄門を粉々に吹き飛ばしながらこの子が飛び出してきて、その場にいた悪魔の群れを一瞬で食い尽くしてしまった。


 気付いたら、その場に残ったのはボロボロの私とこの子だけ。


 ロンドンを守る魔女として、本来ならこの子も殺さないといけなかったはずだ。

 けど、私はこの小さな狼を殺せなかった。


 傷の手当てをして、私の命令に従うように『使い魔の契約』も結んだ。

 だからこの子の首元には、私との契約が形になった黒い首輪がはめられている。


「私は魔女のアリス・ベル、今日から君の飼い主さ。少し窮屈だと思うけど、悪いようにはしないから」


 悪魔を狩るために悪魔の力を使う。

 それが魔女だ。


 その中でも使い魔の契約は禁忌中の禁忌の魔術で、私も実際に使うのは初めてだった。

 そんな禁忌に手を染めてでも、私はこの子のことを見捨てられなかったんだ。

 

 私が可愛いモフモフ好きだから……まあ、正直それもある。

 でも今夜この悪魔を助けてしまった理由は、それだけじゃない。


「怖かった……本当に、死ぬかと思った……」


 そっと、腕の中で眠る小さな体に手を添える。

 冷たくなった私の手に、力強い鼓動と人と変わらないぬくもりが伝わってくる。

 その暖かさにほっとして、緊張の糸が切れた私の視界があふれる涙で曇った。


「母さん……っ」


 人前でこんな姿を見せたことなんてない。


 私はこの街で生まれて。

 この街が好きで。

 この街のみんなを気に入っている。


 魔女を理由に白い目で見られたって、変わらず接してくれる人も大勢いるんだ。


 だから、誰も助けてくれなくたって。


 母さんが悪魔に殺されて、ひとりぼっちになっても。

 私は私の好きなものを守るために、辛くても頑張れる。


 そう思っていないと、もう二度と立ち上がれない。

 それくらい、心が冷えていた。


「やっぱり、一人は辛いよ……すごく……寂しいんだよ……っ」


 零れた涙が、私の腕の中で眠る小さな狼に落ちる。

 その子は驚いたみたいに体を震わせて、目を閉じたまま小さな鳴き声を上げた。

 そしてまるで慰めるみたいに、そっと私の腕に頬を寄せてくれた。


「ありがとう……今日はもう休もう。私も君も、今夜はとても疲れてしまったからね」


 もう一度だけ頭を撫でて、私はその子と一緒にベッドに横になった。


 着替えとか食事とか……せめてお茶だけでも飲んでからとか、色々考えたけど。

 気付いたら、もう指一本動かせなかった。


(明日は、この子にミルクを買ってあげないと……)


 ぼんやりとそんなことを考えながら。

 私たちはそのまま、気絶するみたいにして眠った――


 ――――――

 ――――

 ――


 けど次の日の朝。


 ロンドンでは珍しいキラキラの朝日で目を覚ました私は、さっきまで感じていた小さな暖かさが消えていることに気付いた。


「ふぁ……そういえば、あの子の名前もまだ……」


「目覚めたか。昨夜は助けられた、感謝するぞ」 


「は……?」


 まだあの子の名前も決めてなかった。

 そんなことを考えながら、目を開けた私の視界に飛び込んできたもの。

 

 それは、陽の光を受けて艶やかにきらめく黒髪。

 まるでどこぞの彫刻みたいに鍛え上げられた、筋肉質の体と美しい褐色の肌。

 金色の瞳は見るからに凶暴で、得意げに笑う口からはギザギザの白い歯が覗いてる。

 ついでに、声は体の芯まで響くような激渋重低音。

 

 端的に言うと、人間が想像できる範囲ではほとんど完璧な、『とんでもなく見た目がいい男』が私の部屋に立っていたんだ。


 全裸で。


「へ、へ、へ……変態だーーーーーーーーーーーーーーっ!?」


「変態?」


 私が思わず投げつけた枕は、目の前の変態に平然と受け止められた。


 あ、やめ……か、体……特に下半身をこっちに向けるなぁぁぁあああ!!


「心配するな。変態など俺が消し炭にしてやる」


 いや、変態って君のことだからね!?

 どんなに見た目が良くたって、変態は変態だから!!


 全力でそう言ってやりたかったけど、状況が酷すぎてうまく言葉にならない。


 も、モフモフは!?

 私のかわいいちびっ子狼は!?


 慌ててあたりを見回しても、やっぱり昨夜のあの子はどこにもいない。


 けど代わりに出てきた変態の首には、たしかに私が作った『契約の首輪』があった。

 それによく見たら、引き締まったお尻からはモフモフの尻尾が生えてて、今も嬉しそうに全力でぶんぶんしてるじゃないか。


 つまり、やっぱりこの変態があの子!?


「……震えているのか?」


「ひっ……!」


 ブランケットを掴んでベッドの隅でガタガタと震える私に向かって、モフモフ尻尾の変態はなにもかもさらけ出して堂々と目の前までやってくる。


 そして私の目を真っ直ぐに見つめながら、無駄にいい顔と声で子供みたいに無邪気に笑った。


「俺の名はクロウ。悪魔王クロウゼル・エルドブレイズだ。安心しろアリス……お前はもう一人ではない。この俺の名と力に誓い、俺がお前を守ってやる!」


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