そうだ、お見舞いに行こう。
外に出ると、目の前にちょうど紙屋町行きのバスが停まっていた。
このまま帰宅するのは気が進まない。
そうだ、賢司の見舞いに行こう。
智哉はバスに乗りこんだ。
少しだけドキドキした。
あの妙な事件があってから、一度も彼とは出会っていない。
思いきって病室のインターフォンを押す。賢司の声で返事があった。
中に入ると、彼の他には誰もいなかった。
「お久しぶりです」
彼は驚いている。そして。
ちょっと痩せた……。
「智哉……元気だった?」
「はい……」
少しの間、2人の間に沈黙が降りた。
その時になって智哉は、何も見舞いを持って来なかったことを思い出した。
せめて花束ぐらい持ってくればよかったのに。
思いつきで行動したから、こんなことになるんだ。
苦い思いを噛みしめていると、くすっと笑い声が聞こえた。
「急に思いついて、ここに来たことを後悔してる?」
智哉は驚き、黙っていた。
この人は以前からこうだった。まるでこちらの胸の内を見透かしたかのようなことを言うのだ。
「気を遣わなくていいんだよ。僕の方こそ、お茶の一杯ぐらい淹れてあげたいんだけれども……」
「おかまいなく」
口にした台詞が自分で思った以上に、素っ気なく感じた。
すると。
「……あの時のことを、怒っているかと思っていた」
あの時のこと、と言うのが何を指しているのか智哉にはすぐにピンときた。
「怒ってます。当たり前でしょう?」
どういうつながりかは知らないが、変態の大学教授に自分を売り渡そうとしたこと。
笑って許せる方がどうかしている。
ただ。本気で見放されたわけでも、何の復讐のようにも思えなかった。
すぐに助けはくる。
そんな気がしていた。
やってきたのは、思いがけないところからの助けだったけれど。
「なんだか機嫌が悪そうだね。何かあった?」
優しい口調で問いかけられると、一緒に過ごした幾度かの日々を思い出してしまう。
そうだ。
この人は決して、悪い人などではなかったのだ……と。
「……父が……」
座りなよ、と賢司は言ってくれた。
病室とは思えないほど、立派な調度品や家具が揃っていて、智哉は遠慮しつつ、ベッドの傍にあった1人掛けのソファに腰を下ろした。
「お父さん?」
「勝手なことばっかり言うから」
「……どうしたの?」
そこで智哉は、実の父親から言われたことを打ち明けた。
彼は黙って聞いてくれた。
前もそうだった。
ただひたすら、否定することも、口を挟むこともなく、耳を傾けてくれた。
「そう言えば、最近、物騒だからね……お医者さんや看護師さんばかりが狙われた事件だろう?」
智哉は頷く。
「誰に聞いたのか知りませんが、僕に警察官の知り合いがいるから、なんとか保護してもらえないかって」
「なるほど。知り合いの警察官って、和泉さん?」
思いがけない名前が出て、智哉は少し戸惑った。
彼の中ではもっと他の名前と顔が浮かんでいたからだ。
「えっと、それもありますけど……他にも……」
「いるんだ? 驚いたな。前は、あんなに毛嫌いしていたのに」
賢司はおかしそうに言った。
確かに。以前は警察官なんてみんな敵だと思っていた。
こっちが本気で困っているのに、まともに取り合ってくれない。
ストーカーにつきまとわれて難儀していた時、相談に行った時のことは今でも忘れられない。
まるで自分がこんな女の子みたいな顔をしているから、変態につきまとわれるんだ、と言わんばかりの、おざなりな対応。
もっと鍛えて強くなれ、だの、いっそ整形でもしたらどうだ……など。
でも。
あの人は違う。
「……優しい人もいるんです」
「騙されたりしていない?」
「大丈夫です。僕は、もうあの頃の自分とは違います……」
智哉は真っ直ぐに賢司の目を見つめて応える。「何を信じるか、自分の目と耳で確かめることにしました」
彼はふっ、と微笑んだ。
「君も、周も……知らない間に、随分成長したみたいだ……」
そう語る彼の表情も、今までと少し違う気がする。
「賢司さんも……」
智哉は賢司の顔を見つめた。
「なんだか、顔つきが変わりましたね」
少し、優しくなった。
「僕が……?」
「僕は、今の賢司さんの方がずっと好きです」
お大事になさってください、と定型文を口にして智哉は病室を後にした。




