第15話 知らない娘
異変が起きたのは地上だった。
発掘から戻って二日目の夕方。
リゼは深層院の食堂にいた。
遅い昼食なのか早い夕食なのか分からない時間で、冷めた煮込みをパンですくっていると鐘が鳴った。
三回。
間を置いて二回。
食堂の空気が変わる。
警報だった。
「どこ?」
リゼは立ち上がった。
隣の卓にいたマレルがもう窓へ向かっている。
外。
王都西部から煙のようなものが上がっていた。
ただし黒くない。
薄い。
光に近い。
景色が二重になっているように見える。
「重なりです」
背後からネマの声。
リゼが振り返る。
「分かるの?」
「見れば」
「そういう意味じゃなくて」
話している暇はなかった。
廊下を走る。
階段を下りたところでダインと鉢合わせた。
剣帯を締めながら来る。
「西区だ」
「見た」
「トルヴは先に行った」
四人で馬車へ乗り込む。
ネマも迷わず続いた。
王都西区は職人と商人の多い地域だ。
夕方は人通りが増える。
現場へ近づくにつれ、逆方向へ逃げる人々が増えた。
誰かが泣いている。
荷車が横倒しになっている。
騎士団が通りを封鎖していた。
馬車を降りたリゼは、目の前の景色を見て足を止めた。
家が二つある。
正確には、一つの場所に二つの家があった。
手前は現在の木造二階建て。
見慣れた住居。
その奥から、白い石壁が半分ほど透けて見える。
窓の位置が違う。
扉も。
同じ場所を二種類の建物が取り合うように重なっていた。
「地下じゃない」
リゼの口から漏れた。
未来遺跡で似たものを見たことはある。
層と層が近づいたとき、一時的に形が重なる。
けれどここは地上だ。
人が生活している王都の真ん中。
「中に人がいる!」
騎士の声。
二階。
窓辺に誰かが見える。
女性。
四十歳前後。
「エルマ!」
通りの向こうで男が叫んでいる。
「動くな!」
女性は聞いていない。
室内の壁を叩いている。
何かを探しているようだった。
「娘が!」
声が聞こえた。
「娘がまだ中にいるの!」
リゼは男を見る。
「子どもがいるの?」
男の顔が歪んだ。
「いない」
一瞬、意味が分からなかった。
「妻と二人暮らしだ。子どもはいない」
それなのに二階のエルマは叫び続ける。
「ミア! 返事して! ミア!」
名前まである。
ダインが家へ向かおうとする。
トルヴが腕を掴んだ。
「待て」
「中に一人いる」
「床がどっちの床か分からねえ」
見ると、玄関の先で二種類の階段が重なっている。
木の階段は右へ。
白い石の階段は左へ。
ところどころ完全に重なる。
踏める場所と踏めない場所の区別がつかない。
「綱を」
トルヴが周囲へ指示する。
騎士たちが太い綱を持ってくる。
ダインの腰へ結ぶ。
「落ちたら引く」
「どこへ落ちる?」
「知るか」
「安心させる気が一切ないな」
ダインが玄関へ入った。
一歩。
二歩。
木の床は踏める。
白い床は彼の足を透過している。
「今はこっちが本物か」
リゼが呟く。
ネマが横で言う。
「今は、ですね」
その言い方に振り向く。
ネマは家から目を逸らさない。
ダインが階段へ足をかける。
二段目。
三段目。
そこで木の階段が薄くなった。
「戻って!」
リゼが叫ぶ。
ダインが足を引く。
直後、木の段が消えた。
代わりに白い石の階段が濃くなる。
「入れ替わった」
マレルが言う。
「何を基準に?」
トルヴが床を睨む。
分からない。
ダインは玄関まで戻った。
「無理だ。途中で足場が消える」
二階から物が割れる音。
エルマの叫び。
「ミア!」
その声に反応したのか、白い家の輪郭が一瞬濃くなった。
リゼは見た。
二階の窓。
今の家にはない位置。
そこに小さな机がある。
椅子。
壁には子どもの服のようなものが掛かっている。
ほんの一瞬。
消えた。
「部屋がある」
リゼが言った。
夫が横から見る。
「何の?」
「子どもの部屋」
男の顔が青ざめた。
「うちにはそんな部屋はない」
「でも、あっちにはある」
言ってから、あっちが何を指すのか自分でも分からなかった。
未来なのか。
別の未来なのか。
ただ白い家には確かに子どもが住んでいた形跡があった。
エルマだけが、それを知っている。
「リゼ」
ダインが呼ぶ。
「階段じゃなくて外から行けるか?」
二階の窓。
高さはそれほどない。
隣家の屋根を使えば届く。
トルヴがもう動いていた。
梯子。
綱。
騎士を二人。
「俺が先に渡る」
ダインが言う。
「木の家が消えたら?」
リゼが訊く。
「落ちる」
「簡単に言わないで」
「じゃあ落ちないように祈れ」
「教会の人いるけど」
ダインがネマを見る。
ネマは首を振った。
「そういう部署ではありません」
「役に立たないな」
「あなたより祈るのは上手いと思います」
「張り合うところか?」
そんなやり取りをしながらも、手は止まらない。
隣家の屋根から板を渡す。
二階窓まで一メートルほど足りない。
ダインが跳ぶ。
窓枠を掴む。
身体を引き上げた。
その瞬間、建物が揺れた。
「ダイン!」
白い壁が濃くなる。
木の窓枠が薄れる。
ダインの手が透けた。
落ちる。
そう思ったとき、彼は内側へ身体を投げた。
姿が消えた。
綱だけが窓の向こうへ延びている。
「引く?」
騎士が訊く。
「待って!」
リゼは綱を見る。
張っている。
切れていない。
向こうにダインがいる。
数十秒。
長い。
二階でエルマの声がした。
「そこ、踏まないで!」
ダインの声。
何かが倒れる。
やがて窓から腕が出た。
エルマ。
続いてダイン。
「引け!」
綱が動く。
二人が窓から隣家の屋根へ移る。
その途中、エルマが後ろを振り返った。
「ミア!」
身体を戻そうとする。
ダインが抱える。
「誰もいない!」
「いるの! 奥の部屋にいる! 一人で寝られない子なの!」
「部屋ごと消えるぞ!」
「離して!」
暴れる。
ダインの頬を爪が掠める。
それでも腕を離さない。
二人が屋根へ転がり込んだ。
直後。
家が大きく歪んだ。
白い建物と木造家屋が一瞬完全に重なる。
音が消えた。
風も。
人の声も。
リゼは息を止めた。
二つの家が一つになったように見えた。
次の瞬間、白い方だけが薄くなる。
石壁。
違う位置の窓。
子どもの机。
すべてが霧のように消えていった。
残ったのは元の木造家屋だけだった。
通りに音が戻る。
誰かが泣いている。
騎士の怒鳴り声。
馬の蹄。
現実が再び一つになった。
エルマは屋根の上で動かなかった。
ダインが身体を支えている。
「降ろすぞ」
トルヴが言う。
地上へ戻されたエルマは夫を見るなり、胸を叩いた。
「どうして助けなかったの」
「エルマ」
「ミアがいたのに」
「俺たちに子どもはいない」
男の声が震えている。
怒ってはいない。
何度も自分へ言い聞かせているようだった。
「いないって何」
エルマが夫を見る。
その顔が少しずつ崩れる。
「ミアよ。八歳。栗色の髪で、眠る前に水を二回飲むでしょう。去年、青い靴を買ったじゃない」
夫は何も言えない。
「あなたが選んだのよ」
「知らない」
「何言ってるの」
「知らないんだ」
男が顔を覆った。
その肩が震える。
エルマはしばらく夫を見ていた。
やがて自分の手を見る。
何かを探すように。
「じゃあ」
声が小さくなる。
「この手を握ってたのは、誰」
誰も答えられなかった。
マレルがエルマを診察する。
頭部に傷はない。
意識も正常。
名前。
年齢。
住所。
夫との出会い。
全部正しい。
ただ一つだけ。
存在しない娘の記憶がある。
しかも細かすぎた。
好きな食べ物。
苦手な教師。
寝相。
最初に喋った言葉。
作り話なら、その場でここまで出てくるだろうか。
リゼは家へ近づいた。
もう白い壁は見えない。
二階には、夫婦が使っている物置部屋があるだけだという。
子どもの部屋など最初からない。
それでも窓の下に、小さなものが落ちていた。
布の切れ端。
青い。
拾おうとして、手を止める。
「触らない方がいい」
ネマが言った。
リゼはしゃがんだまま彼女を見る。
「見えてる?」
「はい」
「今の家の物?」
ネマは答えなかった。
布は少しずつ薄くなっている。
端から消えていく。
数秒後には、何も残らなかった。
リゼは空になった地面を見た。
未来は枝分かれする。
その仮説なら、白い家も説明できるかもしれない。
子どもが生まれた未来。
生まれなかった未来。
その二つが一時的に重なった。
けれど一つだけ分からない。
もし白い家が、まだ来ていない未来なら。
なぜエルマは八年間の記憶を持っていたのか。
未来の娘を、どうして母親の手が覚えている。
「ネマ」
立ち上がる。
「あなた、何か知ってるよね」
ネマはしばらく黙っていた。
逃げるようには見えなかった。
むしろ、どこまで言うかを選んでいる。
「一つだけ」
「何?」
「今見たものを、未来だと決めない方がいいです」
リゼの胸の奥で、何かが静かに動いた。
「じゃあ何なの」
ネマは家を見た。
エルマは夫に抱かれながら、存在しない娘の名をまだ小さく呼んでいる。
「それを知るために、私はここにいます」
答えではない。
それでも今までとは違った。
ネマが初めて、知らないふりをしなかった。
リゼはもう一度、何もない二階の窓を見る。
未来だと思っていた。
枝分かれした未来。
変わった未来。
いくつもある未来。
けれど、そのどれでもないとしたら。
自分たちは地下で、
いったい何を掘っているのだろう。




