本日の【お前が言うな】
本館の中に飛び込む。
こちらでも何か事件が起きたらしい。
オリーブグリーンの絨毯が敷き詰められた館内は、やや騒然としていた。
宿泊客達が何ごとかと、浴衣姿で集まっており、仲居達が必死で客達の対応に追われている。
怪我人はいないか。
和泉はまず、そのことを確認した。
血の匂いが鼻をつく。
すぐ近くの絨毯の上に、赤いシミが広がっている。かなりの出血量だ。
誰かが怪我をしたのだろうか?
「何があったんです?!」
和泉はすぐ近くにいた仲居を捕まえ、問いただした。
「それが……私たちにもよくわからないんです」
北条が再び走り出す。
和泉もその後をついて行った。
真っ暗な夜道をひたすら走る。
特殊捜査班隊長が果たして、どこへ向かっているのか……暗がりの中で和泉は五感すべてが捕える情報から、おそらく港の方へ向かっているのだと判断した。
これは和泉の直感だが、おそらく斉木晃と支倉の間に『何か』があったに違いない。
まさか彼らも、特殊捜査班が突入してくるとは予想もしていなかったのだろう。
彼らは恐らく悟ったのだ。
警察の手が自分達に伸びてくるであろう旨を。
大麻の件か、女将の失踪事件についてか。叩けば埃がいくらでも出てくるはずだ。
特に女将の件に関して言えば、あの動画には音声も入っていた。
声紋鑑定をすれば、誰があの場にいたのか判明する。そうなれば言い訳ができない。
残された道は【逃走】。
北条が立ち止まる。和泉もそれに倣った。
そこは船着き場であった。
彼は懐から拳銃を取り出すと、突然、海に向かって三発ほど発砲した。
2人一緒かあるいか、どちらか1人かはわからないが、船に乗って逃走したことを、この異様な聴覚の持ち主である警視は悟ったに違いない。
しかし。
いくらこの人がチートだと言っても、まさか船を沈めることはできまい。
和泉は耳を澄ませ、周囲の音に全神経を集中した。エンジン音が聞こえる。
「北条警視、万が一船が沈んだりしたら……海保の管轄になってしまいますよ?!」
海上保安庁。
陸の上の治安を取り締まるのが警察なら、海の上の治安を取り締まるのは彼らの仕事である。
自衛隊と警察が犬猿の仲であるように、海上保安庁との仲も決して良好ではない。
「心配いらないわ。あそこにはアタシの下僕がいるから」
「そうですか……」
それから北条は携帯電話を取りだし、どこかに電話をかけはじめた。
「ああ、アタシよ。いい? 今から言う特徴のマルヒを見つけたらすぐ、連絡を頂戴。いいわね?!」
ほどなくして駿河が追いついてきた。
「和泉さん!!」
支倉と斉木の姿を探しているのであろう、彼はキョロキョロと辺りをくまなく見回す。
「残念だけど、2人とも海の上の人になっちゃったよ」
「……」
その時だった。
北条が再び、思いがけない方向へと走り出す。
「警視?! どこへ……」
どうやら白鴎館の方へ向かっているようだ。
旅館の裏はうっそうとした竹林になっているが、彼は迷うことなくそこへ走りこむ。
すっかり枯れた竹と竹、地面に落ちた枯れ葉の残る木々の間に、微かだが人影が見えた。
ぱっと見でわかったことといえば、大柄な男だろうということだけだ。
どうする?
後を追うか、それとも……。
悩む暇もなく北条は戻ってきた。
「……何かありましたか?」
返事はない。
彼にしてはめずらしく、何か考えごとにふけっているようだ。
「とにかく、聡さんに報こ……」
スマホを取りだそうとした和泉の手を急に、なぜか北条の大きな手が掴んだ。
「……北条警視?」
「聡ちゃんにはアタシから連絡するから、もう少しだけ待って」
彼はなんだか、いろいろと事情のありそうな顔をしている。
「……なぜです?」
しかし。
答えはなかった。
「お願いよ。ここはもう少しだけ【様子見】ってことにしておいてくれないかしら?」
和泉は駿河と顔を見合わせた。
まだ若い相棒は、顔にこそ出さないが、何を言ってるんだと血気はやっている様子が伺える。
だが和泉には、北条に何か思うところがあるのだと気付いた。
「……後になって何か問題が起きたとしても、あの時北条警視がこう言ったから、ということにしますけど、それでいいんですね?」
特殊捜査班の隊長は鼻を鳴らした。
「好きになさい」
駿河は未だに何か不審そうな様子を見せている。
「……大丈夫だよ、葵ちゃん。この人は言動こそ意味不明たけど、決して理不尽なことは言わないから」
お前が言うな。
無言の内に彼がそう言っているのが、痛いほどに伝わってきた。




