想起
帽子屋の視界には、すぐにアリスの姿が映ったが、当のチェシャ猫は姿を消していた。
彼女はベッドの中に入ったままベッドから移動する意思はないようで、ベッドヘッドに凭れてカーテンの閉められた窓側を見つめている。
それは帽子屋が現れた反対側だったため、どうやら彼が突然やってきたことに気が付いていない。
陽は高い。
本来なら、暑いくらいに差しこむはずの日差しも、カーテンに遮られている。
「アリス」
驚かせないようにそっと呼びかけた。
しかし彼女は反応を見せない。
「アリス?」
先ほどよりは大きめに彼女を呼びかけると、アリスの肩が大きく跳ねた。
「あっ! 帽子屋さん?
いつ来たの? 気が付かなくてごめん」
慌てて取り繕ったような笑顔で、髪を整える仕草をしながら答える彼女に、帽子屋は眉を寄せる。
「体調が悪いって聞いたが、大丈夫なのか?」
「あ~、うん。ちょっと気分が良くないだけ」
「幻覚か?」
帽子屋の言葉に、アリスの目がほんの少しだけ揺らいだ。
「そう、じゃないんだけど……
何かを……思い出しそうなのに、思い出した瞬間忘れてて……
その繰り返しで……」
「そうか。何も口にしてないんだろう?
温かい飲みもの持って来る」
帽子屋はそれだけ言うと、部屋を出て、アリスはその背を見送った後、深いため息をついた。
「アナタの願い、叶えてあげましょうか?
何なんだろう。凄く聞きなれた言葉。
ずっと頭の中をループしてるのに……思い出せない」
アリスは暗い部屋の中、頭を抱えていると帽子屋がすぐに帰って来た。
「アリス。カーテン開けるぞ」
帽子屋は言うだけ言って、確認を取らずに部屋のカーテンを全部開けて行く。
最後にベッド越しの最初にアリスが眺めていたカーテンを開けた後、ベッドのサイドテーブルにホットミルクを置き、はちみつを少し垂らした。
アリスは「ありがと」と一言、ゆっくりと飲み進めて行き、彼女がカップを開ける間の沈黙を流れた。
「ほら、寝ろ」
「でも、夢が……」
顔色の優れないアリスに帽子屋は半ば強制的に掛け布団をかけようとするが、彼女がその手を止めた。
「大丈夫だ」
帽子屋は彼女を視界に留めると、あまり見せない微笑みを彼女へと向け、アリスは一瞬驚き、されるがまま掛け布団を被せられ、ベッドへと潜り込む。
そんなアリスの目を覆うように手を翳した瞬間、彼女に不思議と抵抗し難い眠気が襲う。意識が深い闇へと誘われる前に「良い夢を、アリス」と帽子屋の声がした気がした。
「ねぇ、――――。この子の名前、どうしよっか?」
真っ暗闇の中で、良く知る可愛らしい声が、フィルターを通したように曇って聞こえてくる。
目を開けている筈なのに、周りは闇で見動きが取れない。
近くからは、落ち着く鼓動音が体にまで響いてくる。
「それならもう、決まってる」
「えっ? なになに?」
「それは……この子が生まれた時、俺が呼ぶまでのお楽しみだ」
「そんなのずるい~」
楽しそうで、幸せだということが伝わって来る、2人の声。
途端、2人の笑い声は凄まじいブレーキ音へと変わった。
―――あれ? ここは?
次に景色が変わった場所は何も見えない闇の中。
しかし先ほどとは全く違う、異質な感じがする闇。
「哀れな魂じゃのぅ。全く憐れじゃ……」
近くからまだ若い男の声がした。
―――誰?
「全く、罪深き男じゃ……」
―――誰なの?
「我か? 汝は知らずともよいことじゃ。
さぁ、こっちへおいで」
伸ばされた手は闇の中で血色へと染まって行き、次に訪れた場面は夜の街。
しかしアリスはその街を空から眺めている。
―――ここは……不思議の国?
アリスはふと、地面へと降り立つと、でこぼこのレンガ作りである地面に光が差し込む。
朝である。
綺麗、と呟こうとした途端、瞬間移動でもしているように場所が変わり、一軒の店の前へとやってきた。
後ろから微弱な足音がする。
振り返った先に、彼女は驚愕した。
「え!? 私!?」
そこには老婆の後を付いて行く自分の姿があったからだ。
カランカランと涼しげな音を鳴らして店に入る自分と老婆。
恐怖を感じながらもその後を付いていき、2人が沈黙を挟みながら交わす言葉に耳を傾ける。
―――知っていた。これは自分の記憶だ。
そう確信した時には再び、場所が変わり、’’知っている’’路地裏。
「てめぇら! 消されたくなかったら俺の視界から消えろ!」
怒号と銃声。
「こちらは管理局構成員に属する審判資格を有する者だ。
アナタを長の祝福を受けるに値する魂と判断した。
よって、アナタに過去と名を返そう」
天に舞い上がる光の粒。
意識を失った自分と、自分を支える帽子屋。
場面が変わる前に帽子屋とちらりと目が合ったような気がしたアリスは咄嗟に手を伸ばした。




