表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第6話 無口な北辺侯の朝の蕾

北辺侯は毎朝、温室へ来る。


 見回りのためだと思っていた。だが四日目の朝、彼は手袋を外した手に小さな鉢を載せていた。まだ固い蕾がひとつだけ付いた雪青菫だ。


「開く前に見せたくなった」


 それだけ言って、作業台の端へそっと置く。私は一瞬、返事を忘れた。


「どうして私に」


「この温室で、蕾を蕾として見てくれるのが君だからだ」


 気障な言葉ではない。けれど飾らないぶん、妙に胸へ残る。


 私は雪青菫の鉢を光へ傾けた。蕾の付け根が少し紫に染まりかけている。今日の正午には開くはずだ。


「夜の温度を一度だけ下げましたね」


「庭師に言われた通りに」


「私が言ったんです」


「では、その通りに」


 彼は本当にそれ以上言い訳をしない。命じるでもなく、恩に着せるでもなく、ただ必要なことをして去ろうとする。その背へ私は声をかけた。


「侯爵閣下」


「侯ではあるが、侯爵ではない」


「……では、レオンハルト様」


 呼び慣れない名前は少しだけ舌に引っかかった。けれど彼は足を止めた。


「北棟の帳面を、誰が綴じ直したのか知っていますか」


「執務棟の文書係だ。命じたのは前任の温室監督官」


「その監督官は?」


「昨夏に辞めた。王都の園芸商会へ移った」


 私は雪青菫の蕾を見ながら息を吐いた。《ルーメン》だ。やはりつながっている。


「でしたら、その監督官が王都へ持ち出したものもあるはずです」


「探させる」


 彼はすぐ応じた。その速さがありがたかった。王都では、私の言葉はまず疑われ、最後に切り捨てられたから。


 昼前、雪青菫は本当に開いた。薄い青の内側に、夜空みたいな濃い紫を秘めた花だった。ハンネスが歓声を上げ、グレタまで口の端を緩める。


「おお、咲くもんだね」


「咲かない花なんて、最初からそう多くないの」


「じゃあ、咲かせたくない人間が多いだけかい」


 グレタの言葉に、私は少し考えた。


「そうかもしれません」


 花は記録どおりに世話をすれば応える。応えない時は、どこかで誰かが手を抜くか、手を加えすぎている。


 夕方、レオンハルトが再び温室へ来た時、私は開いた雪青菫を見せた。


「綺麗でしょう」


「ああ」


 彼は花ではなく、私を見てそう言った気がした。そう思った自分が気恥ずかしくて、私は台帳へ視線を落とした。


 北辺温室には、まだ咲ける花がある。そしてたぶん、私にもまだ、咲かせられるものが残っている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ