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幼馴染がクズな彼氏に裏切られた。……「もう遅い」はずの僕たちの、不器用なやり直し  作者: novelnovel


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第3話 崩壊の足音

スマートフォンが短く振動し、画面に通知のポップアップが表示された。

時刻は金曜日の午後十時。自室のベッドに寝転がりながら、ぼんやりとファッション雑誌をめくっていた星野葵は、画面に表示された『拓海』という名前に、小さく胸を弾ませた。

ここ最近、拓海からの連絡は目に見えて減っていた。部活が忙しい、怪我の治療に専念したい。そんな理由でデートを断られることが増え、葵の心にはじわじわと不安が広がっていた。それでも、彼の重荷になりたくなくて、「わかった、無理しないでね」と物分かりの良い彼女を演じ続けてきた。


だからこそ、久しぶりの彼からの自発的なメッセージが嬉しかったのだ。

きっと、「明日は会えるよ」とか、「最近冷たくしてごめん」とか、そういう優しい言葉が並んでいるに違いない。

葵は微笑みながら、スマートフォンの画面をタップし、MINEのトーク画面を開いた。


しかし、そこに表示されたメッセージの文字列を見た瞬間、葵の思考は完全に停止した。


『結衣、昨日はごめん。俺がイライラして八つ当たりした。葵のことは適当に誤魔化しておくから、また来週会えないかな。あのホテルのレストラン、予約しとくから』


……結衣?

葵の目は、その二文字に釘付けになったまま動かなくなった。

結衣。松下結衣。高校時代からの、一番の親友。

昨日はごめん。葵のことは適当に誤魔化す。来週会えないか。ホテルのレストラン。

一つ一つの単語は理解できるのに、それらが繋がって構成される文章の意味が、まったく頭に入ってこない。いや、脳が理解することを強烈に拒絶していた。


「え……なに、これ」


かすれた声が、自分の口から漏れた。

冗談? 誰かのイタズラ? それとも、拓海のアカウントが乗っ取られた?

震える指で画面をスクロールしようとした瞬間、トーク画面に次々と新しいメッセージが飛び込んできた。


『やば、今のなし!』

『違うんだ葵、誤解だ!』

『説明させてくれ、頼む!』


誤解。説明させてくれ。

その必死な言葉が、最初のメッセージが紛れもない拓海本人の手によるものであり、そして、致命的な「誤爆」であることを何よりも雄弁に証明していた。


心臓が、バクバクと狂ったような音を立て始めた。

全身の血がサッと引いていき、指先が氷のように冷たくなる。

拓海が、結衣と?

そんな、そんなことがあるはずがない。結衣は今日の昼間だって、『拓海くんと最近どう? なかなか会えてないみたいだけど、悩みあったら聞くよー!』と、優しいメッセージをくれていたばかりだ。

ずっと、私の相談に乗ってくれていた。私を励ましてくれていた。

それなのに、裏で拓海と会っていた? ホテルに行っていた? 葵のことを適当に誤魔化すと言い合っていた?


ブー、ブー、ブー。

スマートフォンが、けたたましいバイブレーションと共に着信を知らせ始めた。画面には『拓海』の文字。

出なければいけない。問い詰めなければいけない。

そう思うのに、葵の指はピクリとも動かなかった。


吐き気がした。

今まで信じていた世界が、足元から音を立てて崩れ落ちていく感覚。

拓海の優しい笑顔も、結衣の親身な言葉も、すべてが嘘だったのだ。彼らは私の見えないところで嘲笑い、私をピエロにして楽しんでいたのだ。


『他人に嫌われたくない』

その一心で、葵は生きてきた。空気を読み、相手が望む自分を演じ、常に愛される存在であろうと必死に努力してきた。拓海にふさわしい彼女になろうと、自分の趣味や好みすら押し殺してきた。

その結果が、これだ。

一番愛してほしかった人に裏切られ、一番信じていた親友に背中から刺された。


着信が切れ、再びMINEの通知が鳴り続ける。

葵は、その無慈悲な通知音から逃れるように、スマートフォンの電源ボタンを長押しした。

画面が真っ暗になり、部屋に静寂が戻る。

しかし、頭の中では「葵のことは適当に誤魔化す」という残酷な言葉が、呪いのように何度も何度も木霊していた。


「あ、ああ……」


葵は両膝を抱え込み、ベッドの上にうずくまった。

涙すら出なかった。ただ、絶望と、得体の知れない恐怖が全身を支配していた。

誰も信じられない。外に出たくない。誰の顔も見たくない。

深い海の底に沈んでいくように、葵は暗い部屋の中で息を潜め、ただ時間が過ぎるのだけを待った。


***


「……終わった」


薄暗い部室棟の裏で、一ノ瀬拓海は力なく壁に背を預けた。

手の中にあるスマートフォンには、葵とのトーク画面が開かれている。何度電話をかけても『電源が入っていないか、電波の届かない場所に……』という無機質なアナウンスが流れるだけだった。


やらかした。取り返しのつかないことをしてしまった。

結衣に送るはずだったメッセージを、葵とのトーク画面を開いたまま打ち込み、何の疑問も持たずに送信ボタンを押してしまった。

数秒後、既読がついた瞬間に自分の過ちに気づき、心臓が口から飛び出そうになった。慌てて送信取り消しをしようとしたが、指が震えてうまく操作できず、その間に葵はすべてを読んでしまった。


「くそっ、くそっ……!!」


拓海は自らの頭を両手で激しく掻き毟り、コンクリートの壁に拳を叩きつけた。

鈍い痛みよりも、胸の奥を焼き尽くすような後悔の方が遥かに強かった。


葵を愛していなかったわけではない。むしろ、彼女は自分にとって理想の彼女だった。

明るくて、優しくて、いつも自分のことを気遣ってくれる。周囲からも羨ましがられる自慢の恋人だ。

だが、その「完璧な関係」が、スランプに陥った拓海には息苦しくなっていた。

怪我が治らない焦り。監督からのプレッシャー。後輩たちの台頭。

そんな泥沼のような現状を、純粋な目で見つめてくる葵には言えなかった。彼女を失望させたくなかったし、かっこ悪い自分を見せたくなかったのだ。


そんな時に、結衣が手を差し伸べてきた。

『無理しなくていいんだよ。私でよかったら、何でも聞くから』

その言葉に、拓海は甘えてしまった。結衣の前では、情けない愚痴も、汚い感情も、すべてを吐き出すことができた。葵に対する罪悪感はあったが、結衣との関係はあくまで「逃げ場」であり、本命は葵だと自分に言い訳をしていた。


しかし、その浅はかな逃避が、最悪の形で露見してしまった。

葵に結衣との関係がバレた。しかも、「適当に誤魔化す」なんていう、葵を一番傷つける最低の言葉と共に。


もう一度、電話をかける。しかし、やはり繋がらない。

当たり前だ。あんなものを見せられて、冷静に電話に出られるわけがない。

葵が今、どれほど傷つき、泣いているか。それを想像するだけで、拓海は自分の愚かさに殺されたくなった。


「俺は、なんてバカなことを……」


プライドも何もかも投げ捨てて、今すぐ葵の部屋に行き、土下座して謝りたい。

しかし、足がすくんで動けなかった。彼女の拒絶の目を真正面から受け止める覚悟が、今の拓海にはなかった。

ただ、画面の向こうで閉ざされてしまった扉の前で、拓海は絶望的な焦燥感に焼かれ続けることしかできなかった。


***


週明けの火曜日。

吉野亮太は、大学の講義を全く聞いていなかった。

週末の間中、ずっとスマートフォンを握りしめ、SNSを監視し続けていたせいで、目の下には濃い隈ができている。

金曜日の夜を境に、拓海も結衣も、SNSの更新を完全にストップしていた。葵のアカウントに至っては、アイコンすら初期設定の画像に戻ってしまっている。

何かが起きた。それは間違いない。


昼休みになり、食堂へと向かう途中の渡り廊下で、亮太は友人である木村に呼び止められた。


「おい吉野、聞いたか? あの噂、マジだったみたいだぜ」


木村は興奮した様子で、周囲をキョロキョロと見回しながら声を潜めた。


「一ノ瀬と星野さん、修羅場になったらしい。一ノ瀬の浮気が星野さんにモロバレして、星野さん、今日で三日連続大学休んでるってよ」


亮太の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


「……バレたって、誰に聞いたんだよ」

「サッカー部の奴らが噂してたんだよ。一ノ瀬、週末からずっと上の空で、部活にも出てないらしい。俺の言った通りだろ? やっぱりあいつ、クズだったんだよ」


得意げに笑う木村の顔を、亮太は殴りつけたい衝動に駆られた。しかし、それ以上に、葵が大学を休んでいるという事実が、亮太の心を激しく揺さぶっていた。


あの葵が、大学を休む?

彼女はどれだけ熱があっても、「休んだらノート貸してって言えなくなっちゃう」と笑って学校に行くような人間だった。周囲から取り残されることを誰よりも恐れていた彼女が、三日も部屋に引きこもっている。

それはつまり、彼女の心が限界を超えて壊れてしまっていることを意味していた。


亮太は木村を無視して走り出した。

向かう先は、講義室ではない。

キャンパスを抜け、大学の最寄り駅へと向かう道を全速力で駆け抜ける。


『これで、拓海のメッキは完全に剥がれた』

数日前、結衣のSNSを見た時に浮かんだあの醜い感情は、今はもう微塵もなかった。

あるのはただ、葵に対する強烈な心配と、そして、何もできなかった自分への激しい怒りだけだ。

なぜ、俺はあの時、葵に連絡しなかったのか。

なぜ、浮気の証拠を掴んだ時に、葵に伝えなかったのか。

自分が傷つくのを恐れて、安全な場所から事態を静観していた俺も、葵を裏切った拓海や結衣と同罪だ。


息を切らし、肺が焼けるように痛む。

それでも、亮太の足は止まらなかった。

葵のアパートは、俺が住んでいるアパートのすぐ隣だ。大学に入学して一人暮らしを始める時、互いの両親が心配して同じ物件の隣同士の部屋を契約したのだ。

最近は顔を合わせるのが気まずくて、わざと家を出る時間をずらしたりしていたが、今となってはそんな距離感などどうでもよかった。


アパートの階段を駆け上がり、葵の部屋である202号室の前に立つ。

息を整える間もなく、亮太はインターホンのボタンを力強く押した。


ピンポーン、と無機質な電子音が響く。

しかし、部屋の中からは何の反応もない。人の気配すら感じられないほど、静まり返っている。

亮太はもう一度ボタンを押した。それでも、反応はない。


「葵、いるんだろ。亮太だ」


ドアに顔を近づけ、声をかける。返事はない。

不在だろうか。いや、こんな状態で外に出るとは思えない。居留守を使っているのだ。


「開けてくれ、葵。頼む」


ドアノブをガチャガチャと回すが、当然鍵はかかっている。

亮太はドアに額を押し当て、絞り出すような声で言った。


「大学、休んでるって聞いた。何があったか、全部とは言わないけど、大体は分かってる」


部屋の中から、わずかに衣擦れのような音が聞こえた気がした。


「……ごめん。俺、お前のこと避けてた。お前が拓海と付き合って、俺の手の届かないところに行っちゃった気がして、勝手に拗ねてたんだ。お前が一人で悩んでるって分かってたのに、逃げた。本当に、ごめんなさい」


静寂が続く。亮太はドア越しに、必死に言葉を紡ぎ続けた。


「お前が今、誰のことも信じられないのは分かる。俺のことも、信じられなくて当然だ。でも、これだけは言わせてくれ」


亮太は大きく息を吸い込んだ。


「俺は、絶対に葵を見捨てない。お前が泣いてるのに、俺が知らん顔できるわけないだろ。昔からずっと、俺はお前の隣にいたんだ。こんな時だけ逃げるなんて、絶対にしない」


それは、亮太自身への誓いでもあった。

劣等感も、諦めも、すべて捨てる。葵が傷ついているなら、盾になろう。彼女が歩けないなら、背負って歩こう。


「だから、開けてくれ。葵」


長い、永遠とも思えるような沈黙が流れた。

やっぱりダメか。強引すぎたか。

亮太が諦めかけ、ゆっくりとドアから離れようとしたその時だった。


カチャリ、と。

内側から鍵の開く音がした。続いて、金属製のチェーンが外される重い音。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、ドアが数センチだけ開いた。


薄暗い部屋の奥から、冷たい空気が流れ出してくる。

ドアの隙間から見えたのは、俺が知っている「星野葵」とはまるで別人のような姿だった。

手入れされていたはずの髪はボサボサに乱れ、血の気を失った真っ白な顔には、赤く腫れ上がった虚ろな瞳が二つ、ただこちらを凝視していた。

何日もまともに食べていないのだろう、頬はこけ、着の身着のままのパーカーはだらしなくシワが寄っている。


その痛々しい姿を見た瞬間、亮太の胸の奥で、何かが激しく弾けた。


怒りでも、悲しみでもない。

ただ、目の前の小さな命を、何としてでも守り抜かなければならないという、本能的な庇護欲。

俺が守る。俺が、この壊れてしまった彼女を、もう一度笑えるようにする。


「……亮太」


ひび割れた、消え入りそうな声で、葵が俺の名前を呼んだ。


「入っていいか?」


亮太は静かにそう問いかけ、葵がわずかに首を縦に振ったのを確認すると、ゆっくりとドアを開け、暗い部屋の中へと足を踏み入れた。

崩壊の足音は止まり、底なしの暗闇の中で、二人の時間だけが静かに動き始めようとしていた。

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