第2話 画面の向こうの足音
昨夜、葵からの返信を待ち続けたせいで、俺の頭は鉛のように重かった。結局、彼女の既読がつかないまま朝を迎え、ほとんど眠れないまま大学の講義に出席している。
大教室の真ん中あたりの席に座り、教授の単調な声が子守唄のように響く中、俺の視線は手元のスマートフォンから離れなかった。ノートを取るふりをして、机の下でSNSの画面をスクロールし続けている。
木村が言っていた、一ノ瀬拓海の浮気疑惑。
そして、昨夜の葵からの「会いたかったな」という、ひどく弱々しいメッセージ。
二つの事象が頭の中で絡み合い、嫌な予感となって俺の胸を締め付けている。ただの噂だと切り捨てるには、葵の様子がおかしすぎた。もし本当に拓海が裏切っているのだとしたら、その相手は一体誰なのか。
俺は無意識のうちに、検索窓に拓海のアカウント名を入力し、彼の『Twotter』や『アウスタ』のページを巡回していた。
拓海のアウスタは、典型的なスポーツマンのリア充アカウントだった。サッカー部の仲間との集合写真、遠征先の風景、そして、たまにアップされる葵とのツーショット。表向きは、順風満帆な大学生活を謳歌しているように見える。
しかし、よく見ると違和感があった。ここ一ヶ月ほど、葵に関する投稿がぱったりと止まっているのだ。代わりに増えているのは、怪我の治療に関するネガティブな呟きや、「疲れた」「すべて放り出したい」といった、彼らしくない弱音を吐くようなストーリー投稿だった。
拓海が怪我でスランプに陥っているというのは、どうやら本当らしい。だが、それと浮気はどう結びつくのか。
俺は次に、葵のアカウントを開いた。彼女のアウスタもまた、一ヶ月前から更新が止まっていた。最後の投稿は、拓海とお揃いで買ったというペアグラスの写真。「これからもよろしくね」という健気なキャプションが、今の状況を思うと痛々しく感じられた。
二人のアカウントからは、これ以上の情報は得られそうになかった。
俺は小さく舌打ちをして、画面を閉じようとした。その時、葵のフォロワー欄の最上部に表示された一つのアイコンが目に留まった。
松下結衣。
葵の高校時代からの親友であり、俺も何度か顔を合わせたことのある女子大生だ。
結衣は、一見するとクールで大人びた印象の女の子だった。ショートボブの髪に、派手すぎない落ち着いたメイク。いつも明るく周囲の中心にいる葵とは対照的に、一歩引いて葵を引き立てるような立ち位置にいることが多かった。
俺の知る結衣は、葵のことを誰よりも理解し、大切にしている親友のはずだった。
しかし、何気なく結衣のアカウントをタップした俺は、そこに広がる違和感に思わず息を呑んだ。
結衣のアウスタは、頻繁に更新されていた。そして、その内容が、以前の彼女のイメージとはかけ離れていたのだ。
おしゃれなカフェのスイーツ、夜景の見えるバーでのカクテル、高級そうなホテルでのディナー。
女子大生が一人で行くには少し敷居が高いような場所の写真ばかりが並んでいる。そして、その写真の数々には、ある共通点があった。
「誰かと一緒にいる」ことは明白なのに、その相手の顔は決して写っていないのだ。
『最近お気に入りの場所。話聞いてくれてありがとう』
『夜中のドライブ。やっぱり落ち着く』
『内緒のプレゼント、嬉しかったな』
意味深なキャプションの数々。いわゆる「匂わせ」というやつだ。
俺の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。まさか、そんなはずはない。結衣は葵の親友だ。いくらなんでも、そんなドラマみたいな裏切りがあるはずがない。
そう思いながらも、俺の指は結衣の投稿を一つ一つ、穴が開くほど見つめ、過去へと遡っていった。
***
「……ねえ、結衣。聞いてる?」
おしゃれな間接照明が店内を照らす、隠れ家のようなイタリアンバル。向かいの席に座る拓海の声に、私はスマートフォンから顔を上げた。
「ごめん、ちょっとアウスタ更新してただけ。で、何だっけ? 監督の話?」
「そう。この間の練習試合、俺外されてさ。足の怪我はもうほとんどいいのに、全然信用されてないんだよ。あいつら、俺がいない方がチームが回るとか思ってんじゃねえかな」
拓海は不満げにグラスの氷をカラカラと鳴らし、一気に酒をあおった。
普段、大学では爽やかなエースを演じている彼の、こんなに腐った顔を知っているのは、おそらく私だけだろう。もちろん、彼女である葵でさえも。
「そんなことないよ。拓海くんがエースなのは間違いないんだし、今は焦る時期じゃないって。監督も、大事を取ってるだけだよ」
私は優しい声でそう相槌を打ちながら、テーブルの下で自分の指先を弄った。
拓海とこういう関係になってから、もう一ヶ月が経つ。
きっかけは、拓海から突然来た相談のメッセージだった。「葵が最近重くてさ。結衣ちゃん、ちょっと話聞いてくれない?」という、軽いノリの誘い。
葵は、私が高校時代からずっと一緒にいる親友だ。明るくて、可愛くて、誰からも愛される太陽のような女の子。私はいつも、そんな彼女の隣で「葵の友達の結衣ちゃん」というレッテルを貼られて生きてきた。
葵のことは好きだ。でも、同時に強烈なコンプレックスを抱いていたのも事実だった。私がどれだけ努力しても手に入らないものを、葵は生まれた時から当たり前のように持っている。
だから、拓海から呼び出された時、私はほんの少しの好奇心と、暗い優越感を抱いてしまったのだ。
あの完璧な葵の彼氏が、私を頼ってきている。
葵の前では見せない弱さを、私にだけさらけ出している。
その事実が、私の心の奥底にあるドロドロとした感情を満たしていった。最初はただ愚痴を聞くだけのつもりだった。でも、アルコールが入り、自暴自棄になった拓海に唇を奪われた時、私は彼を拒まなかった。
むしろ、心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれない。
「葵には、こういう話できないんだよね」
拓海が、ぽつりとこぼした。
「あいつ、俺のこと完璧だと思ってるからさ。弱音吐いたら引かれそうで怖いんだ。お前みたいに、ダメな俺を笑って許してくれる奴の方が、今は楽だわ」
「……ふふ、何それ。私って都合のいい女みたい」
「そんなこと言ってねえよ。結衣は、俺の恩人だよ」
拓海がテーブル越しに私の手を握る。彼の大きな手は温かかったが、私の心はどこか冷めきっていた。
罪悪感がないわけではない。葵がこれを知ったら、どれほど傷つくか想像もつく。でも、それ以上に、私は今、強烈なスリルと快感に酔いしれていた。
私が、葵に勝った。葵の一番大切なものを、私が奪い取ったのだ。
この歪んだ優越感は、一度味わってしまうと麻薬のように私を蝕んでいった。
「あ、ちょっと待って。このパスタ、すごく美味しそうだから写真撮っていい?」
私は拓海の手をそっと離し、スマートフォンのカメラを向けた。
画面のフレーム内に、美味しそうなペスカトーレを収める。そして、わざと、本当にわざとらしく、向かいに座る拓海の腕が少しだけ見切れるようにアングルを調整した。
彼の腕には、シルバーの重厚なダイバーズウォッチが光っている。それは、先月の拓海の誕生日に、葵がアルバイト代を貯めてプレゼントしたものだ。
私はそれを知っている。葵から「拓海くん、これ喜んでくれるかな?」と相談された時に、一緒に選んだのだから。
カシャ、と静かなシャッター音が鳴る。
「またアウスタ? お前、俺といることバレたらヤバいって分かってんだろ?」
「大丈夫だよ。誰だか分からないようにしてるもん。それに、葵は最近SNS見てないみたいだし」
私は微笑みながら、撮ったばかりの写真をストーリーにアップした。
キャプションには一言だけ、『いつもの人と、いつもの場所で』と添えて。
誰かに気づいてほしいわけじゃない。でも、私だけが知っているこの秘密を、世界に向けてほんの少しだけ自慢したかった。
この写真の向こう側にいるのが、葵の彼氏だということを。
私はスマートフォンの画面を裏返しにしてテーブルに置き、再び拓海に向けて甘い笑顔を作った。
***
講義の終了を告げるチャイムが鳴り響いても、俺は席から立ち上がることができなかった。
周囲の学生たちが帰り支度を始め、ざわめきが教室を包み込む中、俺の全身からは冷や汗が噴き出していた。スマートフォンの画面を見つめる俺の目は、完全に血走っていたと思う。
結衣のアカウントを隅から隅まで調べ上げた結果、俺は一つの決定的な確信に辿り着いていた。
結衣の「匂わせ」投稿の数々に散りばめられた証拠は、どう言い逃れしても、相手が拓海であることを示していた。
まず、決定打となったのは、結衣が数日前にアップしたストーリーのアーカイブだった。
イタリアンバルらしき場所で撮られたパスタの写真。その右端に、不自然に見切れている男の左腕。
その腕に巻かれている時計に見覚えがあった。ごついデザインのダイバーズウォッチ。
間違いない。葵が拓海の誕生日にプレゼントしたものだ。葵はそれを買うために、何ヶ月も前からファミレスのバイトのシフトを増やして必死に働いていた。俺は、葵が嬉しそうにその時計のパンフレットを見せてきた時の顔を、今でもはっきりと覚えている。
偶然、同じ時計をしている別の男である可能性も考えた。
しかし、俺は執念深く過去の投稿と、拓海のSNS、そして大学のスケジュールを照らし合わせていった。
一ヶ月前、拓海がTwotterで「今日は部活の全体ミーティングで遅くなる」と呟いていた日。葵は「拓海くん忙しいみたいで寂しい」とアウスタにこぼしていた。
その全く同じ日の夜、結衣はアウスタに『急遽呼び出された〜。悩み相談乗ってきまーす』という文章と共に、車の助手席から撮った夜景の写真をアップしている。
その車のダッシュボードに置かれている芳香剤の形。それは、拓海が乗っているSUVのものと完全に一致していた。
さらに、二週間前の結衣の投稿。
『最近、怪我の愚痴ばっかりで心配。早く治るといいね』という文章。
これも、拓海がスタメン落ちして荒れていた時期とぴたりと重なる。
点と点が線で繋がり、一つの残酷な真実を浮き彫りにしていた。
拓海の浮気相手は、あろうことか、葵の最も信頼している親友である松下結衣だったのだ。
「……ふざけんなよ」
震える声が、口から漏れた。
怒りで視界が赤く染まるようだった。拓海に対する激しい憎悪が、腹の底からマグマのように沸き上がってくる。
葵がどれだけ拓海を好きだったか。自分を偽ってまで、彼にふさわしい彼女になろうと必死に背伸びをしていたか。
その葵の想いを踏みにじり、裏切った。それだけでも万死に値するのに、よりによって相手が親友の結衣だなんて。葵がこの事実を知ったら、彼女の心は完全に壊れてしまうだろう。
結衣に対する怒りも凄まじかった。
いつも葵の隣で優しく微笑んでいた、あの涼しげな顔の裏で、こんなおぞましい裏切りを楽しんでいたのか。親友の彼氏を奪い、それをSNSで見せびらかすような真似をして、一体何が楽しいんだ。
狂っている。あいつらは、葵の純粋さを食い物にしている悪魔だ。
俺の息は荒くなり、スマートフォンを握る手にギリギリと力がこもった。
今すぐ拓海の胸ぐらを掴んで殴り飛ばしてやりたい。結衣の前に証拠を突きつけて、その化けの皮を剥がしてやりたい。
どうやって葵にこの事実を伝えようか。いや、伝えるべきではないのか。知らぬが仏という言葉もある。俺がこのまま黙っていれば、葵は一時的な浮気だと信じたまま、やり過ごせるかもしれない。
だが、その時だった。
激しい怒りと焦燥感の底で、得体の知れない別の感情が、ぬらりと頭をもたげたのだ。
『これで、拓海のメッキは完全に剥がれた』
頭の中に響いたその声は、ひどく冷酷で、醜いものだった。
完璧だと思っていた一ノ瀬拓海は、ただのクズだった。
葵を裏切り、親友に手を出すような最低の男だ。
そんな男と一緒にいて、葵が幸せになれるはずがない。葵は必ず拓海に絶望し、彼から離れるだろう。
そして、その時、葵の傍には誰もいなくなる。親友の結衣も、信用できない裏切り者なのだから。
すべてを失い、ボロボロに傷ついた葵。
その隣で、優しく手を差し伸べてやれるのは、世界中で俺だけになる。
俺が、葵の絶対的な味方になり、彼女を絶望の淵から救い出してやれる。あの華やかな世界から、俺の手の届く場所へと、葵を引き戻すことができるのだ。
「……っ」
俺はハッとして、両手で自分の顔を覆った。
なんて恐ろしいことを考えているんだ、俺は。
幼馴染が底知れぬ裏切りに遭い、人生で最大の危機に直面しているというのに。その事実を知って、心のどこかで「ざまぁみろ」と思っている自分がいる。拓海が堕ちることを喜び、葵が一人ぼっちになることを期待している。
葵が傷つくのを、俺はどこかで待ち望んでいるんじゃないか。
自己嫌悪で吐き気がした。
拓海や結衣をクズだと罵ったが、一番のクズは俺自身ではないか。
葵を本当に大切に思っているなら、彼女が傷つく前にこの関係を終わらせる手助けをするべきだ。それなのに、俺は自分の卑小な恋心と歪んだ独占欲のために、この凄惨な状況を利用しようとしている。
教室には、もう俺以外に誰もいなかった。
西日が窓から差し込み、無人の机の列を赤く染めている。
俺は机に突っ伏したまま、しばらくの間、動くことができなかった。
画面の向こう側から聞こえてくる、崩壊へと向かう足音。
それを止めるべきか、それとも、崩れ落ちる彼女をこの腕で受け止めるために、ただ待つべきか。
俺の心は千々に乱れ、善と悪、純粋な庇護欲と醜い独占欲の間で、激しく引き裂かれていた。
ただ一つ確かなことは、もう後戻りはできないということだ。
止まっていた俺たちの時間が、最悪の形で、再び動き出そうとしていた。




