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名良村  作者: ブービー
4/6

名良村 3日目 夜

轟々と音を立てて、家が燃えている。

木と藁でできた家は、あっという間に全てが炎に包まれ、まるで天を突くように巨大な火柱が立ち上っていた。




あの後、菊から聞いた話は想像を絶するものだった。


この菅野家の人間――菅野久の両親は、病死ではなく、村から逃げようとした為、行蔵達によって殺されたというのだ。

そしてその生き残りである久は一五歳にして家長となり、現在は村で出来た子供の面倒を見ている。


この村にいる女性は、ある条件を満たすと隣の森見村に出稼ぎへ行く事になるのだが、その条件というのが「子を産むこと」なのだそうだ。

子を出産した女性は、一年間はその子供を育て、それから数年は森見村へ出稼ぎに行く。

そうしてまた子が出来ると、名良村に戻ってきて出産するのだそうだ。


そう、この場合の出稼ぎとはつまり、売春ということだ。


今は久木家の母と、猪田家の母が出稼ぎに出ている。

次にこの村に戻ってくるのは、誰の子とも分からない子を身籠った時になるのだそうだ。


そして定雄が言った、次は菊の番というあの言葉。

これは、次に村で子を産むのは菊だという意味だ。

事実、菊は少し前からこの菅野家に育児手伝いとして入り、菅野家の生き残りである久と情事を重ねていたのだという。


淡々と語る菊を見ていて、この少女が感情を表に出さない理由がようやく分かった。

こんな狂った場所にいたら、そして生きていこうとしたら。

自分の心を閉じ込めるしか無いではないか。

普通の感覚を残したままではとても、正気ではいられないではないか。


その話を聞いた時、俺は菊を強く抱きしめ、そして、一緒にこの村から出ようと誓った。




それから俺は菊と共に久木家に戻り、夕食を食べ、努めて普通に振る舞っていた。

あと一日二日我慢すれば……その時は早苗と菊を連れて村を出よう。

そう心に誓い、藁布団の中に入って朝になるのを待つ。

眠れるはずもないが、少しでも目を閉じておかないといざという時に動けない。

そんな事を考えながら、それでも次第にウトウトとし始めた頃だった。


暗闇の中で何かが動いている気配がする。

それは俺の寝ている隣まで来ると、藁布団を開けてもぞもぞと布団の中に入り込んできた。

驚いて布団から飛び出ようとした俺の体に白い手が巻きついて留める。

布団に入ってきた人物は早苗だった。しかも既に全裸になっているようだ。


「な、早苗さん……」


「えへ、来ちゃいました……」


甘えたような声を出して俺に擦り寄ってくる。

女性らしい弾力のある肌が当たって心地よいが、今はそんな事ができるような状態ではない。

なるべくショックを与えないようにと普通に振る舞ってはいたが、早苗にも話しておくべきだと思った俺は、夕方に菊から聞いた話を早苗にも話した。


「ああ、その事なら知っていますよ」


早苗から返ってきた返事は、俺の予想したものではなかった。

そんなの当たり前だけどそれが何か? とばかりの声で、大して気にもしていない様子だ。


「その事って……菊ちゃんはまだ一四歳なんだよ、そんな子に子供を強制的に産ませるなんて……」


「それがこの村の決まりなので、菊も承知していると思います」


「そんなはずないだろ、早苗さんは自分が同じ立場でも仕方ないって思えるのか?」


「……いいえ、ちょっと嫌ですね」


そうだろう、誰だって嫌なんだ。

だから……と言葉を続けようとしたところ、早苗は思いもよらない事を口にした。


「次郎さんとの子供が最初というのは、本当はちょっと嫌でした……そんな時に修二さんが村に来てくれて……私、修二さんの子ならいいかなって……」


それから早苗は、次郎に対する不満と、俺に対する好意を綴っていく。

周りは暗いが、お互いの息がかかる程に接近しているので表情は分かる。

早苗は時折、頬を染めたり、かわいらしくテレたりしながら、俺との子を楽しみにしているという事を語っていた。


将来を誓いあった恋人同士というならそれでもいいだろう。

実際、俺は今の今まで、早苗とはそうありたいとすら思っていた。

しかし、今は状況が違う。

菊の置かれた立場を当たり前のことと考え、この狂った枠組みの中で俺との子を待ち望む早苗の姿は、何か得体の知れないおぞましいもののように感じてしまった。


「修二さん……今日も……お願いします」


しおらしくそう懇願する早苗を前にして俺は背筋に冷たいものが走り、縋ってくる早苗を強引に振り払うと家の外へと飛び出した。

この村はおかしい、何もかもが狂っている。

川の方へ行こうか……そう思って振り返った俺の目に、赤く揺れる光が見えた。

光は瞬く間に大きく成長し、周りの木々を照らしながら荒れ狂う。


菅野家が……燃えていたのだ。




菅野家には子供がいたはず……

そう思った俺は、すぐにバケツを手に取り、水瓶から水をすくうと駆け出した。


しかし、木と藁で出来た家など、炎にとっては最高のご馳走でしか無い。

瞬く間に火は燃え広がり、俺が菅野家の前に着く頃には、最早消防車が出動したとしても消火は間に合わないだろうという勢いにまでなっていた。

火の勢いが強すぎて、バケツの水を撒いて家に届く位置にすら近寄ることが出来ない。

俺は燃え盛る家の前で、ただ呆然と踊る炎を眺めている事しか出来なかった。



「おい! 燃えてるぞ!」


「久のところだ!」


一〇秒か一分か、そうしていると後ろの方から誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。

他の家の人間も、火事に気が付いたようだ。

その声で我に返り、そして俺はだんだんと恐ろしい事に気がついた。


もしかしてここにいたら、俺が放火犯だと思われるのではないか……


ありえない話ではない。

むしろこんな閉鎖された環境の中で何か良くない事が起きた場合、まず間違いなく、疑いの目は唯一の余所者である俺に向くだろう。

そなればどうなるか……

俺を問答無用で殴り飛ばした事といい、かつて脱走した村人を殺した事といい、この村の人間は人を殺す事を躊躇わないだろう。


隠れなくては。


とっさにそう判断したが、燃え盛る炎が近くにある今、周りは真昼のように明るい。

このままではどこへ逃げても程なくして見つかってしまうだろう。


「修二さん、こっち」


俺が途方に暮れていると、家の近くの藪の中から俺を呼ぶ声がする。

そちらに目を凝らすと、そこには夕食の後、姿が見えなくなっていた菊が立っていた。


「菊ちゃん、危ないよ!」


「こっちにきて修二さん、この先」


そう言って菊は藪の中、森の中へと入っていく。

俺は訳が分からず、かといって菊を放っておく訳にも行かずに、燃え盛る家を素通りし、その後方に広がる暗闇の中へと足を踏み入れた。



森の中は草が生い茂っており、一〇メートルも入ればもう炎の光も月の光も届かない暗闇となった。

暗闇は人の恐怖を呼び起こす。

俺はまるで悪夢の中を這い回るかのように、それでも菊の消えた方向に向かって必死に進んでいった。


どのくらい進んだだろうか、恐らく大した距離ではないとは思うが、目の前すら見えない暗闇を木を避けながら進んでいくと、前方にぼうっと揺れる小さな光が見えた。

その光を頼りに、勇気を振り絞って夜の森の中を進んでいくと、とうとう月明かりの射す少し開けた場所に出、目の前の小さな小屋の入り口に手提げランプのようなものを持って立つ菊がいるのが見えた。


「菊ちゃん」


俺はあまり大声にならないように菊に呼びかけ、近くに駆けつける。

菊は俺の顔を見ると、とても嬉しそうに微笑んだ。


「修二さん、私、修二さんが村を出るために邪魔な人達を燃やしたよ」


唐突にとんでもない告白をされて、俺の足は一瞬止まる。

菊は相変わらずニコニコと満面の笑みだ。先日、久木家で早苗とふざけあった時のように、純粋で子供らしい笑顔。


……ああ、そうか。

菊は、とっくに壊れてしまっていたんだ。


止まった足を再び前に出し、俺は菊を抱きしめた。

こんな事があっていいはずがない。

こんな子が、こんな顔をして人を殺すような、そんな事があってはいけないのに。

俺は流れ出る涙を拭うこともせず、ずっと菊を抱きしめ続けていた。



――――



森を抜けた先にあったのは、小さな炭焼小屋だった。

俺と菊はその中に入り、夜が明けるのを待つ事にした。

夜が明けたら少し危険でも、山を超えて別の町へと進んでみよう。

この付近の地図なら少しは頭の中に入っている。

現在地は正確には分からないが、森見村から五キロメートル程度の場所で、俺が登っていた山から滑り落ちた先と考えれば、おおよその場所は見当がついた。


森見村に行こうとするから川が邪魔になるのだ。

最初から山越えをするつもりで進路を取るなら、一日歩けばたどり着ける大きな道路くらいいくらでもある。

道路にさえ出てしまえば、あとは通りかかった車に救助を頼めば良い話だ。

山越えは危険は伴うが、最早四の五の言っていられる場合ではない。

這ってでも逃げなくては。


そう決意する俺の中で、今まであった事を冷静に受け止め語りかけて来る俺がいる。

果たして逃げた先に、道路などあるだろうか?

ここは、本当に俺の知っている日本なのか?

あまりにも文明というものが無さ過ぎはしないか?

今時、普通の人間から徴兵の話など出てくるだろうか?


バカげた話だ。

しかしどれもこれも、この村での出来事は、とても二一世紀の日本での出来事だとは思えない事ばかりというのも事実。

俺は考えた挙句に、菊に一つだけ質問をしてみる事にした。


「なあ菊ちゃん、玄氏さんはどこであんな怪我をしたんだい?」


「昔戦争に行って、それで怪我をして帰ってきたの」


その答えを聞いた瞬間、喉が乾き、手が震えるのが分かる。

こんな時に言うような冗談ではない。

しかも今の菊は、俺に全幅の信頼を寄せているように見える、俺に対してつまらない嘘を付くとは思えない。

聞きたくはない、しかしここまで来たら先を聞かなければならないだろう。


「どこに戦争行ってたか分かる?」


「……わかんない、外国」


明確な答えが得られなかった事に、俺は落胆し、そして同時に少しだけ安堵もした。

自分が魔界のような場所に迷い込んでしまったと自覚するのは、とても恐ろしい事だからだ。

とは言え、総合的に判断すればそうとしか考えられないのだが。

もしくは、村人全員が虚言癖のような障害を持っているとか。

……どちらも現実的でない事には変わりない。

夢であってくれと今更ながらに思うのだが、体を伝わってくる菊の暖かさが、これは現実なのだと俺に思い知らせていた。


思わず菊を抱く力が強くなったのだろう、菊が俺の顔を覗き込み、同じように抱きしめ返してきた。

そして、俺の頭をゆっくりと撫でる。


「怖くない、怖くないよ……」


まるで赤ん坊をあやすように、優しい声音で俺を慰めてくれている。

俺は思わず菊の顎に手を添え、そしてその唇に自分の唇を重ねた。

菊は抵抗する事もなく、とろんとした目でじっと俺を見つめていた。

虫の声だけが響き渡る狭い小屋の中で、俺達は長い長い口吻を交わした。


長い間そうしていたが、ようやく唇が離れ、二人の間に糸が引く。

菊は口の中で少しもごもごした後に、唇の縁をぺろりと舌で拭った。


「私、修二さんとの子供がほしい」


頬を染めて、年に合わない事を言う菊を俺は再び抱きしめ、ただ、頷いた。



「ダメ!」



突然の静寂を破る声が響いたのはその直後。

炭焼き小屋の戸が開くと誰かが押し入り、そして俺達に覆いかぶさった。


暗闇に慣れた目に、月の光が入ってきたせいで、何とか周りを見る事はできる。

入ってきたのは早苗だ。


「だめよ菊、修二さんは私の……私と……」


「お……ねえ……ちゃん……」


暗いので良く分からないが、何か菊の様子がおかしい。

俺の腕の中でフルフルと小刻みに震えている。


「早苗さん、何を……」


慌てて早苗を菊から引き離し、再び菊を抱き寄せる。

その時、手に生暖かいものがベタリとまとわり付くのを感じた。

その感触に驚いて早苗を振り返る。


早苗は数歩下がって炭焼き小屋の外に出て、こちらを見下ろしていた。

手には光る包丁が握られている。

それは既に何かの血を吸った後のようで、月明かりに照らされて銀色に輝く刃からは、黒い何かが滴っていた。


俺は自分の手を見る。

暗がりで良くは分からないが何か黒いものが付いており、それは俺のよく知らない、それでいて嫌な予感しかしない臭いがした。


「早苗さん、何でこんな事……」


「だって、菊に修二さん取られちゃう、修二さんが遠くにいっちゃう」


「そんな馬鹿な……だって俺は君達二人を助けたいと……思ってたんだぞ!」


俺は動かなくなった菊をその場に横たえ、ヨロヨロと立ち上がり早苗を見る。

早苗は凄絶な笑みを浮かべ、血の滴る包丁を右手に下げていた。

炭焼き小屋の入り口を塞ぐように立っている早苗をどうにかしないと、ここから出ることは出来なさそうだ。


「修二さん、村に戻りましょう。戻って私と一緒になって」


「……だめだ、菊ちゃんを医者に見せるのが先だ」


「菊はもういい、菊の代わりに沢山子供をつくりましょう」


だめだ、何を言ってもうわ言のような答えが返ってくるだけ。

これは本当に現実なのだろうか。昨日までの仲の良かったこの姉妹はどこへ行ってしまったんだ。


「今、村の皆が修二さんを探してる、私と一緒に戻りましょう。私と一緒に戻れば大丈夫だから……」


これは予想通り、俺が放火の犯人だと疑われているようだ。

早苗は何故この場所がすぐに分かったのだろう、偶然か?

しかし俺の答えは決まっている。


「一緒には行けない、俺は村を出てこの事を伝えないといけないんだから」


俺の答えを聞き、早苗は心底驚いたような顔をした後、次第に泣き顔のようになっていく。

そして何か諦めたような顔をした瞬間、何の前触れもなく腰だめに構えた包丁を俺に突き刺してきた。


脇腹に焼きごてを当てたような熱さが走る。

その一撃を回避できたのは全くの偶然、飛びかかってきた早苗を避けようとしたところ、湿った床に足を取られて転倒したために難を逃れたのだ。

だがそれで万歳という訳にはいかない、早苗はすぐに俺の上に飛び乗り、両手に持ち替えた包丁を振り下ろして来たのだから。


俺は振り下ろされる包丁を持つ腕を掴んで、胸に刺さる既の所で止める事に成功した。

しかし相手は上から力をかけてくる、女性の力とは言え、力の入らない下からそれを抑えるのは非常に難しい作業だった。


「一緒になれないなら、一緒に死んでください」


「何で……外に出ればいいじゃないか、一緒に外へ」


「外なんて行けない、皆殺されちゃう、私達はもう、ここで生きるしか無いの。

でも……修二さんが来て分かってしまった、私はお母さん達のようになりたくない、好きな人の子供を産んで……育てたい」


俺のせいなのか?

俺がこの村に来てしまったせいで、この姉妹の運命を歪めてしまっただろうか。


早苗は泣きながら、俺に心の内を明かした。

その内容は、病的と言うほどまでの村への依存、そして、同じ位の外への憧れ。

名良村という閉鎖された空間で数年を過ごす間、早苗は村の掟を無理矢理自分に納得させて来た。

村から逃げる人間は殺されてしまう。

だから村の掟は絶対、掟に従っていれば安全、そう思い込んできたのだ。


しかし外の人間である俺と出会ったことで、その自己暗示に綻びが出来てしまった。

封じ込めてきた外の世界への渇望が、そのまま俺への愛情となって現れた。

早苗は俺を愛することで、外の世界と心だけでも繋がろうとしていたのだ。

それこそ、そのためならば自分の妹を手にかけても構わないと思ってしまう程に。


何ということはない。

早苗の心も、もうとっくに壊れていたのだ。


「早苗さん、俺なら、君を、外に連れて行ける」


「外……村の外……だめ、ダメなの、愛してる、修二さん、愛してるの」


俺の呼びかけにももうまともな返事は帰ってこない。

早苗は初めて会った時のような優しげな目で、俺の胸に突き刺さろうとしている包丁にさらに力を込めた。

もう……抑えられない。




「あ……がっ……」


腕がしびれ、もはやこれまでかと観念しそうになったその時、早苗が短く叫び……そして力を失って俺の胸に倒れ込んできた。

包丁を持つ手の力が失われ、抜け落ちた包丁は幸運にも横倒しになり、俺の胸に当たって床へと転がっていった。


ぐったりとした早苗を抱き止め、その体越しに後方を見る。

そこに立っていたのは……隻眼隻腕の男――久木玄氏であった。


「……あ……し……しゅうじ……さん、しゅう……じ……さん……」


早苗は俺の胸の上で苦しそうに俺の名前を呼び続ける。


「玄氏さん、何をしたんですか……」


「……看取ってやってくれ」


俺の問い掛けに、玄氏はいつも通り一言だけ呟く。その手には月明かりに照らされて銀色に光る刀のようなものが握られていた。


「……しゅ……じ……」


「早苗さん、俺はここにいるよ」


「……あ、あ、しゅう……あい……す……」


俺は早苗の体を抱きしめ、声をかけ続けた。

早苗は何度も何度も俺の名前を呼び続け、そして……ついにはその唇も、動かなくなった。


未だに炭焼き小屋の扉の前から動かない玄氏に注意を払いつつ、俺はそっと早苗を横たえる。

胸には真っ赤な血の跡があり、流れ出た血は俺の服と床を赤く染めていく。

早苗は既に事切れていた。

しかし、その顔は、苦痛の中で死んでいったとは思えないほどに、とても穏やかであった。


俺は早苗を菊の隣に並べ、手を合わせた後に玄氏の方に振り返る。

こんなありえないような事態が連続で起きている中で、俺の頭は不思議と冷静さを保っていた。

驚きすぎて一周回ってしまったのか、それとも……俺も、狂ってしまっているのだろうか。


「玄氏さん……早苗さん、死にましたよ」


俺の呼びかけに玄氏は「そうか」とだけ呟く。

手に持っている刀から滴る血が、今さっき早苗の命を奪ったものはこれなのだと語っている。

だが不思議と玄氏に対して恐怖は沸いて来ない。


「こんな事は、長く続くはずが無かった……許せよ、早苗……菊……」


玄氏はふと月を見上げる……何ともいえない悲しみの顔が、闇の中に浮かんだ。


「修二……早苗と菊に良くしてくれて、ありがとう……」


「これからどうするんですか、俺を……殺しますか」


俺の問い掛けに玄氏はゆっくりと首を振り、俺に背を向けると、村のある方向へと森の中に消えていく。


「終わりにする」


最後にそうとだけ残して、玄氏の姿は森の闇の中に消えていった。




緊張の糸が解けた俺は、そのまま床に座り込んでしまう。

床には早苗のものか、菊のものか、大量の血が流れ出ていた。

隣を見れば、かすかな月明かりに照らされて眠るように横たわる早苗と菊がいる。

しかし、辺りを覆うむせ返るような血の匂いが、この二人が永遠に目覚める事はないという事実を物語っていた。


しばらく呆然と佇んていたが、このままではいられない。

この蒸し暑い夏の気候の中では、この二人の遺体は瞬く間に腐敗するだろう。

何よりも、血の匂いに引かれた野生動物がここに来るかもしれない。

二人をこのままにしておくのは心苦しいが、とにかくここから離れなくては……


そう考えて重い腰を上げようとした時、遠くの方で一発の銃声が聞こえた。

何が起きているのか……玄氏の最後の言葉を思い返す。

俺は慌てて立ち上がり、炭焼き小屋を出ようとした。



……しかし、俺は何かに押さえられているかのように前に進めない。

服が何かに引っかかったか?

そう思い、動かない右腕に目をやる。


そこには、俺の右腕をしっかりと掴んだ早苗と菊の細い腕が見えた。


何が起きた?

早苗と菊は既に死んでいたはずなのに……

全身の毛が逆立ち、背筋に悪寒が走る。

半ばパニックになりながらも、掴まれた腕を引き離そうとするが、物凄い力でがっしりと掴まれているようで

早苗の指を掴んで、折れても構わないというほどに力を入れ引き剥がそうとしても、びくともしなかった。


俺を呼んでいるのか……

一緒に……死んでくれと?


俺は恐る恐る二人の顔に目をやる。

微かに見える二人の顔は、先程並べた時と同じ、穏やかで、眠っているかのようだ。

ただ俺の腕を掴んでいる手だけが、どうやっても放す事は出来なかった。


「……分かったよ」


そう呟いて、俺は早苗達の隣に横になる。

死体と寝るなど正気ならとても耐えられる事ではなかったが、立て続けに起きた事件のせいで俺の感覚も大分マヒしているようだ。

近くにある石や木材を使って腕ごと砕けば取れるだろうとは思ったが、早苗達の遺体にそこまでする気にはなれなかった。

最後に早苗と菊の頬を一撫でし、横になって目を閉じる。

次に見るのは地獄か天国か……それとも……




目を閉じてどのくらい経っただろう。

とても眠れるような状態ではないので、目を閉じて何も考えないようにしていたのだが、次第に虫の声が止んだことに気づいた。

それと同時に、遠くから「ボウウウ」という何とも聞き覚えのない音が近づいてくる。

音はどんどん大きくなり、やがてそれに混じって笛の音のようなものが聞こえ始まる。

どこかで聞いた事があるような……

そう思ったのと、大きな爆発音が聞こえたのはほぼ同時だった。


連続した大きな爆発音、そして大きく地面が揺れる。

二度、三度と轟音と凄まじい揺れが続き、とうとう小さな炭焼き小屋は倒壊した。

しかし幸運というべきか、俺は寝そべっていた為、丁度崩れた瓦礫の隙間に入ったような形になり、建物自体に押しつぶされるのを免れていたのだ。

目を開くと、崩れた木材の隙間から空が赤々と光っているのが見えた。

森が燃えているのだ。

あの方向には名良村があったはず……村は、玄氏さんは無事なのだろうか。


しかし圧死は免れたが、完全に木材の瓦礫に埋まる形となってしまった俺は身動きが取れず、村の様子を確認する事は出来ない。

このままでは俺の命もここまでだろう。

そして……再び近づいてきた、死を振りまく音を聞きながら、俺の意識は次第に闇へと還っていった。


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