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火を聴く器  作者: katari
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4 火と語との継承にて

水座みざの前に、小さな炉が設けられた。

そこへ火種が移され、静かに火がつく。


火は、澄んだ空気の中で、まるで水面に浮かぶ灯のように揺れていた。


地には五重の同心円。

その中心に膝をついた久玖里が、火へと手を伸ばしながら、低くつぶやく。


「火よ、語れ。  水の記憶を。  

我が身を通して、水の語り部・涼木すずきの記憶を聴かされよ」


言葉は火に吸い込まれるように響き、炉の火がわずかに揺れる。

久玖里くくりは腕を徐々に上げながら、ゆっくりと立ち上がる。

その動きは、静かに、でも確かに火の呼吸に合わせていた。


炉の周囲の空気がわずかに震えた。

その瞬間、一筋の風が吹き抜ける。

それを合図に五重の同心円が淡く脈打ち、地面に光を帯びる。


そして――

火柱が突如として立ち上がった。

高くなった炎は天へと伸び、周囲の空気を巻き込みながら、

ひとつの塔のようにそびえ立つ。


久玖里の瞳が、朱に染まる。

その色は、火の語り部だけが宿す、つながりの兆し。


彼女の髪がわずかに揺れ、衣の裾が火の脈動に合わせて震える。

周囲にいた者たちは、息を呑み、言葉を失った。


少し離れた位置で目を閉じ、手を合わせていた沙耶は、異様な気配に咄嗟に目を開いた。

周囲で見守っていた者たちも、ざわめき始める。

「薪も少ないのになぜ火柱が」

「どういうことだ」


火柱が、ゆっくりと割れる。

その奥に、水座が見えた。

火の奥から、かすかな水音が響く。

それは、水守みずもりで遥か昔から語られてきた、水の記憶。


割れた火柱の中心に、霧が立ち込める。

そこに、ぼんやりと一人の女性の姿が映っていた。


最後の水の語り部――水実みみの涼木すずきである。


静かな水音とともに、声が届く。

「苦労をかけますね、久玖里殿」

「……ご無沙汰しております、涼木様」


周囲は、その姿に唖然とする。 沙耶さやがはっと気づき、声を上げる。

「母上!」

しかし、涼木は沙耶を見ない。


「……母上? 何を語っているの?」

久玖里と涼木は、周囲を気にすることなく語りを続ける。


「久玖里殿……さすがですね。明羽あけは様もお喜びでしょう」

「涼木様。水と火の導きによるものです。私の力では……」

「いえ。明羽様も、私も、このようなことはできませんでした。

やはり、あなたは今、必要な存在なのでしょう」

久玖里は答えず、静かに視線を下げる。


「時は流れ、変化するもの。

されど、水守にも、残るものがございます」


「私にできることであれば、かならず」

「よろしくお願いいたします」


沙耶は、そのやり取りを瞬きもせず見つめていた。

耳に入ってくるのは、言葉ではない。

久玖里からは火の音が、

涼木からは水のささやきが、静かに漏れていた。


久玖里が涼木に向かって一礼すると、

それを合図に火は鎮まり、涼木の姿は霧とともに消えた。

久玖里の瞳が、静かに黒へと戻る。

炉の中の小さな火が、穏やかに揺れていた。


「ああ……」

沙耶が、思わず声を漏らす。


「水の記憶は、まだ残っています。

語られぬまま、沈んでいるだけです。

涼木様は、この地に、確かにおられます」


沙耶の目に、涙が浮かぶ。

それは悲しみではなく、語りが届いたことへの、安堵の涙だった。


「語りは、消えません。

ただ、沈黙の奥に、誰かが聴くのを待っているのです」


沙耶は、深く頭を下げた。

その胸に、ひとつの思いが芽生えていた。

(継がれずとも、記憶はただ、そこにあるのだ)


その後、久玖里は、沙耶に導かれて水源寺すいげんじの客間へと向かった。

廊下を歩くふたりの足音は、静かだった。


客間は、庭に面した一室。

障子越しに水座のせせらぎが微かに聞こえる。


「こちらへどうぞ」

沙耶が襖を開ける。

久玖里は一礼し、部屋へ入る。

水の音が、語りの疲れをそっと包み込むようだった。


「本日は……ありがとうございました」

沙耶が深く頭を下げる。


「涼木様のお声が届いたのは、沙耶様の願いがあったからです」

久玖里は静かに応じる。


「それでも……久玖里様がいなければ、母上は現れませんでした」

ふたりは言葉を交わしたあと、しばし沈黙した。

その沈黙は、語りの余韻ともいえた。


やがて、沙耶は一礼して部屋を辞す。

久玖里は、炉の残り火を見つめながら、目を閉じた。


その晩。 沙耶は、本堂の仏前にひとり座していた。

水煙菩薩の前で、両手を合わせる。

語りを目の当たりにした今、彼女は仏の沈黙に、あらためて耳を澄ませていた。


「母上の声が、届きました。  語りは、消えていませんでした」

沙耶の声は、誰に向けたものでもない。


ただ、仏の前に置かれた水鉢の音に、静かに溶けていった。

その夜、水源寺の空気は、火と水と沈黙が交わる、深い祈りに包まれていた。

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