雨の中に咲く向日葵
それは、唐突であった。
眠りネズミが、仕事に出て行ったきり戻って来ない。
最初は仕事が立て込んでいるのだ、とか厄介事に巻き込まれたんじゃないか、と言っていた帽子屋であったが、除々に2人は焦りの色を見せ始めた。
「ねぇ、もう眠りネズミさんが出ていって3日だよ?
なんかあったのかな?」
「だから仕事だろ? 三日くらい珍しくない」
素っ気なく返した帽子屋だが、貧乏ゆすりをする足が苛立ちを証明している。
何か事件に巻き込まれたんじゃないか、という考えがアリスの思考を陣取っていた。
何が起こってもおかしくない状況、と知っておきながら、本当に何かが起こると冷静に対処出来ない。
アリスはその事実を今、初めて身に染みて感じていた。
「ねぇ、管理人なんだから、安否くらいは確認出来るでしょう?」
部屋の隅から隅まで行ったり来たり、落ち着きのないアリスの目元には隈が出来ている。
帽子屋は眉根を寄せて、いつも以上に眉間に皺を寄せながらも、躊躇うように口をつぐんだ。
アリスはその様子にすぐ気が付く。
「どうかしたの?」
足をとめて、帽子屋が座るソファーの後ろから彼の顔を覗きこんだ。
帽子屋は思いつめた表情で一つため息。
それがアリスを勘違いさせた。
「まさか、眠りネズミさんに何かあったの?」
「違ぇよ」
低く、呟かれた否定。
「残念ながら、俺にはアイツの安否の確認は出来ない」
「どうして?」
「……じゃねぇんだよ」
「え?」
「俺はもう、管理人じゃねぇ」
一瞬の沈黙。
アリスは目を瞬かせた。
「何かあったの?」
その言葉は躊躇いの後に出たようで、少しだけ震えている。
帽子屋はアリスを自分の隣に座るように促して、彼女が座ったのを確認してから話し始めた。
「この前、剥奪者……いや、長と会ったろう?
お前が言っていたピアスが管理人の登録証明で、懐中時計もそれと似た管理人は、携帯必須の長への忠誠の証だ。俺はそれを長の前で捨てて来た」
「なんでそこまで? ねぇ、アナタは一体、誰なの?
眠りネズミさんだってそう。ただの監視対象の私にかかわって、助けてくれて……
長のことだって、あの人が剥奪者であることを知ってたんでしょう?
もう訳がわからない。
帽子屋さんは、なんで私の両親のこと知ってたの?」
一気に喋り終えて、アリスは興奮のあまり息を切らした。
帽子屋はポケットから取り出した煙草に火を付けて、ゆっくりと吸い込み吐き出す。
「勘違いするなよ。これは俺の業だ。俺はあの長が心底気に入らない。
ただ、それだけだ」
声はまっすぐだったが、瞳は虚空を見つめている。
アリスは、全て納得はしていないようだが、それ以上は言わなかった。
2人の沈黙の間に風が吹き込んでくる。
帽子屋は何かを察したように立ち上がり、ウッドデッキへと足を急がせた。
アリスはその様子に違和感を覚え、帽子屋の背を追う。
「嘘、だろ……?」
空を見上げる帽子屋。アリスは大きな背越しに聞こえた帽子屋の動揺がにじみ出た声に、彼同様に空を仰いだ。
そこには、いつものように雲一つない晴天を疑わなかった彼女は、見上げて言葉を失った。
少しずつ、曇天が押し寄せるようる青を浸食しているのだ。
湿った風、押し寄せる曇天。
しばらく立ち呆けていた2人の頬に落ちて来た雫。
「雨、だ……」
ボソリと帽子屋が呟いた。
「雨……」
アリスも同様に呟く。
「アリス、中入れ。濡れるぞ」
雨が頬に落ちたことで、我に返った帽子屋はさっさと背を向ける。
その背には、ある種の緊張感が漂っていた。
もう、今からこそ何が起こってもおかしくはない。
すでに不思議の国の均衡が崩れ始めた。
この雨がその証拠だ。
アリスは帽子屋のそれに気が付いたように、リビングへと入る彼に振り返る。
次第に強くなってくる雨。
「おい、入れって……」
「帽子屋さん!」
帽子屋の言葉を割って、アリスは満面の笑みを浮かべた。
「雨だよ、雨!」
まるで雨を待っていた蛙のように飛び回る。
「ったく、風邪引いても知らねぇぞ」
「私、雨凄い好きだもん!」
「俺は嫌いだ」
ぴしゃり、と帽子屋が言いのける。
それはムキになった子供のような言い方で、アリスは全身に雨を受けながら小首を傾げた。
「なんで?」
「なんでもだよ。ったく……」
帽子屋はため息をついて、リビングの奥へと向かった。
雨は嫌いだ。
雨は俺のトラウマの一つでもある。
大切なものをなくした日は、いつも雨が降っていた。
帽子屋は、びしょぬれのアリスのためにバスタオルを取ってきていた。
どんな嫌みを言ってやろうか。
そう考えながらウッドデッキへと出る窓を開けると、勿論前にはアリスがいた。
だが、驚いた。
雨の中で、凛と咲く太陽のようだ。
楽しそうに踊るアリス。スキップをしてみたり、ステップを踏んでみたり。
黒髪から滴り落ちる雫が、ステップと共に跳ねる。
「っというか、雨の中で咲く太陽って……我ながら……」
センスのない。
自分の言葉選びのセンスのなさに落胆しながら、失笑した。
「帽子屋さん!」
再び、眩い笑顔を向ける。
「どうしたの?
おじさん……みたいな顔してたけど? ああ、おじさんだっけ?」
「ふざけるな。風邪をひいても看病はしないからな」
手招きして、リビングへと入るように促す。
下に一枚タオルを敷き、彼女が頭などを拭くバスタオルを頭に掛けたやった。
「ったく、世話の焼ける」
漸く、出た嫌みの言葉がそれだ。
なんて在り来たりな言葉だろう。
アリスに着替えてこい、と言って突然暗くなったリビングに明かりを付けると、読みかけの新聞を読み出した。
多分、これが最後の一紙になるだろう。
カップに残っていた少しを飲み終えるのと、アリスがリビングの扉を開ける音、何かしらの異変が全て同時であった。
管理人として培った感が、俺を弾くように動かす。
それは、ウッドデッキの方からである。
形をとどめない、どす黒い靄のような物体。
止めどなく動いていて、それが凄まじい音を立てて窓を破って来る。
「アリス!」
俺は咄嗟にアリスの手を掴み、リビングの外へと出る。
驚愕と動揺、恐怖が握った手から伝わってきた。
玄関へと出ようとした時、再び何かしらの違和感。
俺が玄関のノブで手を掛けるよりも先に、扉が開いた。
そこに立っていたのはあまりにも見慣れた男であった。
「眠り……ネズミ……?」




