第6話 無口な北辺侯の朝の蕾
北辺侯は毎朝、温室へ来る。
見回りのためだと思っていた。だが四日目の朝、彼は手袋を外した手に小さな鉢を載せていた。まだ固い蕾がひとつだけ付いた雪青菫だ。
「開く前に見せたくなった」
それだけ言って、作業台の端へそっと置く。私は一瞬、返事を忘れた。
「どうして私に」
「この温室で、蕾を蕾として見てくれるのが君だからだ」
気障な言葉ではない。けれど飾らないぶん、妙に胸へ残る。
私は雪青菫の鉢を光へ傾けた。蕾の付け根が少し紫に染まりかけている。今日の正午には開くはずだ。
「夜の温度を一度だけ下げましたね」
「庭師に言われた通りに」
「私が言ったんです」
「では、その通りに」
彼は本当にそれ以上言い訳をしない。命じるでもなく、恩に着せるでもなく、ただ必要なことをして去ろうとする。その背へ私は声をかけた。
「侯爵閣下」
「侯ではあるが、侯爵ではない」
「……では、レオンハルト様」
呼び慣れない名前は少しだけ舌に引っかかった。けれど彼は足を止めた。
「北棟の帳面を、誰が綴じ直したのか知っていますか」
「執務棟の文書係だ。命じたのは前任の温室監督官」
「その監督官は?」
「昨夏に辞めた。王都の園芸商会へ移った」
私は雪青菫の蕾を見ながら息を吐いた。《ルーメン》だ。やはりつながっている。
「でしたら、その監督官が王都へ持ち出したものもあるはずです」
「探させる」
彼はすぐ応じた。その速さがありがたかった。王都では、私の言葉はまず疑われ、最後に切り捨てられたから。
昼前、雪青菫は本当に開いた。薄い青の内側に、夜空みたいな濃い紫を秘めた花だった。ハンネスが歓声を上げ、グレタまで口の端を緩める。
「おお、咲くもんだね」
「咲かない花なんて、最初からそう多くないの」
「じゃあ、咲かせたくない人間が多いだけかい」
グレタの言葉に、私は少し考えた。
「そうかもしれません」
花は記録どおりに世話をすれば応える。応えない時は、どこかで誰かが手を抜くか、手を加えすぎている。
夕方、レオンハルトが再び温室へ来た時、私は開いた雪青菫を見せた。
「綺麗でしょう」
「ああ」
彼は花ではなく、私を見てそう言った気がした。そう思った自分が気恥ずかしくて、私は台帳へ視線を落とした。
北辺温室には、まだ咲ける花がある。そしてたぶん、私にもまだ、咲かせられるものが残っている。




