名良村 3日目
セミの鳴く声がする。
俺は全身に気だるさを感じながら上半身を起こした。
夏とは言え、さすがに早朝ともなれば少し肌寒い……裸なら余計にだ。
昨日一緒に寝たはずの早苗は、隣にはいなかった。
その代わりに、昨日脱ぎ捨てたはずの俺の服が、布団の隣にきっちり畳まれて置いてある。
俺はそれを手に取り、いそいそと着替えだした。
寝ている間に蚊に刺されたようで、体のあちこちが痒い。
せめて蚊取り線香でもあれば少しは違ったろうに……
寝室の戸を開け居間に移動すると、土間の台所で食事の用意をしている早苗が見えた。
薪の燃える匂いがしていたので居る事は分かっていたが、その姿を確認できてほっとする。
「あ、修二さん、いま朝ごはんを……あ、きゃ」
言い終わる前に側に行き、早苗を抱きしめる。
昨日早苗は、恐怖でどうにかなりそうだった俺を優しく包み込んでくれたのだ。
そういうことがあったから……だけという訳ではないが、俺は今まで以上に早苗を信頼し、そして愛おしく思うようになっていた。
「だめです、多分もうすぐお父さんが帰ってきます……」
力なく抵抗されても構わず、さらに力を入れて早苗を抱きしめると、早苗も俺の背中に手を回して抱きついてきた。
何とも言えない安心感が俺の中に生まれる。
「いい匂いだ」
俺は早苗の体の臭いが気にならなくなった事に今更ながら気付いた。
「だって……修二さん……気にしてましたよね……だから」
早苗が恥ずかしそうにそう答える。
何という事だろうか、早苗は俺が臭いを気にしていた事に勘付いていたのだ。
だから、あの時あのタイミングで風呂になど入っていたのだろう。
そのいじらしさを考えると、ますます早苗を離したくなくなってしまう。
「ごはん焦げちゃいます……」
数分そうやっていただろうか、その困ったような声を聞いてようやく早苗を開放する。
早苗の顔は真っ赤になっていた。
その後、ご飯の用意が丁度完了した頃に、菊が戻ってきた。
囲炉裏を囲んで三人でご飯を食べる。
いつも通り味気ない食事ではあったが、味に慣れたのか早苗が作ってくれているからか、初めて食べた時程の抵抗感は無くなっていた。
しかし菊は一体、夜中にどこへ行っていたのだろう。
昨日見た胸のアザといい、色々と心配になってくる。
「……菊ちゃん、昨日の夜はどこに行ってたんだい?」
「子守」
「子守!? まさか菊ちゃんの……」
自分で言っていてバカなとは思ったが、しかしこの村ならばあり得るかもという漠然とした不安もあった。
「違う、猪田さんのところの子供」
菊の返事を聞いて、バカな妄想がバカなまま終わって良かったと胸をなでおろす。
猪田とは、先日この家に怒鳴り込んできた厳ついオヤジの事らしい。
その猪田行蔵の息子が、この村に来た初日に早苗に絡んできた次郎なのだそうだ。
しかし何で他の家の子供の面倒を菊が見ているのだろうか。
その疑問には早苗が答えてくれた。
「この村の女の人は、普段は森見村に出稼ぎに出ているんです。
そこに子供を連れて行く訳には行かないので……子供は村の皆で見る決まりになってます」
「今は猪田さんの家の奥さんと、うちのお母さんが行ってる」
早苗と菊の説明を受けて、俺はこの家に母親がいないことに合点がいった。
しかし、普通は出稼ぎに行くなら男性の方だと思うのだが、女性が出稼ぎって珍しいな。
だがそうなると、菊は一晩中あの厳ついオヤジと早苗に乱暴した男の家にいたわけか……
「菊ちゃん、子守中に変なことされてない?」
早苗が食器を片付けに行ったタイミングを見計らって、俺は菊にそれとなく探りを入れてみる事にした。
もし虐待されているなら大変な事だからだ。
「……何で?」
「いや、その……胸の辺りにアザがあっただろ、だからちょっと、心配で……」
服の中を覗いたことを白状しなければいけないのは精神的に来るが、そうも言っていられない。
やましい気持ちで覗いたわけじゃないんだ、いいね?
「……やっぱり覗いてたんだ、すけべ」
「い、いや、別にそういうつもりじゃ」
「ふふ……ふふふ、あはははは」
菊はしばらく目を細めて俺を睨んでいたが、次第にケラケラと笑い出す。
台所で早苗が不思議そうにこちらを振り返っているのが見えたので、何でもないと手を降って答えておく。
「あはははは」
「な、何がおかしいんだよ、俺は本当に心配して……」
「だって……そういう事かって思ったらおかしくて」
そう言って菊は立ち上がり、何かを背負う真似をした。
赤ん坊を背負って、紐を前で交差して……えええ? おんぶ紐? おんぶ紐の痕だったっていうのか!?
「あはははははは、一日中赤ちゃん背負ってたら大抵は付くでしょ」
何という事だ、あのちらっと見えた紐の痕みたいなアザは、おんぶ紐の痕だというではないか。
だが、そちらのほうが余程説得力が有る話だ。
こんな中学生くらいの少女を、よってたかって嬲りものにしているなどという考えの方がよほどおかしいじゃないか。
「はは……はははははは、そうだよな」
菊に変な妄想を抱いていた事を見抜かれたのは恥ずかしいが、なにも無いならそれに越したことはない。
俺の恥などこの際どうでもいいんだ。
そうして疑問に思っていた事が単なる勘違いだという事が分かると、途端に他の出来事も、単なる勘違いや行き違いのせいだったのではないかと思えてくる。
聞けば行蔵はこの村の村長のような立場で、次郎とは親子だというではないか。
行蔵はもしかしたら、早苗のことで次郎と俺の間で起きたいざこざを、次郎から大げさに聞いたのではないか。
だからその報復をしに、早苗の家に怒鳴り込んできた。
受けた暴力は明らかにやり過ぎだが、そう考えれば幾分辻褄は合う。
話の流れが何となく自身の中で整ってくると、あの日殴り込んできた行蔵と定雄の事も“正体不明の狂人”から“早とちりヤクザ”くらいまで認識が改まった。
それでも怖い存在ではあるのだが……
玄氏が話し合いに行っていると言うし、その結果に期待しよう。
「変な事聞いてごめんな菊ちゃん」
俺は自分の失態を誤魔化すように、菊の頭をぽんぽんと撫でた。
「ううん、別にいいよ……それよりも」
しばらくされるままにしていた菊だったが、突然口の端を上げてわざとらしい笑みを浮かべた。
「昨日、おねえちゃんと子供作るの……してたよね」
その声を聞いた途端、俺の背中に冷たいものが流れ落ちる。
菊はなんとも言えない笑みを浮かべたまま俺を見つめ、俺はそんな菊に対して何も言う事が出来なかった。
――――
結局、玄氏が帰ってきたのは昼を回った頃だった。
行蔵の家で酒を飲みながら話し合ったらしい。
昼飯を食べながら「もう大丈夫だ」といつものように一言だけの結果報告を受けたが、それだけで俺は大変に救われた気分になった。
正直なところ「訳も分からず殴られて怪我を負ったというのに、本人からは何も無しか」というような気持ちはあるが、ここでこれ以上この話を蒸し返すのは得策とは思えない。
どうしても我慢できないとなっても、この村を出た後に警察などへ行く方がいいだろう。
ここは法の支配が及ばない土地だ、文化的な生活をしていた村のすぐ近くにこんな集落があったなどとは今となっても驚きだが、ある以上は仕方ない。
ここにいる間は騒ぎを起こさず、できるだけ穏便にやり過ごす以外にないだろう。
あれから菊が、俺と早苗のことを玄氏に告げ口などをするのではないかとビクビクしていたが、当の菊は何食わぬ顔でいつも通りに過ごしていた。
こっそりと「何故知っているんだ」と聞いたところ「臭いがするもの」という答えが帰ってきて、俺は何となく家の中に居づらくなり、昼飯が終ると川の様子を見に出かけた。
できるだけ久木家以外の村人とは出会いたくないが、川の様子も気になる、水が引いたら一刻も早くこの村を出たかった。
それに、菊に言われた通り臭いがするのなら、水浴びでもした方が良いのではないかとも思ったのだ。
しかし本当にそんな臭いが分かるものなのだろうか?
そう考えている間に川に到着したのだが、相変わらず激しく流れる水が目に入ってため息が出た。
しかしその水の色は、昨日までの茶色く濁った色ではなく、かなり透明感が出てきていた。
早苗の話では、明日か明後日くらいには水量が安定してくるそうだが、早いところ引いて欲しい。
というか、何でこの村はこんなマトモな道が通っていない位置に作ったんだ……
とにかく体でも拭こうと、借りた手拭いを持って人目につかない場所へと移動する。
先日錯乱した俺が村から出ようとした、村外れの森の前に来てみたが、藪が深くて日中でもかなり暗い……よくこんな所に突っ込もうと思ったものだ。
早苗が止めてくれなかったら今頃本当に遭難していたかもしれない。
森の中に吸い込まれるように流れていく川を見ながら、俺は心の中で早苗に感謝した。
「……誰かいるのかい?」
川の隅で上着を脱いで体を拭いていた俺の後ろから不意に声がかかり、俺は緊張で硬直してしまう。
聞いたことのない、女の声だった。
「あら……あんた、もしかして」
敵意のようなものは感じない穏やかな声に、ゆっくりとそちらに体を向ける。
そこにいたのは着物のような服を着た、20代半ばくらいの、長い黒髪が印象的な女性だった。
「あんた、あれだろ……玄氏さんとこに転がり込んだっていう……」
どうやらこの女性は俺の事を知っているようだ。
まあこんな小さな村なら、余所者が来たなんて話は一瞬で広がるのだろうが。
「はい、久木さんの家でお世話になっている、修二と言います。貴方は……」
「アタシは宇山みやこ、猟師の女房さ、宇山定雄……知ってるだろう?」
宇山定雄……定雄……
ああ! 確か昨日家に怒鳴り込んできた二人のうち、猟銃を持っていた男がそう呼ばれていた気がする。
猟銃を俺に突きつけ、頭を殴った男……
そう考えた途端、俺の体は反射的に後ずさろうとするが、その際にバランスを崩して水の中に転倒してしまった。
「バカ、何やってんのさ! 流されちまうよ」
手に持っていた桶を落とし、慌てて駆けてきたみやこが俺の手を掴んで川から上がらせる。
そしてふらつく俺を、自身の着物が濡れるのも構わずに抱きとめてた。
「大丈夫かい……あのロクデナシから話は聞いてるよ、災難だったねぇ。
あいつ、村の男衆では一番の下っ端だから、いつもは女子供に当たって憂さ晴らししてるんだよ。
そんなところにアンタみたいなのが来ちまったからね……」
抱き止められたまま、みやこは定雄の愚痴を言い始める。
この村には大人の男は3人しかおらず、定雄はその中で一番立場が低いそうだ。
「あの……すいません、ありがとうございます、もう大丈夫です」
さすがに半裸のまま密着しているのは気恥ずかしくなり、押し返すようにみやこから離れた。
「あらまあ残念、若い男なんて久しぶりだったからつい力が入っちまったよ」
みやこはそう言って笑うと、俺と自分の着物を交互に見やる。
俺のスボンも、みやこの着物もずぶ濡れだった……
「濡れちまったねぇ……」
「……すいません」
「気にする事はないよ。でもこのままだと風邪を引いちまうね」
みやこはそう言って、わざとらしく考えるふりをした後で俺の手を引いた。
「アンタ、うちに来て服乾かしていきな。まさか外でフルチンになって乾くの待つ訳にもいかないだろう?」
「え、でも……旦那さんは……」
ウチに来いとは言うが、みやこの家はあのスキンヘッド猟銃男、定雄がいるのではないか。
とてもじゃないがそんな所には行きたくない。
「大丈夫、アイツは今日は猟に出たから夕暮れまで戻らないよ。
それに昨日、玄氏さんにガツンと言われたそうだから、もう無茶なことはしないさ」
あの無口な玄氏がガツンと言っている様子が想像できないが、それが本当なら一安心だ。
「ここ……ウチの馬鹿がやって出来ちまった傷だろう? かわいそうに。
悪いことは言わないから、ウチで休んでいきなよ」
そう言ってみやこは俺の頭の傷を優しく撫でる。
すこし痛いようなくすぐったいような、不思議な感覚が伝わってきた。
最初は、定雄の戻るかもしれない家になど行きたくはなかったのだが、余りにも熱心に誘われるのでとうとう根負けし
服が乾くまでの間だけ、みやこの家にお邪魔することとなった。
――――
……やってしまった。
俺はみやこの家に行き、最初のうちは着替えをしながらこの村の事などについて色々と聞いていたのだが、次第にみやこが距離を詰めて来て……
気がついたら流されてしまっていた……
「ああ……綺麗な肌だね……都会の男ってのは皆こうなのかい?」
みやこが俺にしなだれかかりながら、俺の上半身をペタペタと触っている。
別に俺自信はそこまで肌に気を使っている訳ではない、むしろアウトドアな遊びをする事が多いので荒れている方だと思うが……
「みやこさん、何で俺と?」
「何でって……こんな所にいたら、この位しか楽しみなんて無いしね。
あのロクデナシの相手だけじゃ嫌になっちまうだろう?」
何となく気持ちは分からないでもないが、夫婦だというのにみやこからは定雄を持ち上げるような話は一切無い。
仲が悪いのだろうか? それとなくその事を聞くと、みやこは自嘲気味に笑いながら話し始めた。
「あいつはここに来る前はヤクザ者でね、アタシは定雄のいた組の組長の情婦だったんだ。
で、ある時あいつに令状が届いちまってね……そこで何をトチ狂ったか、アタシに一緒に逃げてくれと泣き付いてきたのさ。
あの頃はアタシも若かったからね……ついのぼせ上がって、愛の逃避行ってやつに乗っちまったんだよ。
それでしばらくはあちこちを転々としていたんだけどね、元々大して裕福なわけでも無かったんで、すぐに金が尽きちまった。
警察に見つかっても、組の連中に見つかっても終わりだから下手に動けない、もう心中するしか無いか……ってなった時に、猪田行蔵に出会ったのさ」
上半身をはだけて俺に寄りかかるみやこの話を聞きながら、俺は話の中に微妙な違和感を感じていた。
今時ヤクザが女と一緒に夜逃げとかあるのだろうか……俺が知らないだけか?
それに令状って何だろう、定雄は何か犯罪を犯していて、警察に追われる立場だったのだろうか。
俺の脳裏にまたしても良くない予感がよぎる。
そして次の話で、それは決定的となった。
全く予想しなかった方向で。
「行蔵はどっかの地主をやっていたらしいんだけど、長男を兵隊に取られるのが嫌で、私財を売り払って逃げてきたんだってさ。
初めて会った時から少しおかしなオヤジだったけど、切羽詰ってたアタシ達には救いの神だった。
行蔵は持ってた金を使って村を作ったんだ……簡単には見つからないよう、こんなへんぴな場所にね。
でも結局、行蔵の長男はここに来たその年に病気で死んじまったよ。それからさ、あの男がますますおかしくなったのは」
「ちょ、ちょっと待って……兵隊って何?」
話の中に聞き捨てならない単語が出てきたので、慌ててみやこに説明を求める。
思えば今までもちょくちょく「あれ?」と思うような会話はあった。
その度に、単なる言い回しの問題だろうと思ってきたのだが、今回はどうも違う。
「はあ? 兵隊って言ったら戦争に行く兵隊以外の何があるんだい?」
「いやおかしいでしょ、今の日本は何処とも戦争なんてしてないし、徴兵なんてものもやっていないよ」
「……? 何を言ってるんだい? 良く分からないことを言うねぇ」
話が噛み合わないといった様子で首をかしげるみやこ。
しかし俺はこの会話で、自分の身に非常にまずい事が起きているという事を直感的に感じ取ってしまった。
詳細は分からない、具体的に説明する事もできない、だが……ここにいてはいけないという事だけは、なぜかはっきりと理解できた。
俺はそれ以上深く話を聞く事はせず、上着を手に取って立ち上がろうとすると、みやこが俺の腰に手を回し覆いかぶさってきた。
「みやこさん、何を……」
「つれないね、これから仲良く一緒に暮らしていく身じゃないか、もう少しこうして……さあ」
「いや、俺はそろそろ帰らないと。明日になれば川の水も引くんでしょう?」
俺がそう言った瞬間。
それまで見せていたみやこの艶っぽい表情が消え、まるで能面のように表情のない顔で俺を見つめる。
胸の辺りから見上げるように感情のない目で見据えられ、俺の背中に冷たいものが走った。
そして……みやこの次の言葉を聞いた俺は、自分が既に深淵に片足を突っ込んでいる事を理解する。
「帰れるわけ無いだろう? この村を見ちまったんだ、アンタはもうアタシ達の仲間になるしかないんだよ」
「帰れないって、そんな監禁みたいな事が許されるわけ……」
「ははっ、アンタこんな誰も来ない山奥で何言ってるのさ。
それに昨日の話し合いでそう決まったはずだよ、玄氏さんからは何も聞いてないのかい?」
そんなの聞いているはずがない、しかもそんな話を勝手に決められたところで、はいそうですかと従う訳がないじゃないか。
俺は上に乗っていたみやこを強引に退け、上着を羽織って家の出口へと向かった。
「逃げようなんて思わない事だよ、この村だけじゃない、森見村の連中にも監視されてる。
逃げることなんて出来ないよ、見つかったら殺されちまうだけだ」
後ろから聞こえてくるみやこの声を聞きながら、俺は振り返らずに宇山家を後にした。
宇山家――みやこの家を飛び出した俺は、一旦物陰に隠れながら混乱した思考を何とか整え、これからすべきことを模索していた。
みやこの話をまとめると、この村は外界から隔絶された場所にあり、村人は村の外には出ていけない事情を持った人間ばかりという事だ。
宇山定雄、みやこは、元ヤクザで今はお尋ね者という身。
猪田行蔵は以前いた村を捨ててここに新たな村を作った張本人、一昨日会った猪田次郎は、行蔵の二番目の息子で、長男はここに来てすぐに亡くなっている。
俺がいままで世話になっていた、久木玄氏、早苗、菊の事情は分からない。
しかし玄氏はこの村では行蔵の次に発言力が有ると見ていいだろう。
そして恐らく……玄氏もまた、この村の外に出ることができない事情がある人間なのだろう。
そういえば次郎と一緒にいた一五、六歳と思われるの少年は誰だったのだろう。
あの少年に関してはここまで誰の話にも出てきていない、四軒目の家の住人なのだろうか。
俺は物陰から村に点在する四軒の家を見る。
川から最も近い家は宇山家、定雄とみやこが住む家だ。
その先にあるのが久木家、俺が世話になっていた家。
そして久木家の向かい側にあるのが、この村の村長的な存在である猪田家。
そこからさらに山の方へ進んだ先に、ぽつんと立つのが四軒目の家だ。
村は森を切り開いて作ったような形になっており、村の周囲は鬱蒼とした木々に囲まれている。
ふと、みやこが言っていた言葉が脳裏に蘇ってくる。
この村は息子を兵隊に取られるのを嫌がった猪田行蔵が作ったのだと……
兵隊って何だ、この村の外では戦争でも起きているのか? 馬鹿馬鹿しい。
しかし……この、俺の知る文明の跡が何一つないこの村にいると、今は江戸時代ですと言われても信じてしまいそうになるのも事実だ。
この村に来てからずっと喉の奥に引っかかっていた感覚。
ただの山奥の寒村というだけでは説明しにくいほど文明を感じさせない村。
俺はもしかしたら、とんでもない所に迷い込んでしまったのではないだろうか……
そんな漠然とした不安だったものが、どんどんと暗い影を帯びて、俺に迫ってきているような気がした。
しばらく木陰で休んでいると、混乱した思考も次第に落ち着いてきた。
分からない事は多いが、考えても分からない事を考えるというのは今やることではない。
今は何とかして川の水が引くのを待ち、この村を出る事が先決だ。
みやこの話では、俺は村から出られないらしいが、逆を言えば村の中をうろついても問題無くなったという事だ。
ならばまずは下手に疑われるような行動を取らず、普通に接していよう。
そして隙を見て逃げ出せばいい、この村の人数では、俺を常時監視しておくことなんて不可能なのだから。
とりあえずは普通にしていよう。
そう思って木陰から顔を出し村の様子を見ると、一番奥の家から人が出てくるのが見えた。
一昨日の夕方に、次郎と一緒に居たあの少年だ。
やはりあそこは、あの少年の家だったのか。
少年はそのまま歩いていき、川の方へと向かっていった。
俺は今まで一切話題に上がっていない、四軒目の家の住人と接触しようと村の奥へと向かう。
とにかくまずは村人の正確な人数や、人の性格などを把握しておかなければいけないと感じたからだ。
一番奥の家の前に立ち、戸を叩こうとしたところ、急に戸が開いて驚いた。
そしてその中から出てきたのは、菊であった……
「あ……」
菊は一瞬だけ呆けたように俺の顔を見たが、すぐに外に出ると家の戸をピシャリと閉めた。
一瞬だけだったので良くは見えなかったが、中の作りは久木家や宇山家と特に変わらない。
居間に幾つかの布団が敷いてあったのが見えた程度だ。
「なにしてるの?」
菊が少し動揺したように早口で俺がここにいる理由を尋ねる。
「いやちょっと散歩に……ここって誰の家?」
「ここは菅野さんの家」
「ちょっと入っていい?」
「だめ、子供がいるから……」
話を聞くと、この菅野という家は、以前は一家族が住んでいたらしいのだが、去年病で両親が亡くなってしまい、残った久という息子が一人で住んでいるのだそうだ。
今では村で生まれた子供をここに集めて、菊と久で世話しているらしい。
しかしそう話す菊の様子は、普段とは少し違っていた。
まるで走った後のように頬が上気し、少し息も荒い。
「大丈夫か菊ちゃん、熱ないか?」
俺が菊の額に手を当てあると、菊は驚いたように数歩下がった。
「大丈夫、子供の世話大変だから、少し疲れただけ」
「そうか? 俺が手伝えることがあったら言ってくれよな」
そう言って菊の頭を撫でると、菊は真っ赤になって俯いてしまった。
この村でよく知っている少女なので少し気安くしすぎたかもしれない、気を悪くしてしまったか?
そんな事を考えていると、菊は少しだけ潤んだ目を俺に向け、そして俺の手を引っ張って言った。
「ねえ、修二さん……少しお話しよ?」
――――
俺と菊は、菅野家の隣に生えていた大きな木の下に座って、午後のお喋りを楽しんだ。
会話の内容は他愛のない世間話だったが、菊は今まで見たこともないような笑顔を見せて笑っていた。
「おい、何やってんだ」
しばらくそうして、日が傾き始めた頃。
森の奥から出てきた人物の声で俺は我に返った。
そいつはあの時と同じように、猟銃を俺の方に向け、下品な笑みを顔に貼り付けていた。
「宇山定雄……」
「ああ? ガキに呼び捨てにされる謂れはねえぞ」
俺のつぶやきに、定雄は猟銃の口を俺の額に押し当てて凄む。
ただの脅しだとは分かっているが、銃を突きつけられるという恐怖は実際に味わってみないと分からないものだ。
定雄が手に持っている今日の獲物であろう鳥やウサギの死骸が、この銃は本当に人を殺せるという恐怖を一層引き立たせていた。
俺は何も言えずにただ固まるしか無い。
「やめて、修二さんはもう村の人」
「……けっ、分かってるよ」
固まっていた俺の横から菊が定雄に抗議すると、意外にもあっさりと銃を引いて面白くなさそうに肩に担いだ。
「玄氏さんを味方につけやがって小僧が……まあいい、村のモンになりゃお前は一番下っ端だ、せいぜいこき使ってやるから楽しみにしてな」
定雄はそう言うと、意地の悪そうな笑みを浮かべて去っていこうとしたが、すぐに何か思い出したように立ち止まって振り返ると、今度は下卑た笑みを浮かべて菊の方を見た。
「そういや次はお前の番だったな菊よ? 精々気張りな、何ならそこのガキに手伝ってもらうと良いかもなぁ。
しかし本当に行蔵のオッサンは頭がオカシイぜ、まあこれはこれで退屈しねえってもんだけどな」
そう言って笑いながら去っていく定雄の後ろ姿を、菊はとても怖い顔で睨んでいた。
定雄が去った後、俺と菊は互いに一言も話さず、ずっと木の下で並んで座っていた。
聞きたいことは数多くあったが、口を真一文字に結んで真っ直ぐ前を見つめている菊を見ると、声を掛けるのが躊躇われる。
先程、定雄が言っていた「菊の番」って何のことだろう?
俺が手伝えるような事なのだろうか。
しかし話の内容的に、楽しい作業だとは到底思えない。
そうしている間に日は山に隠れ、辺りを薄っすらと影が覆っていく。
夏とは言え、周りが見えるのはあと二時間といったところだろう。
川の方から久と呼ばれた少年が歩いてきて、子供の家に入って行くのが見えた。
こちらは見えているはずなのだが、俺の方をちらりとも見る素振りは無い。
「……そろそろ家に帰ろうか、それとも子供の世話が残ってる?」
沈黙に耐えられなくなった俺は、そう言って菊に話を切り出したが、菊は相変わらず黙ったままだ。
仕方がないので俺だけでも一旦、久木家に戻って今後の動きを考えようと思い腰を上げようとした所、菊の手が俺の腕を掴んできた。
「修二さんは、菊の事が好き?」
長い沈黙の後に突然に発せられた、要領を得ない質問に少し戸惑う。
ここでそれを聞く意味は何だろうか。
しかし好きか嫌いかと言われれば、好きであるというくらいには菊の事は信用している俺は、大して間を置かずに返事をすることが出来た。
「もちろん好きだよ」
「お姉ちゃんよりも?」
しかし次の質問でますます意図が掴めなくなった。
正直に言ってしまえば、関係が深いのは姉である早苗の方だ、しかしここでひねり無く“いいえ”などという選択肢は妥当ではないと感じる。
「それは比べられないな、早苗さんも菊ちゃんも同じくらい好きだよ」
結果としてこういうチキンな答え方になってしまうのは、この場においては仕方の無い事だと言えるだろう。
なにせ一四歳の少女の言う話だ、そこまで深い意味があるとは思えない。
ならばまずは無難な答えで攻めるまでだ。
「じゃあ、私とも、子供作るのしてくれる?」
……無難な受け答えをしていたと思ったらとんでもない爆弾が降ってきたでござる。
冗談か? いや、冗談のはずだ。冗談でないはずがない。
考えるんだ、ここで最も適切な答えは何か。
「それは……菊ちゃんがもっと大人になったら、その時になってもまだ同じ気持ちだったら……考えるよ」
「本当に? じゃあずっと、修二さんは私のことを好きでいてくれるの?」
「ああ、勿論だよ」
問題の先送り、チキンハートここに極まれり。
だが一体この流れで他に何と言えば良いのだろうか。
俺は百戦錬磨の強者じゃないんだ、むしろ無難にこなせたことを褒めるべきだ。
この突然の話の流れで、俺はすっかり狼狽してしまい、なぜこの話になったのかという根本的な問題を見落としてしまっていた。
この、明らかに普通ではない村で、このような少女から突然の告白を受ける。
それが何を意味していたのか。
そして菊の次の一言から、全てが始まった。
「修二さん、この村を出たい?」




