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名良村  作者: ブービー
2/6

名良村 2日目

バイクが坂を滑り落ちる。

滑り落ちた先は崖。

眼下には轟々と流れる荒れ狂った川。

川に落ちる。

濁流に揉まれ、俺の体はバラバラに引き裂かれる。

バイクが坂を滑り落ちる。

…………




大きく息を吸い込みながら、俺は目を見開いた。

ぼやけた視界の先、わずか三〇センチ程度の所に何やら白いものが見え、それがだんだんと能面のようなものに変化して行くように見える。


「うわあああ!」


余りの驚きに情けない声を上げ慌てて立ち上がろうとするが、寝起きとあってうまく体が動かない。

腰を抜かした老人のように、手と足をバタつかせながらわずかに後ずさる事ができただけだった。

荒い呼吸を整えながら状況を把握する。

見慣れない景色、薄暗い空間、古い家……


呼吸を整える度に記憶が蘇ってくる。

そうだ……ここは山奥の農村にある民家だ。

昨日あった様々な出来事を思い返し、俺は再度前を向いた。


そこにいたのは菊であった。

彼女は俺の枕元に屈み込み、布団……正確には藁布団を覗き込むように座っていた。


「……なんだ、菊ちゃんか」


「うなされていたようなので」


「あ……ああ、うん、疲れてたからかな、変な夢見ちゃったよ」


はっきりと自分の存在を認識できるようになり、改めて辺りを確認する。

昨日、あれから結局二度もおかわりを頼み、飯が美味いとは言えないまでも腹だけは膨れた俺は急激に眠くなり、菊に床の準備をしてもらって倒れ込むように眠ってしまったのだ。

布団は固めた藁の上に布を張っただけの、いわゆる藁布団というものだ。

実物を見るのはもちろん初めてである、寝心地は……言わずもがなといったところだ、体のあちこちが痒い。


家の中はかなり暗く、まだ日が昇る前である事が伺えた。

そして夢の中にいた時からずっと鳴り響くこの音……轟々と打ち付ける滝のような音は……


「……雨、振ってる……帰れないね」


「やっぱり?」


そう、外はバケツを引っくり返したような大雨だった。




この名良村から、俺が昨日までいた森見村まで行くには、川のすぐ隣を通る道を五キロメートルほど下って行かなければならないという。

しかし途中に道がとても狭くなる場所があり、大雨などが振って川が増水すると、その道が水没してしまうそうだ。

濁流の中を数キロメートル程進むだけの体力と根性があるのならば渡れるかもしれないらしいが、先日崖から落ちて死にかけたばかりだというのに、ここに来てそんな命懸けの冒険はしたくない。

川は一度増水すると、水量が安定するまで三日ほどかかるそうだ。

つまり、あと二、三日はこの村に滞在しなければいけなくなってしまったという事になる。


軒先で貯めた雨水で朝食を作って食べる。

不潔だなどとは最早言うまい、ここではそれが当たり前なのだから。

ここでは毎日がサバイバルなのだ。


先日の夕食と代わり映えのない朝食が終わり、俺は川が大人しくなるまでここに泊めてもらいたいという話を、家長である玄氏にいつ切り出そうかとソワソワしていた。

玄氏はその風貌と無口な性格から、少し話しかけづらい印象を俺は持っていた。

さらにこの家は年頃の女性が二人もいる、俺の様などこの馬の骨とも分からない男が長期間寝泊まりするのは、玄氏にとっても面白くないのではないか。

そんな事を考えてしまうと、なかなか「引き続きここに置いてくれ」とは言い難かった。


「……畑の様子を見てくる」


朝食が終わってしばらくすると、玄氏はそう言って壁にかけてあったミノを手にとって背に羽織ると、そのまま外へと向かう。

どうしよう、後をついて行こうか……そんな事を考えていると、玄氏は外に出る前に一度だけ振り返り


「川が収まるまで泊まってけ」


そう一言だけ言うと、豪雨の中へと消えていった。

俺は玄氏を見た目だけでとっつきにくい人間だと考えていたことを恥じ、今日は玄氏が帰ってきたら色々な事を話そうと心に誓った。




その日の仕事は、雨水を集めて家の中にある瓶に溜め込む事だった。

雨が降ったばかりだと、川の水は濁ってしまって使えなくなるのだそうだ。

これを忘れると、ただでさえ不味い麦飯の中に砂利が混ざる事になる。

俺達は手分けして、雨樋のような場所にバケツを設置し、雨水が貯まったら瓶に移す作業を繰り返していた。

瓶自体を外に置けば良いと思うだろうが、この瓶、本体が非常に重い上に、水が大体30リットル程度入るので、外で満タンにすると重くて持てなくなってしまうのだ。

ポリタンクがあれば何の苦労もないのだが、無いものは仕方ない。


二時間ほど経ち、一通り瓶がいっぱいになった所で休憩する。

雨が降っているとは言え、真夏なのでかなり蒸し暑い。

居間の隅に座って汗を拭っていると、菊が手拭いと水を持ってきてくれた。


「どうぞ」


「お、ありがとう……早苗さんはどこに?」


「お姉ちゃんは別のお仕事……菊といるのは嫌?」


「そんな事ないよ、菊ちゃんの声は綺麗だから大好きさ……ああでも、寝起きに脅かすのは勘弁な」


俺がそう言うと、菊は少し笑って俺の隣に座った。

二人揃って汗を拭い、水を飲む。

ふと隣を見ると、菊が胸元をパタパタしているのが見えた

中には……何も付けていなかった。


まずいものを見てしまったと直感した。

俺は謎の罪悪感に襲われ、目線を前に向けて菊と当たり障りの無い会話のネタを探すが、先程見た生々しいモノが脳裏から離れない。


「東京のお話聞かせて」


何も言葉を出せず硬直する俺に、菊は甘い声でそうねだる。

俺は言われるままに、早苗に話したような何の変哲もない東京での生活の話を聞かせた。

菊は時折興味深そうに……そして何かを探るように俺の顔を覗き見、そしてにこりと微笑んだ。




「修二さん、ぬるいけどお湯があるから……汗流してきたら?」


菊と話し始めてしばらくの後、菊は俺にそんな事を言った。

湯とは、つまり風呂の事だろう。この家には風呂があったのか。


「風呂? あるの?」


「あるよ、土間の奥の戸の先に……ちょっとぬるいと思うけど、夏だから大丈夫でしょ?」


俺はうんうんと大きく頷いて、勢い良く立ち上がった。

半ば諦めていたが、風呂があるなら有り難い。

昨日一日サバイバルした後にそのまま寝て、今日の労働だ、さすがに体中がベタベタで不快指数が跳ね上がっていたところだ。

家の人間は皆汚れており、風呂になど入っている様子は無かったので、もしかしたらたまに川で行水する程度なのではないかと考えていたのだが、そんな事は無かったのだ。


「じゃあ早速いただくよ、服は……」


「風呂場の手前に服を脱いでおくところがあるよ」


「ありがとう、じゃあ行ってくるね」


渡された手拭いを持って言われた通り、土間の奥にある扉の方へと進む。

中に入る際にちらりと菊の方を振り返ると、菊は表情のない笑顔をこちらに向けていた。

先程の俺の態度で勘付かれただろうか……俺の心は得体の知れない不安に鷲掴みにされていた。


……俺は見てしまったのだ。

菊の白い肌、そして膨らみかけた胸の脇を、避けるように通る数本の赤い筋。

あれは恐らく……縄で縛られた痕だ。


とにかく一度、菊の前から離れたかった俺は、何の確認もせずに立て付けの悪い木製のドアを開いた。

その先は二畳程度の狭い空間で、地面にはスノコのようなものが敷いてあり、衣服を置くのであろう、簡単な棚と、タオルを掛けておくために使う紐が見えた。

そして何より、大きな肌色の物体……


「え……ええ!? や、きゃああああ!」


「は? え?」


対面した最初の台詞は何とも面白みのない物だった。

片や叫ぶ、片や混乱する。

しかしそれも束の間、一瞬で状況を理解した俺は急いで脱衣所を飛び出し、土間に戻って戸を閉めた。

ラッキーなどと思う暇など無い、遭遇戦では常に迅速かつ冷静な判断が要求されるものなのだ。


「ご、ごめん! 菊ちゃんに風呂に入ってこいって言われて……」


そしてありのままを簡潔に説明する。

他人のせいにするなんて男らしくない、などと考えてはいけない。

ここで下手な弁解を行って嘘など付こうものなら、後々冷静になってから事の推移を検証した際に、嘘が発覚した時点で俺の証言は全て否定される事になるのだ。

判断に時間をかけることが出来ない非常時には“ありのままそのままを伝える”これに限るのである。


「……え、菊が? こらー菊! わざとやってるでしょ!」


ドアの向こうから可愛く憤慨する早苗の声が聞こえる。

危機は去った、俺が覗き魔の汚名を被る事態は回避されたのだ。


振り返ると、菊はこちらを指差しながらケラケラと笑っていた。




「もう、信じられない! 私がいるの知ってて修二さんをけしかけるなんて」


「仕返しだもん」


「……仕返しって?」


「私も見られたから仕返し……ね、修二さん?」


「ア、ハイ」


今俺は、二人の少女に挟まれながら、二人のささやかな姉妹喧嘩を見守っている。

時たま菊から飛んで来る流れ弾が痛い。

……どうしてこうなった。


菊は先程までの冷たい感じはなく、今は年相応に笑いながら早苗と話している。

先程のあの感じは何だったのだろう……そしてあのアザは……

虐待? 玄氏から虐待を受けている? そんな人には見えなかったが。


もう一度菊の方を見ると、菊もこちらを見て目が合った。

すると菊はふっと笑みを浮かべ、服に指をかけて小さく胸元を露わにする。

その行動に思わず目を凝らし、そしてすぐに目を逸らすのだが、やはり胸元にはアザのようなものが確認できた。

一体どういうつもりなのか。

もしかしてSOS? 俺に助けを求めているのか?


どこかでしっかりと話を聞かなくてはいけないかもしれない。

今ここには俺と早苗しかいないが、それでも大っぴらに言えないという事は、早苗にも知られたくないという事なのだろう。


「菊ちゃん、ちょっと後で……」


「え、うん?」


俺は菊に耳打ちし、菊が曖昧な返事を返す。

それを見た早苗が何を話しているのかと詰め寄り、俺が宥める。

深刻な状況かもしれないのに、なんだか楽しい。

そんな事を考えていた時だった。




「玄氏おるか!」


突然、家の玄関の扉が乱暴に開けられ、ミノを羽織った二人の男が無遠慮に入ってくる。

見たことのない人物だ。


「行蔵さん? お父さんは今外に……」


菊とじゃれ合っていた早苗が一転して緊張した面持ちになり、行蔵と呼んだ男の方に歩み寄る。

背が高く、恰幅の良い五〇歳程度に見える男だ。


「早苗貴様! 男なんぞ連れ込みよって、何のつもりだ!」


行蔵は何の躊躇いもなく腕を振り上げ、早苗の頬を張り飛ばした。

早苗は悲鳴を上げて土間に倒れ伏す。

また暴力……しかも相手の言い分も何も聞かずに一方的に。

昨日見た次郎という男が振るう理不尽な暴力を思い出し、俺は立ち上がって行蔵を睨みつけた。

隙あらば飛びかかろうと考えていたのだが、それは行蔵の隣にいた男が取り出した鉄の棒によって阻まれる。


「おい小僧、動くんじゃねえぞ」


そのひょろ長く、無精髭を生やした丸坊主の男はドスの利いた声で俺を牽制する。

俺はそこから一歩も動くことが出来なかった。

何故なら俺に突きつけらた鉄の棒に見えたものは……猟銃だったからだ。


「おう定雄、やっちまえ」


「いやあ、こいつが誰なのか分からんうちはまだ早いですぜ、どうせ今は逃げられねえし」


「なら少し遊んでやれ」


二人の男はそんなやり取りを行うと、定雄と呼ばれた男が俺の頭を銃で殴り飛ばす。

いきなりの事だったのでろくな防御も取れず、鉄の銃身が俺のこめかみにヒットした。

先日殴られた時の衝撃など比べ物にならない衝撃が俺を襲う、目の前が一瞬で暗くなった後、全身に衝撃を受けた。

自分が倒れたのだと認識したのは次に意識が回復した時だった。


「おう、おめえ何者だ、何の用でここに来たんだ?」


何か質問をされているが、頭が混乱している上に、激しい痛みで思考がまとまらない。

早苗が叫んでいる声が遠くなったり近くなったりしながら聴こえてくる。


「何とか言えや! どこでこの村の事を知った!?」


頭に再び衝撃が走る、踏まれたのだろうか。

既に頭が割れるような痛みが続いているので、何をされているのか良く分からない。

こんな状態にしておいて質問とか、頭おかしいんじゃないかこいつらは。


……いや、狂ってる、間違いなくこいつらは狂人だ。

昨日のうちに村を去っておけば良かった……五キロメートルくらいなら全力で走れば暗くなる前に森見村まで走れたはずだ。

そうは思っても今更後の祭り。

俺の運命は今、この話が通じない狂人共に委ねられている。


早苗が必死に俺を庇っている声が聴こえる。

早苗は大丈夫なのだろうか、この先、こんな人間がいる村でずっと……生きて行くのだろうか。

次第に朦朧としていく中、最後に体に何かが覆いかぶさる感覚を感じた所で、俺の意識は闇に飲まれた。



――――



……深い闇の中にいる。

周りは真っ暗で、所々微妙に光る何かが、俺の周囲だけをぼうっと照らしていた。


誰かが下を見ろと言う。

言われた通りに下を見る。

そこには真っ暗な空間が広がっており、所々オレンジ色に光っている部分がある……不思議な光景が映っていた。


近くにいた誰かが「これを使え」と言って俺に何かを手渡す。

それは昔よく遊んだゲームのコントローラーによく似ていた。

よく分からないままにコントローラーに付いていたボタンを押すと、眼下に広がる暗い空間に、オレンジ色の光が弾ける。

コントローラーを操作する事で、オレンジ色の光が出る場所も操作できるらしい。

俺はなんだか楽しくなって、オレンジ色の光で様々な形を描き、遊んでいた。

そういえば、昔はこういうゲームを夢中になってやっていたな……

そんな事を考えながら、俺は目に見える範囲全てをオレンジ色で埋め尽くした。


やることが無くなり、おれはコントローラーを放り投げる。

眼下ではオレンジの光が大きくなったり小さくなったりしながら、元は闇だった部分を照らしあげていた。


そこにあったのは町だ。

俺の眼下には、燃え盛る町が広がっていた。

オレンジ色の光は、炎の色だったのだ。

しかし俺はその光景にさしたる感情も湧かず、ゲームの中に入る煩わしいイベントシーンを見るかようにただ、眺めていた。



――――



頬に冷たさを感じる。

ジンジンと痺れるような感覚が、やがて痛みへと変わっていった。

目をゆっくりと開け、目の動きだけで周囲を確認する。

体は小さく身動ぎしただけであちこちに軋むような痛みが走ったため、とりあえず体を動かすのは保留する。


暗い家の中にぼうっと光る行灯と、俺の頭の側に座った早苗が見えた。


「あ……修二さん!」


早苗は俺の頭を濡れた手拭いで拭いてくれていたようだ。

どこかに傷でもあるのだろうか、濡れた手拭いが当たると鈍い痛みが走る。


「……ちょっと痛い」


「ご、ごめんなさい!」


俺は早苗に手を伸ばし、力を借りて上半身を起こした。

痛みはあるが動けない程ではない。

周囲を見ると、いつもの囲炉裏のある居間ではなく、二畳程度の狭い部屋に寝かされていたようだ。

行灯に火が入っているという事は、夜だろうか。

思わず天井を見上げたが、そこには暗い闇を纏った藁葺き屋根があるだけだった。


「あれから……どうなったんだ?」


「お父さんが帰ってきて止めてくれて……今は行蔵さんの家で話し合ってます」


こうなる以前に何が起きたのかは覚えている。

俺は突然家に入ってきた行蔵と呼ばれた厳つい男と、定雄と呼ばれていた猟銃を持った男に暴行されたのだ。

死んでもおかしくない程に強烈な暴力だった。

しかも、ぼんやりとしか覚えていないが、あの時交わされていた会話では俺を積極的に殺そうとする内容があったように思う。


この村はおかしい。


俺の中に燻っていた違和感が、次第に不安と恐怖を形成していく。

現代の日本社会において、猟銃を持ち出して人に向けるなど、およそ正常な人間の行動とは言い難かった。

しかも理由が全く分からない。

行蔵と定雄という男はどちらも初対面だ。

暴行された時の口ぶりから、俺が余所者だからと何かを疑っていたように聞こえたが、そもそも話し合いにすらなっていないので俺には相手の疑問が何なのかすら分からない。

全くもって理不尽極まりない状況だ。


そして俺は考える。

もし、この村で俺が殺されたとしても、このままだと誰もその事実に気が付かないのではないか。

家族には大まかなルートは伝えてあるが、まさかこんな山奥で立ち往生しているとは思わないはずだ。

荷物も無くなってしまって、スマホもどこにあるか分からない。

GPS機能は付いているが、仮に故障していないとしても、二日も充電せずに放っておけばバッテリーは切れてしまうだろう。

俺の一人旅はいつもの事なので、家族も二、三日連絡が無い程度では心配もしない。

いよいよおかしいとなって警察沙汰になる頃には、俺の居場所を示す手がかりは何もない……


不安は恐怖を呼び、恐怖は不安を加速させる。

今時珍しい、自給自足の村というだけのものだったこの名良村が、今では恐ろしい魔境のように感じていた。


「……帰る」


「え、修二さん?」


隣で心配そうにこちらを見守る早苗を無視し、俺は立ち上がって自身の体を確認した。

殴られたと思われる側頭部が痛み、少々ふらつくが歩けない訳ではない。

枕元に畳んであったバイクジャケットを手に取り羽織ると、俺は行灯の光を頼りに襖を開け、寝室を出た。


「修二さんどこに? もう夜です」


後ろから早苗の声が聞こえるが、そんなものにかまっている暇はない。

一刻も早くこの村から逃げなければ……俺の頭はそれで一杯だった。


家のドアをそろりと開けると、早苗の言った通り外は夜だった。

しかし降っていたはずの雨は止んでおり、空には月が登っている。

俺は何度か家の周りを確認し、誰も外にいない事を確かめると、そのまま昨日水を汲みに行った川の方に進んだ。

昨日聞いた話では、川を下って行けば森見村にたどり着けるはずだ。




……しかし、それは叶わぬ願いだった。


早苗の家から歩いて5分程度の場所にあった川は、雨の影響で増水し、大量の濁った水が轟々と音を立てて流れていたのだ。

昨日は一〇メートル程度しか無かった川幅が、今では五〇メートル程に広がっている。

先日水を汲んでいた場所は既に水の中だ。

水を避けて進もうにも、川辺りでは鬱蒼と生い茂った草木が行く手を遮っており、夜ということもあって、森に入ってしまえば数メートル先すら見えない。

大雨が降った後ということもあり、足元はかなりぬかるんでいる、この中を何の装備も持たずに進むのは自殺行為と言えた。


「修二さん」


突然背後から聞こえた声に、心臓が飛び出しそうになる。

無意識に体勢を低くしながら慌てて振り向くと、そこには早苗が立っていた。

恐らく家を飛び出した俺を追って来たのだろう。


「修二さん、戻りましょう。今は川が増水していて危険です」


「あそこにいたほうがもっと危険だろ!」


俺は胸の不安をぶちまけるように早苗に怒鳴り返す。

村から逃げることも出来ず、かといってあの恐ろしい人間がいる村にも戻りたくない。

完全に進退窮まった俺は途方に暮れ、この村の中では最も心を許していた早苗に当たり散らすことでしか、自身を支えておくことができなくなっていた。


どこか体を隠せる木陰で夜を明かし、明るくなったら森を突っ切ろう。

明かりさえあれば、川を見失わないように山の中を移動する事もできるはずだ。

そう考えた俺は、暗い山の中へと足を踏み入れようと、一歩踏み出す。

……しかしそれ以上進むことは出来なかった。

早苗が俺の体に腕を回し、進ませまいと抱きついてきたのだ。


「駄目です、山は危険です、危険なんです」


「離してくれ、訳も分からず暴力を振るわれるようなところよりマシだ」


「違うんです、誤解が……誤解があったんです、今、お父さんが話し合ってるから……」


「誤解って何だ? どんな誤解があったら初対面の人間を猟銃で脅すんだよ?」


「それは……でも、だめなんです、森はダメ……死んじゃいます」


必死に引き留めようとはするが、歯切れの悪い早苗の言葉に、俺はどうしても早苗を完全に信頼する事が出来ず、強引に森の中に入ろうとした。


「だめっ!」


早苗が俺の前に回り、まるで抱きしめるように俺の体に腕を回す。

ここまで必死になる理由は何なんだと早苗を見ると、早苗の目からは大粒の涙が溢れていた。

そのまま数秒見つめ合い。

そして、俺は何の断りもなく早苗の唇を奪った。

早苗は一瞬、ビクリと体を震えさせたが、そこからは特に抵抗することもなく、俺のされるがままに……途中からは早苗からも俺を求めるように舌を動かす。


そうして俺は、恐怖を紛らわすかのように早苗を求め続けた。


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