ゆずり葉物語 第一章 3 涼風
「今、なんておっしゃいました?」
唐突に立ち上がったかと思うと、やや掠れた声で岩崎綾乃が言った。
「だから、5時限目の体育の時間と6時限目のホームルームの時間を合わせてバレーボールをしましょう。と、言ったのよ」
綾乃の勢いに押されたのか、多少たじろぎ気味に堀口悦子が答えた。
「今月の末にクラス対抗のバレーボール大会があるから、その時にクラス代表を選ぶ参考にしたいと思って」
「バレーボール・・・大会・・・」
独り言のように言って、すとんと綾乃は椅子の上に腰を下ろした。立ち上がった時のように唐突にではない。力なくである。
「いいわね。5時限目にはジャージに着替えて体育館に集合して下さい」
堀口悦子は、クラス全員にというより、綾乃に言い聞かせるように言った。
『そんな事は来ていない』
と、心の中で綾乃は思った。
まさか、学校行事の中にバレーボール大会があるなんて想像もしていなかった。
その日の午前中の授業の内容を、綾乃は何一つ覚えていない。午前中の授業が終わったら、『具合が悪いから』と、でも理由をつけて早退してしまおうかと、さえ、綾乃は思った。
だが、そんな事をしても、教頭の峰岸政子を通して、祖母の高子の耳に届いてしまうだろう事は綾乃にもわかっていた。
昼休みが終わりに近くなって、ジャージには着替えたものの、体育館へと向かう綾乃の足取りは重かった。どうしても他のクラスメートから遅れてしまう。
綾乃が、一人遅れて体育館へと続く渡り廊下を歩いていた時だった。
「よっ、久しぶりだね。綾ちゃん」
と、後ろから声を掛けられ、綾乃は危うく叫びだしそうになった。
「ヨッシーさん・・・」
と、つい、日頃の呼びなれた山岡のニックネームで答えてから、あわてて綾乃は、
「すみません。山岡先生」
と、言い直した。
山岡は、ペペの元の飼い主だった井上卓也の兄、鷹志の同級生で、綾乃の父、貴之にあこがれていたとかで、何度か奥沢の家を訪ねて来たことがあった。
「いいんだよ。呼び方なんて気にしなくて。それより、どうだい、少しは、ここに慣れたかい?」
ここといううのが学校の事なのか、それとも横浜の家の事なのかはかりかねて、綾乃は小首を傾げた、
「そっか、転校してきて一週間にもならないのに、慣れたかどうか聞くのも気が早いか。鷹志や卓也がいたら『相変わらず、せっかちだねえ、ヨッシーは』なんて、笑われちゃうかな」
そう言って、山岡は右目のつぶると、同じ右の耳を動かして見せた。
おどけた山岡の顔を見て、思わず綾乃も笑ってしまった。
笑うと綾乃の右の頬にえくぼが浮かぶ。
「よかった。思っていたより綾ちゃん・・・、じゃなかった。岩崎君が元気そうで」
真顔に戻って、山岡が言った。
その時、体育館の中から顔を出した北原真理子が綾乃に声を掛けた。
「岩崎さん、何をしているの。急がないと授業が始まるわよ」
「おっと、いけない。僕のクラスも体育の授業はバレーボールなんだ。君のクラスもだろ。教師が遅刻したんじゃ様にならないや。岩崎君。急ごう」
二人が体育館に入って行くと、すでに隣り合った二面のコートには、それぞれネットが張られ、ボールの入った籠も用意されていた。
準備体操を終え、堀口悦子が生徒たちに次の指示を出した。
「二人一組に組んで、軽くボールを投げあって肩を馴らしましょう。慣れたらオーバーハンドから練習して下さい。バレー部の人は近くの人のサポートに回って」
籠からだされたボールを受けとった時、綾乃の心の中で何かが弾けた。
堀口悦子に支持を受けて他のクラスメートのサポートに行きかけた真理子が、綾乃の脇を擦り抜けた際、
「あなたにはサポートは必要なさそうね。滝ノ上中学では、バレー部に入っていたんですものね。一時期だけど」
と、綾乃に耳打ちした。
その一言が、『バレーボールなんて、お止めなさい』という高子の戒めと、足枷のように己で己の心とを縛っていた躊躇いとを解き放った。
そこまで、知られているのなら、もはや隠す必要もない。
それに、授業なのだ。祖母だって文句は言うまい。
体育の授業とホームルームが終わった時、綾乃は心地よい疲れを感じていた。
綾乃がボールに触れたのは、およそ五か月振りだった。
思い切りボールを追い、思い切りジャンプしてボールを打つのは、なんて気持ちいいのだろう。
体育館の中は蒸し暑かったが、外に出ると思いのほか爽やかだった。時おり、涼やかな風が吹き抜けてゆく。
体育館脇の水飲み場は、顔や手を洗う生徒たちであふれていた。
人垣が途切れるのを待って、綾乃が一番最後になったのは、転校してきてまだ間もないという遠慮もあるが、久しぶりに感じた運動の後の心地よい疲れの中に少しでも長く浸っていたかったからかもしれない。
生ぬるかったであろう水も、綾乃が使った時には冷たくなっていた。
綾乃が、その少年たちに声を掛けられたのは、水に濡れた顔を拭こうとタオルに手を伸ばした時だった。
「これ、君のでしょう。少し濡れっちゃったけど」
と、言って、先ほど隣のコートでプレーしていた男子生徒がタオルを差し出してくれた。
どうやら吹き抜けていった風がタオルを落としていったらしい。
「ありがとうございます」
綾乃は礼を言って差し出されたタオルを受け取ったが、顔を拭く前に目を丸くしてしまった。
「抜け駆けはずるいよ、兄さん」
と、間に入ってきた少年の顔が、タオルを拾ってくれた少年とそっくりのだったからだ。
綾乃の驚いた顔を見て、タオルを拾ってくれた方の少年が、照れ臭そうに頭をかいた。
「驚かせてごめん。僕たち一卵性の双子なんだ。僕が北原大輔」
「そして、僕が弟の北原大地。君のクラスの北原真理子は.、僕たちの妹だよ」
「北原さんの、お兄さん・・・」
「そう、君、岩崎さんでしょう?真理子から聞いているよ。滝ノ上中学の元バレーボール部員だった子が転校してきたって。何でバレー部に入らないのかな?君が入ったら女子バレー部のすごい戦力になると思うけどな。ね、兄さん」
「ああ、僕もそう思うよ。あんなにバレーがうまいのにバレー部に入らないなんて、確かに勿体ない。無理に入部しろとは言わないけどね。それじゃ、僕たちは、これから練習なんで」
そう言って二人は揃って片手を上げると、体育館の中に戻って行った。
「兄さんたち、何て言ってたの?」
渡り廊下で待っていた真理子が、教室に戻ろうとする綾乃に声を掛けた。
「何でバレー部に入らないのかって」
と、正直に綾乃は答えた。
いち早く反応したのは、質問した真理子ではなく、鈴木美恵だった。
「ええ、いいなあ。大輔先輩と大地先輩にそんな事言われたら、私だったら、即、入部しちゃうけどな」
「美恵、ほっておきなさいよ。いやいや入部したって、どうせ長くは続かないんだから」
やや尖った声で久松幸恵が言った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
坂口優子が二人をなだめた。
「今日のところは、バレーボール大会のクラス代表を引き受けてくれただけでもよしとしましょうよ。さあ、私たちも地区大会に向けて練習頑張りましょう。それじゃね、岩崎さん。バレーボール大会、期待してるわよ」
と、綾乃の肩を軽く叩いてから、坂口優子は先に立って体育館に向かって歩き出した。
北原真理子も三人の後に続いて歩きかけたが、ふと立ち止まって後ろを振り返った。
「ねえ、岩崎さん、山岡先生と親しそうに話していたけど、知り合いだったの?」
「ええ、奥沢にいたときに何度かうちを尋ねて来たことがあるの」
「奥沢に?岩崎さん、奥沢に住んでいたの?世田谷の・・・」
「ええ、今年の春まで」
真理子は怪訝そうに小首を傾げながら、
「そう、奥沢に住んでいたの」
と、独り言のように繰り返した。
何か思い当たる節でもあるのだろうか。
季節の変わり目を感じさせる涼やかな風が、綾乃と真理子の間を吹きすぎていった。




