ゆずり葉物語 第一章 4 霧笛
「何なんです。これは」
リビングのテーブルの上に置かれた父母会の会報誌を指し示して高子が詰問した。
「バレーボール大会の時の写真です」
小さな声で綾乃は答えた。
高子が指さした会報誌には、アタックをしている綾乃の写真と、表彰状を受け取っている綾乃の写真が掲載されていた。
「バレーボール大会に出るなんて、わたくし、聞いておりませんわよ」
高子の声は冷ややかで、言葉使いは丁寧だったが、綾乃の心を怯ませるには充分過ぎるほどの気迫があった。
「学校の行事だから、言わなくてもいいかと思って」
そう答えた綾乃の声は、ますますか細くなって、耳を澄まさなければ高子の耳にも届かないほど小さくなっていた。
『学校の行事・・・』
昨夜、峰岸政子も同じ事を言っていた。
『学校行事ですから、いちいちお伝えする必要もないかと思いましたの。それに、教頭のわたくしがクラスの代表選手の人選に口を挟むのも可笑しなものでしょう』
と。
確かに、政子の言う通りなのかもしれない。高子に内緒でバレー部に入った訳ではないのだ。学校行事の事に、いちいち神経を尖らせる必要などなのかもしれない。
会報誌が届いたのは、一昨日だった。
すぐにでも綾乃に問いただしたかったところだが、中間テストの最中だったこともあり、じりじりした思いで高子はテストが終わるのを待っていたのだ。
「これからペペの散歩に行ってきます」
高子の意識がわずかに自分から逸れた隙を見計らって、綾乃はリビングから出て行ってしまった。
高子は小さくため息をついた。
高子も、それ以上綾乃を問い詰めるつもりはなかった。
ただ、バレーボール大会に出るなら出るで、『今度、クラス代表でバレーボール大会に出る事になったの』と、素直に綾乃に言ってほしかっただけである。
『それにしてもこんな事があるなんて・・・この方が清涼の副理事長をなさっているなんて、政子さん一言もおっしゃていなかったじゃないの・・・』
高子が恨みがましく向けた視線の先には、綾乃に賞状を渡している副理事長の姿が写っていた。
綾乃はペペを連れて、いつものように大通り公園の水の広場の石の上に座っていた。
『私、何か気に障ることでも言ったのかしら』
会報誌の写真を思い出して、綾乃は首を傾げた。
気に障ること等、何も言ってはいない。
『どこかで、お目に掛かったことはありませんか』
と、副理事長に問いかけただけだ。
校内バレーボール大会で最優秀選手に選ばれ、表彰状を受け取った時の事だ。
『いや、初めてだろう』
と、その人は言った。
そう言ったかと思うと、その人の体はぐらりと揺れ、テーブルの上の手をついてしまった。
思わず差し伸べた綾乃の手を、
『触るな』
と、言って、その人は払いのけた。
険しい眼差しだった。
綾乃は今まで、あんな目で人から見られたことはない。
戸惑いと苛立ち、そして激しい憎しみが、その眼差しにはあった。
綾乃は茫然と立ち尽くすしかなかった。
『ここはいいから、列に戻ってなさい』
と、駆け寄ってきた山岡に促されて、綾乃はおぼつかない足取りで何とか壇上から降り、元の列に戻った。
あの日から、あの人の眼差しが忘れられない。
あの眼差しの中にあったのは、憎しみと苛立ちだけではなかった。
憎しみと苛立ちのあとに浮かんだのは、深い後悔と哀しみであったように綾乃には感じられた。
確かに、あの人にはどこかで会った事がある。
綾乃は、改めてそう思った。
だが、それがどこで会ったのか、何時のことだったのか、綾乃には、はっきりとは思い出せない。
綾乃は考えるのをやめた。
だって.、あの人は横浜清涼学園の副理事長なのだ。
たぶん、又、会える機会だってあるだろう。その時に思い出すことだってあるかもしれない。
「ぺぺ、もう帰ろうか」
綾乃は足元に寝そべっていたぺぺに声を掛けた。
ぺぺとの散歩コースは、日によって変えていた。だいだい大通り公園の中を歩て関内駅前の信号のところを右に折れることが多いのだが、その日は、無意識のうちに最初の信号を右に折れ、横浜文化体育館の前を通るコースを選んでいた。
いつもの綾乃なら、ペペが、やけにリードを強く引いていることにも、いつになく興奮していることにも気づいていただろう。
だが、綾乃の意識は別のところにあって、考えまいとしても副理事長との経緯に及んでしまう。
不老町一丁目の交差点を渡り終わった後、いきなり暴走したペペの行動に反応できなかったのもその為だったのだろう。
普段なら脇目も降らずに通り過ぎてしまうのに、その時に限ってペペは、信号を渡るとすぐに右に折れ、体育館の入り口に向かって走り出してしまった。
綾乃は必死にペペを押さえようとしたが、ぺぺの勢いについていけずに、石畳の隙間に躓いて前のめりに転んでしまった。その上、あろうことか、ペペのリードを放してしまったのだ。
文体の入り口近くに並んでいた女の子たちの間から悲鳴が上がる。
しまったと思ったが、もう遅い。
ゴールデンレトリーバーのペペは、体重がゆうに30キロを超えている。そのペペが開場待ちをしている列の中に飛び込んでしまったのだ。綾乃には顔を上げる勇気がなかった。ペペが、どんな混乱を巻き起こしたかは、少女たちの悲鳴を聞けば容易に塑像できる。
恐る恐る顔を上げた綾乃を除き込んでいる顔を見て、
「お兄ちゃん」
と、綾乃は思わず叫んでしまった。
綾乃の顔を覗き込んでいたのは、ぺぺの元の飼い主の井上卓也だった。
「大丈夫?」
と、卓也は優しく尋ねた。
綾乃は、こっくりと頷いた。
「大丈夫よ。膝を少し擦りぬいただけだもの。それより、どうして、お兄ちゃんが、ここにいるの?」
「これから韓国との親善試合なんだ。どうしてって聞きたいのは僕の方だよ。どうしてリードを放したりしたの」
「だって、ペペがいきなり走り出したりするんだもの」
拗ねたように綾乃は答えた。
「困った子だね。リードは命綱だって、あれほど言っておいたのに」
卓也は綾乃の頭を軽くポンッポンと叩いてから、
「ペペ、お前もだよ。誰も怪我しなかったから良かったようなものの、場合によっては大事に至る事だってあるんだからね」
と、ペペの方に顔を向けた。
ペペは最初の内こそ顔色を窺うように上目遣いに卓也を見ながら、しおらしくお小言を聞いていたが、それはほんのつかの間で、『ごめんなさい。わかっていますよ。でも、久しぶりに会えたんですよ。もう、嬉しくて、嬉しくて、自分を押さえられなかったんですよ』と、でも言わんばかりに、屈んでいた卓也に縋り付いて、手と言わず腕と言わず顔まで舐め始めた。
「わかった。わかったよ。ぺぺ。嬉しいのはわかったから、少し落ち着いて」
ちょうどその時、文体から出てきた選手が卓也に声を掛けた。
「卓也、すぐに戻って。もうすぐ練習が始まるよ」
「はい、すぐに戻ります。宮本さん」
卓也は、声の方を振り返ってチームメイトで同じ大学の先輩でもある宮本宏樹に答えた。
「ぺぺ、綾乃の言う事をよく聞くんだよ。勝手に走り出したりしちゃだめだよ」
と、ペペの頭をなでながらやさしく言い聞かせてから、綾乃にリードを渡した。
卓也はすぐにその場を離れたが、入れ替わりに宮本宏樹が綾乃に近づいてきた。
「あれ?誰かと思ったら綾ちゃんじゃない。試合、見に来たのかな?おっと、そんな分けないか。ペペが一緒だものね。ペペの散歩か」
宮本は自分で質問しておいて自分の問に自分で答えてから、にっこりと微笑みかけた。
「久しぶりだね。綾ちゃん。岩崎さんの葬儀の時以来だから、もう、半年になるのかな」
綾乃は、困ったように小首を傾げてから、黙って頷いた。
「宮本さん、僕を迎えに来たんじゃないんですか。いいんですか。ゆっくり構えていて」
卓也が振り返って声を掛けなかったら、おしゃべりが好きそうな宮本はもっと話し続けていたかもしれない。
「わかってるよ、卓也。すぐに戻るよ」
げんに宮本は、口ではそう言っておきながら、戻るどころか、並んでいる観客の中に山岡義明の顔を見つけると、
「あれ、ヨッシーさんじゃないですか。ヨッシーさん。どうしたんですか。若い子たちに交じって」
と言いながら、山岡のところに近づいていった。
「生徒たちを引率して来たんだよ。それより、いいのかい?戻らなくて」
山岡は、にやりと笑って、宮本を軽くいなした。
「あっ、いけね。それじゃね。ヨッシーさん、綾ちゃん。また、後で」
宮本は、急いで入り口に戻って行った。
綾乃は、ちらりと生徒たちに目をやった。
そう言えば、中間テストが終わったら、バレー部全員で日本と韓国の親善試合を見にゆくと言っていたっけ。
まさか、その会場が横浜文化体育館だとは、おまけに、その列にペペが飛び込むなんて。
綾乃は山岡や堀口悦子やクラスメートたちに会釈すると、ペペのリードを引いて、その場から離れた。
折よく開場の時間になったのか、山岡と横浜清涼学園バレー部の生徒たちは体育館に向かって歩き出した。彼女たちの後ろ姿を見送りながら、綾乃は小さくため息をついた。
月曜日に顔を合わせた時のことが脳裏をかすめたのだ。きっと、真理子たちから卓也との関係を根掘り葉掘り聞かれるに違いない。
その日の夜の事である。
「悪いね。二人とも、時間を取らせてしまって」
と言いながら、山岡が先に店に入っていた卓也と宮本の向かいの席に腰を下ろした。
「良かったのかい。チームから離れて俺と食事なんかして」
「ええ、大丈夫ですよ。明日から大学に戻ることになっていたんで、最初から、今日の試合が終わったらチームから離れることになっていましたから」
卓也が答えた。
「そうかい、なら、良かった。町中華も、たまにはいいだろ。ここなら落ち着いて話せるし」
確かに山岡が予約していた店はこじんまりしていた上に、衝立で隔てられていたものだから、席に着いてしまえば他の客と顔を合わせることはない。
「最初はビールでいいかい。卓也も、もうアルコールはのめるんだろう?」
「はい。今年の5月で二十歳になりましたから」
「そっか。それじゃ、その祝いと再会を祝して乾杯と行こう。もうちょっと待ってくれる?もう一人来るはずなんで」
と、言う山岡の言葉が終わるのを待っていたかのように、
「遅れてごめん」
と、言いながら入ってきたのは卓也の兄の井上鷹志だった。
「あれ、タカさん、タカさんじゃないですか」
「やあ、久しぶりだね。ミヤ。僕に遠慮せずに先にやってくれていて良かったのに」
「月末は忙しいんだろ。仕事なら仕方ないよ」
山岡が、自分の隣の席に腰を下ろした鷹志に、テーブルの上に置かれていたおしぼりを差し出した。
「そうなんだよ、ヨッシー。今月は決算の会社が多くてね。土曜日とはいえ新米の俺が先輩より先に帰る訳にはいかない訳よ。それに少しでも早く仕事も覚えたいしね」
「そっか、タカさん、税理士を目指してたんでしたね。ヨッシーさんが、学校の先生のなるって聞いた時も驚きましたけど、タカさんが税理士試験を受けるって来た時も驚きましたよ。実業団に行くものとばかり思っていましたからね」
「そうかい。でも、バレーは大学迄って前から決めていたんだ。卓也は、おじいちゃんに似て背が高いけど、僕はおばちゃんの方に似て背丈はないし、ヨッシーのようなパワーもない。守備だけで生きてゆけるほど機敏でもない」
山岡の隣に座り、おしぼりで手を拭きながら、鷹志はにやりと笑った。
「それに、父さんが苦労して開いた税理士事務所、引き継ぐのも良いかと思ってね」
「それなら、最初から親父さんの事務所に入ればよかったじゃないですか。その方が、勉強するにしても融通が利くんじゃないですか」
「だからだよ、ミヤ。父さんの事務所に入ったら、どうしても甘えてしまうだろ。苦節20年、30年なんて受験生も大勢いるんだ。そんなに甘い世界じゃない。だったら、東京地方税理士会に所属している父さんと同じ支部で働くより、むしろ他の支部、つまり東京地方税理士会のところで働いた方が身になる。いわば背水の陣を引いたって訳よ」
「へえ、そんなものですかね」
宮本が、しきりに感心するものだから鷹志は照れ臭くなったのか、
「それに、横浜にはヨッシーもいるじゃん。会いたいときには何時でも会えるもんね。ヨッシー」
と、言って、ふざけて山岡にしなだれかかった。
山岡は、するりと身をかわした。
「よしとくれ、鷹志。ビールが入る前から酔ってるのかい」
「ですよね。ヨッシーさんには堀口悦子先生という本命がいますもんねえ」
「もう、ミヤまで人をおちょくって。そんなんじゃないよ。僕たちは真剣に生徒たちとバレーボールの指導に向き合っているんだかね」
「またまた、そんなに照れなくたっていいじゃないですか。ミス青葉女子大だった堀口先生と同僚になれただけでもラッキーですよ。ヨッシー先輩」
「まあ、あんまりヨッシーをからかうなよ、ミヤ。飲む前からヨッシーの顔が赤くなってるだろ」
鷹志が止めなかったら、宮本はますます図に乗って山岡をからかい続けたにちがいない。
「ビールも来たことだし、乾杯といこうか」
山岡が、気を取り直して、その場をしきった。
「でも、驚きましたよ。岩崎さんのお嬢さん、何か雰囲気変わりましたよね」
乾杯を済ませ、一通り食事が終わった後で綾乃の話題を切り出したのは、宮本だった。
「もっと溌溂としていて明るかったのに。まあ、岩崎さんを亡くされてまだからまだ半年を過ぎたばかりなんだから、当然と言えば当然かなのもしれませんけど、痛々しくて見ているのが辛かったっすよ」
「ああ、俺だって清涼に転校して来た綾ちゃんを見た時には驚いたよ。いつも俯いているし、口数も少なくなっていてね。なかなかクラスメートにも馴染めていないようだったし。堀口先生の話では、前の学校で入っていたバレー部も岩崎さんが亡くなった後すぐに退部してしまったって言うし」
「それにはね。訳があるんだよ、ヨッシー。高子おばさんがね。『あなたがバレー部の練習で怪我さえしなければね。そうすれば貴之さんも予定を変更して一日早く帰ることもなかったでしょうし、そうすれば、あの事故に巻き込まれることもなかったはずですのに』って、言ったからだよ」
鷹志が高子の声色を真似て補足した。
「それは、ちょうとキツイですね。綾ちゃんじゃなくてもバレーボールを続ける勇気がなくなる」
宮本がビールを飲みながら顔をしかめた。
「そう思うだろ。高子おばさん、悪い人じゃないんだけど、結構きついこと言うのよ。物柔らかだし、丁寧で、一見すると優しそうには聞こえるんだけど、妙に的をついているというか、痛いところを正確に突いて来る訳よ。言われた方は傷つく。あの時だって、はっきりと口に出してバレー部をやめろとは言っていないよ。でも、綾ちゃんだって、自分が怪我さえしなければって少なからず心の中では思っていたはずなんだ。そこをずばりと突かれたら、綾ちゃんじゃなくたって、バレー部をやめたくもなるよな」
「傷口に塩を擦り付けられたようなものですもんね」
鷹志の言葉に宮本が頷いた。
「あの綾ちゃん見てたらさ。俺、運命を感じてしまったんだ」
しみじみした声で山岡が言った。
「運命?」
怪訝そうに宮本が訪ねた。
「ああ、運命って言うのは少しオーバーかもしれないけど、自分のすべき事に気が付いたって言った方が良いのかな。今の綾ちゃん、正直言って痛々し過ぎてミヤじゃないけど俺だって見ていられなくてさ。これは何とかしなければいけない。何とかして元の元気な綾ちゃんに戻さなければいけないって思ったんだ。何と言えばいいのかな。岩崎さんから綾ちゃんを託されたような気がしたとでも言った方がいいのかな」
山岡は一旦言葉を切ってから、考えをまとめる為か、ビールではなく料理の後に出されたお茶を口に含んだ。
「鷹志も卓也も、俺が教師を目指そうとしたきっかけは知ってるよね」
「ああ、ヨッシーがブロックホローに入った俺の足の上に乗って、膝を怪我した時だろ。見舞いに来てくれた岩崎さんの言葉がきっかけだったって聞いてるけど」
鷹志が答えた。
「そうなんだ。あの時は誰にも会いたくなくてさ。鷹志や卓也が、せっかく見舞いに来てくれたのに、『会いたくない』って追い返してしまった事もあったよね」
「無理もないさ。全日本に選ばれた矢先の怪我だもの。俺が、もう少し気を付けていれば・・・」
「誰のせいでもないさ」
山岡が鷹志の言葉を遮った。
「強いて言えば『期待の新生』なんてマスコミに待てはやされて浮かれていた自分が悪いんだよ。今になれば素直にそう思えるんだけど、あの時は辛くてね。担当医の三枝先生から『今の医学では再起するのは難しいだろう』って言われた時には、目の前が真っ暗になってさ。何で俺がこんな目に合うんだよ。って、子供みたいに拗ねて、毎日、腐っていたんだ。そんな時なんだよ。岩崎さんが見舞いに来てくれたのは」
山岡は再び言葉を切り、再びお茶を口に含んだ。
誰も口を挟まなかった。
宮本は身を乗り出し、卓也と鷹志は固唾を飲んで、山岡の次の言葉を待った。
「まさか、岩崎さんを追い返す訳にもいかないだろ。岩崎さんは、怪我の事にはあまり触れずに、海外遠征した時の話を面白可笑しく話してくれてさ。その帰り際に言われたんだ。『夢は引き継がれるものかもしれないね』って」
「夢は引き継がれるもの・・・」
宮本が繰り返した。
「ああ、『親から子へ、先輩から後輩へというように』って」
「親から子へ、先輩から後輩へ、か」
今度は、鷹志が山岡の言葉を繰り返した。
「そう、さりげなく、付け足すみたいにね。他の人に言われたんだったら、きっと反発していたかもしれない。だけど、岩崎さんの言葉だったから俺は一歩立ち止まって、素直に耳を傾けることが出来たんだ」
山岡は懐かしむように目を閉じた。
「みんなも知っているとは思うけど、岩崎さんは怪我の多い選手でね。アジア大会や世界選手権では活躍してるのにオリンピックには行っていない」
「ああ、ミュンヘンは候補選手には選ばれていたけど最終的には選ばれなかったし、モントリオールとメキシコは怪我をしてしまって出られなかっただよね」
鷹志が山岡の言葉を受けて答えた。
「それにモスクワは幻のオリンピックになってしまったし、その前に、男子バレーは、その出場資格を逃したんじゃなかったかな」
「そうだったかな。とにかく、岩崎さんは、俺なんかより、ずっと辛い思いをしているはずなんだ。悔しい思いも、情けない思いも、俺なんかより、沢山いている・・・そんな岩崎さんの言葉だったから、俺は素直に受け入れて指導者の道を選ぶことが出来たんだ。考えてもみてくれ。岩崎さんの言葉を受けて教師になった俺の赴任先の学園に、心に傷を負った綾ちゃんが転校してきたにんだよ。まるで、羽に傷を負った白鳥が羽を休めるようにね。これは運命だと思ったよ。娘を頼む。何とか立ち直らせてくれ。って、綾ちゃんを岩崎さんから託されたような気がしたんだ。」
普段の宮本なら、『酔い過ぎじゃないですか』などと、ちゃちの一つも入れるところだったが、この時ばかりは神妙な顔をして山岡の話を聞いていた。
「なるほどね。綾ちゃんが立ち直るって事は、またバレーボールを始めるって事だよね。だとすると、ここでもネックは高子おばさんか。綾ちゃんがバレー部に入りたいと言ったとしても、すんなりと許してくれるかどうか」
鷹志の言葉に反論したのは、以外にも卓也だった。
「綾乃しだいだと思うよ、兄さん。高子おばさんだって、今のままでいいとは思っていないはずなんだ。おばあちゃんの話では、高子おばさん、『綾乃に、どう接したら良いのかわからない』って、かなり悩んでいるみたいだし、綾乃が本気でバレー部に入りたいといえば、案外すんなりと許してくれるんじゃないかな。問題は綾乃が本気でバレー部に入りたいって思うかどうかだと思うよ」
「俺もそう思う。綾ちゃん次第だって」
山岡が同意した。
「もう少しなんだよ、卓也。あと押しなんだ」
山岡は語尾を強めた。
「先月の末にクラス対抗の校内バレーボール大会があってね。綾ちゃん、クラス代表の選手として出たんだけど、それが実にいいプレーをするんだよ。ジャンプ力もあるし、ボールへの反応の早い。何といっても楽しそうだった。ああ、この子は本当にバレーボールが好きなんだ。やっぱりバレー部に入りたいって思ってるんじゃないのかなって思ったんだ。もう少しなんだよ。あと一押し、あと一押し、何かきっかけさえあれば」
「きっかけねえ。何とかならないもんですかね」
宮本の言葉に鷹志と卓也も頷いた。
小ぬか雨の中を咽び泣くような無敵の音が、細く長く響いていた。
「ねえ、真理子。月間バレーボールの今年の5月号見なかった?」
その同じ頃、北原家のリビングで寛いでいた真理子に大地が尋ねた。
「知らないわよ。私はお兄さんたちの部屋に入っていないもの」
「そうだよね。おかしいな。どこを探しても5月号だけ見当たらまいんだ」
「その本だったら、今朝、お父様のを書斎をお掃除している時に見かけたわよ。何でこの本がお父様の机の上ににあるのかしらとは思ったけど、そのままにしておいたわ」
食卓の上に夫の大二郎と舅である竜太郎の食器を並べていた母親の早苗が教えてくれた。
「おじいちゃんの書斎に?」
大地は首を傾げたが、
「行ってみよう、大地。早くしないとおじいちゃん達が帰ってきてしまうよ」
と言うなり、大輔が先に立ってリビングから離れた。
本は、早苗の言葉通り、祖父・竜太郎の机の上においてあった。
大輔が本を手に取り、目的のページを開こうとした時、挟んであった写真が絨毯の上にはらりと落ちた。
後から部屋に入ってきた大地が写真を拾い上げ、「あっ」と、短く叫んで暫く見入った後、その写真を黙って兄に差し出した。
大輔も受け取った写真に目を遣るなり顔色を失った。
「この写真、岩崎さん・・・」
おそらく、滝ノ上中学の入学式に撮ったものだろう。髪も三つ編みにしていたし、セーラー服に身を包んでいたから、大輔と大地の知っている綾乃ではなかったが、方頬にえくぼを浮かべ、はにかんだように微笑んでいる少女は間違いなく綾乃本人だった。
「どうして、あの子の写真がここに・・・」
と、大輔が大地の問い掛けたのと、
「何をしている。私の部屋で」
と、言いながら竜太郎がドアをあけたのは、ほとんど同時だった。
「お帰りなさい。ちょうと、探し物をしていたものだから」
と、大地は苦しい言い訳をし、大輔は咄嗟に持っていて写真を本の間に戻して、そそくさと二人は部屋から出て行った。
机の上の本を目にして、竜太郎は、小さくため息をついた。
「見られてしまったか」
よほど慌てていたのだろう。
本の間からは写真の角がはみ出していた。
竜太郎は背広の内ポケット.から古びた写真を取り出し、すがるような眼差しで見つめていたが、やがて、呻くようにぼそりと言った・
「菊乃、どうしたらいい。答えてくれ。菊乃」
と。
「菊乃って誰」
ドアを半開きにして聞き耳を立てていた大地が兄に尋ねたが、大輔にも、その名前に聞き覚えはなかった。二人は揃って不思議そうに首を横に振るばかりだった。
小ぬか雨は、細く長く響く霧笛を掻き消すような篠突く雨に変わっていた。
竜太郎の帰宅を知らせる自動車のドアの音が大輔と大地の耳に届かなかったのも、激しさを増した雨音のせいだったかもしれない。




