第3話 庭に行き倒れが落ちていたので、とりあえず客間に運びました
雲のようなベッドの感触を名残惜しく振り払い、私は朝の光の中へと踏み出した。
荒野での生活も三日目になる。
水場は確保したし、保存食のストックもまだある。何より、夜に凍えることなく眠れるという事実が、私の心にこれまでにない余裕をもたらしていた。
今日は庭造りに着手しよう。殺風景な赤土の地面に、白い柵を立てるのだ。いつか花を植えるための区画整理も兼ねて。
「イメージ……硬質化」
玄関ポーチの先で、私は指先を指揮棒のように振るった。
地面がボコボコと隆起し、土の成分が再構築される。
白い石灰岩質の成分を抽出して固めれば、まるでペンキを塗ったような可愛らしいカントリー調の柵が一瞬で並ぶ。
うん、可愛い。
荒野の真ん中に突如現れた白柵はシュールだけれど、私の領地を示す大事な境界線だ。
満足げに柵の出来栄えを確認しながら、敷地の端まで歩いて行った時だった。
視界の端に、あるはずのない「黒い塊」が引っかかった。
「……え?」
足が止まる。
岩? いいえ、昨日はなかった。
魔獣? 背筋が凍るような冷たさが胃の腑に落ちる。
私は呼吸を殺し、柵の陰からそっと様子を窺った。
黒い塊は動かない。よく見ると、それはボロボロの外套を羽織った、人の形をしていた。
人。
こんな最果ての荒野に?
「……もしもし?」
恐る恐る声をかけるが、返事はない。
風が外套の裾を虚しく揺らすだけだ。
罠かもしれない。強盗の死んだふり? でも、こんな何もない場所に強盗が来るだろうか。
迷った末、私は護身用に固めた土の礫を掌に浮かべつつ、慎重に距離を詰めた。
男だった。
うつ伏せに倒れている。
泥と砂に塗れているが、着ている服は仕立ての良い軍服のようだ。あるいは傭兵だろうか。
私が息を呑んだのは、仰向けにひっくり返した時だ。
「うわ、顔色悪っ……!」
思わず呟いてしまった。
整った顔立ちをしているはずだが、それが台無しになるほどの土気色。
目の下には、殴られたような濃い隈が刻まれている。頬はこけ、唇はカサカサにひび割れていた。
まるで、何日も……いいえ、何年も眠っていない亡霊のようだ。
「……水……」
男の唇が微かに動き、掠れた音が漏れた。
ビクッと肩が跳ねる。
生きている。
どうする? このまま放置すれば、彼は確実に死ぬだろう。
でも、正体不明の男を家に招き入れるなんて、独り暮らしの女性として危機管理がなっちゃいない。父様なら「捨て置け」と言うに決まっている。
私は男の痩せこけた頬を見た。
次に、背後に建つ自分の「自慢の家」を振り返る。
あそこには、昨日作り上げたばかりの客間がある。まだ誰も使っていない、最高の断熱材と極上マットレスを備えた部屋が。
「……私の家作りポリシーその一。『住む人が心地よいか』」
私はため息をつき、掌の礫を消した。
目の前で人が死にそうなのに、見捨てるほどの悪人にはなれそうにない。それに、もし彼が助かれば、私の家の「住み心地」を評価してくれる最初の客になるかもしれない。
「運んであげる。感謝してよね」
そうと決まれば作業だ。
成人男性など、私の細腕では持ち上がらない。だから魔法を使う。
男の下の地面を液状化させ、板のように持ち上げる。
「浮遊・運搬」
ズズズ、と土の台座ごと男が浮き上がった。
魔力がごっそり減る感覚に目眩を覚えながら、私は慎重に彼を玄関へと運んだ。
客間は一階の東側にある。
朝日が入る明るい部屋だ。
ベッドは昨日の試作品一号だが、性能は私の寝室のものと変わらない。岩石を繊維化した「鉱物綿」をたっぷりと詰め込んだ、雲上の寝心地を約束するマットレスだ。
土の台座をベッドの横に寄せ、シーツを汚さないよう外套を剥ぎ取ってから、彼を転がすように寝かせた。
沈み込む体。
男の背中がマットレスに吸い込まれる。
「……っ、ぁ……」
男の喉から、苦悶とも安堵ともつかない声が漏れた。
眉間に刻まれていた深い皺が、ピクリと震える。
私は急いでキッチンへ走り、水と濡れタオルを持ってきた。
ひび割れた唇に少しずつ水を垂らす。乾いた砂が水を吸うように、彼は無意識にそれを飲み下した。
「大丈夫ですか? ここ、痛くないですか?」
問いかけながら、額の汗をタオルで拭う。
熱はない。むしろ体温が低い。典型的な衰弱だ。
脈を診ようと手首に触れた瞬間、男がカッと目を見開いた。
「――っ!」
反射的に掴み返された腕に、痛みが走る。
痩せているのに、万力のような力だ。
焦点の合わない、血走った紫色の瞳が私を射抜く。
「……敵、か……」
「違います! 家主です!」
私は悲鳴を上げそうになるのを堪え、精一杯の強がりで叫んだ。
ここで怯んだら殺されるかもしれない。心臓が早鐘を打つ。
「行き倒れてたのを拾ったんです。ここは私の家。あなたは怪我人。以上!」
男は私の言葉を反芻するように瞬きをし、それからゆっくりと視線を巡らせた。
淡い若草色の壁紙。
窓から差し込む柔らかな光。
そして何より、背中を包み込む異常なまでの「柔らかさ」。
彼の手から、ふっと力が抜けた。
「……柔らか、い……」
それが、最後の言葉だった。
男の瞼が重力に負けたように落ちる。
次の瞬間には、深く、本当に深い呼吸音が部屋に響き始めた。
気絶ではない。睡眠だ。
まるで、生まれて初めて眠る赤ん坊のような、貪るような寝息。
私は捕まれていた腕をさすりながら、へなへなと床に座り込んだ。
「……びっくりした」
心臓がまだバクバク言っている。
でも、彼の寝顔を見て、怒りは湧いてこなかった。
さっきまでの鬼気迫る表情が嘘のように、今の彼は穏やかだ。隈のせいで病人のようだが、力の抜けた顔立ちは驚くほど整っていて、あどけなささえ感じる。
それに。
「……私のベッド、効果覿面じゃない」
あんなに警戒していた男を、一瞬で夢の世界へ引きずり込んだのだ。
自作の「安眠マットレス」の性能が証明された瞬間だった。
恐怖が引くと同時に、職人としての妙な達成感が湧き上がってくる。
私は立ち上がり、彼に布団を肩まで掛けてやった。
泥だらけの服でシーツが汚れるのは少し悲しいけれど、まあいい。洗濯すれば済む話だ。
彼が何者なのか、なぜこんな場所にいたのか。
聞きたいことは山ほどあるけれど、今はいいだろう。
この家は「安息の場所」として作ったのだから、誰であれ、眠りたいなら眠らせてあげるのが家主の務めだ。
私は音を立てないように部屋を出て、そっとドアを閉めた。
廊下に出ると、自分の家なのに、今までより少しだけ空気が引き締まって感じられた。
とりあえず、彼が起きた時のためにスープでも作っておこう。
材料は干し肉と乾燥野菜しかないけれど、この家で食べれば、きっと何でもご馳走になるはずだから。




