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第1話 奪われた王宮温室と婚約

王宮温室の中央棟は、朝いちばんの陽を受けると、ガラスの海のように光る。


 私はその光の中で、播種記録台帳の頁をめくっていた。王家紋章花《白冠薔薇》の発芽箱は三列、温度は十八度、昨夜の灌水量は規定通り。春花博覧会まで残り十日。ここから先は、一粒の種の向きすら気を抜けない。


「お姉さま、その台帳、今日はもう閉じてしまってもよろしいのではなくて?」


 甘い香油の匂いと一緒に声が落ちてきた。振り返ると、義妹のリディアが白い作業上着ではなく、来賓用の淡桃のドレスを着て立っている。土を触る人間の袖ではない。


「来賓導線に入る前に着替えて。ここは作業棟よ」


「だって、今日から私は見せる側だもの」


 リディアが微笑み、隣へ立つ男の腕に手を絡めた。婚約者のカスパル・ヴァイト。王宮温室の管理長補佐で、私の記録仕事を誰より知っているはずの人だった。


「エルザ、話がある」


 その言い方だけで、良くない知らせだとわかった。彼は私の手にある台帳ではなく、リディアの髪に挿した白冠薔薇の造花ばかり見ていた。


「今年の春花博覧会の前面担当は、今日からリディアに替わる。王宮温室の顔として外に立つのは彼女の方がふさわしい」


「播種記録の引き継ぎ書は?」


「後で出す」


「順番が逆よ」


「順番より見栄えが大事な場面もある」


 その瞬間、胸の内側で何かがすっと冷えた。私は種子台帳官だ。誰がいつ何を播き、どの温度で芽を出したか、その順番こそが花を咲かせるのに。


「それだけじゃないの」とリディアが言う。「婚約も見直すことになったの。王宮に立つのに、地味な種子係のままでは、カスパル様もお気の毒でしょう?」


 義妹は白冠薔薇の造花を撫でた。


「萎れた花がお似合いね、お姉さま」


 私は反射的に台帳を抱き寄せた。何を奪われても、この記録だけは私の手の中にある。少なくとも、そう思っていた。


 だがその時、奥の育苗棚から声が上がった。係員のひとりが、白冠薔薇の発芽箱を抱えて青ざめている。


「芽が……ありません」


 昨夜まで揃っていたはずの新芽が、一段まるごと消えていた。土はまだ湿っている。誰かが夜のうちに箱を差し替えたのだ。


「エルザ、説明してもらおうか」


 カスパルの声音はもう婚約者のものではなかった。責任者へ向ける冷たい声だ。


 私は発芽箱の縁に指を当てた。そこにだけ、新しい木材の匂いが残っている。箱が丸ごと替えられている。


「説明ならできるわ」


 私は箱を持ち上げ、底板の印字を見せた。


「ただし、責められるのは私ではないでしょうね」


 朝の温室は春の匂いがするはずなのに、その日だけは、濡れた土の冷たさしか感じなかった。


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