教室、索莫たり
私の学生時代でいちばん印象に残っている教師は、中学校で出会ったある先生である。仮にA先生と呼ぶことにしよう。
A先生は私のクラスの担任教師ではなかった。教科の授業の受け持ちでもなかった。私はA先生の授業を一度も受けたことがなく、そもそもどの科目を担当していたのかも知らない。部活動や生徒会活動の顧問として世話になったわけでもない。
それではなぜA先生がそんなに印象に残っているのか。A先生に関してたった一度だけ、私の気持ちを激しく動かす出来事があったのである。
私が三年生のころだったと思う。生徒会の役員選挙が行われ、私はその開票作業に立ち会った。立会人は生徒と教師あわせて何人かおり、その中にA先生もいた。
その時の選挙では、役職のいくつかに定数ぴったりの候補者しか出馬しなかった。わが校ではこのようなとき、無投票ではなく信任投票を行うことになっていた。投票用紙に印刷した候補者の名前の上にマルかバツを書いてもらい、マルが過半数なら当選というものである。
開票作業中、A先生は他の立会人にむかって、自分の受け持ちのクラスでは信任投票には必ずマルを書かせたと言って自慢した。この人は何を言っているんだ、と私は思った。どのクラスにもひねくれ者の一人や二人はいるもので、どうしたって百パーセント信任などということは起こりえない。
ところが開票結果が出てみると、A先生のクラスは本当に不信任票が一票もなかったのである。これは何を意味するか。おそらく事前に票を確認して、バツを書いているやつがいたら書き直させたのである。私は若いころけっこう血の気が多かったので、この横暴にカッとなり、A先生をぶんなぐってやろうと思った。さすがに思いとどまったが。
しかしA先生の薫陶を受けた生徒たちはその後どのような有権者に育っただろうか、と私は三十年たった今でも思う。彼らにとっては選挙というのは誰か偉い人の言うとおりに投票するものになってしまったのではないだろうか。そして、まかりまちがって彼ら自身が「偉い人」になったとき、自分の影響下にある人々に自分の推す候補者への投票を強いるようにもなるのではなかろうか。
いろいろ考えると、やっぱりあのとき一発ぶんなぐっておくべきだったかもしれないと思えてならないのである。
第十一部「読書家クエスト」は全十回です。




