2 火と仏との境界にて
火嶺を後にした清人ら一行は、水守へと向かう山道を進んでいた。
朝の光が差し始めた山肌には、まだ火の気配が残っているようだった。
「……あの女、何をしていたのだ」
清人が口を開く。
誰もすぐには答えなかった。
やがて、成通がぽつりと呟く。
「語っていたのだと思います。火に、あるいは……火を通して、何かに」
「だが、声は聞こえなかった」
道信が言う。
その声には、わずかな苛立ちと、戸惑いが混じっていた。
「妙な力で、我らを出し抜く気なのか?」
清人が訝しげに言う。
「いえ、今のところ政の一手は我らが上。問題ありますまい」
成通が応じる。
道信は小さく呟いた。
「火が語るとは、どういうことなのか……」
山を下りると、湿り気を帯びた空気が迎えた。
湧水の流れる音が、火嶺とは異なる静けさを湛えている。
水守郷――
火嶺の南に広がるこの地には、豊かな湖があり、荘厳な寺院・玉鏡山水源寺がそびえていた。
その姿が見えると、道信の心は少し平静を取り戻した。
門前で出迎えたのは、水守郷司・水実清澄尊だった。
端正な顔立ちに、どこか冷ややかな眼差しを湛えた男である。
「水守へお帰りなさいませ。遠路はるばるご苦労様でした。火嶺はいかがでしたかな?」
三人は苦笑いを浮かべる。
「なんとも。皆が清澄様のようにヤマトと友好であればと、痛み入ります」
道信が応じた。
実のところ、三人は先に水守郷へ入ってから、火嶺へと出向いていた。
寺院もあり、水守は仏の庇護を受ける地である。
清澄は一行を寺へと案内しながら、続けて尋ねた。
「高見殿は、あいもかわらずでしたかな?」
「……不遜な男であった。ヤマトを何と心得る」
清人が吐き捨てるように言う。
「不遜、ですか」
清澄は笑みを浮かべた。
「私たちも、火巫には手を焼いております」
道信はその言葉に、含みを感じ、わずかに眉をひそめた。
(清澄様は我らに何か隠しているのかもしれん)
「火の語り部というのを見ました。ご存知で?」
不穏な空気を察した成通が取り繕うように清澄に尋ねる。
「つまらぬ古い慣習ですよ」
清澄は軽く流すように言った。
そういって、寺院へと誘う清澄に、三人は何やらもどかしさを感じながらも、後に続いた。
清人と成通は早々に、客間へと向かった。
道信は本堂で一人、仏と向き合っていた。
水源寺には百済由来の釈迦像とともに、水煙菩薩と慕われる像が祀られている。
その顔は、深い静かな水の如く、うっすらと開いた眼差しを道信に向けていた。
「水煙菩薩様は、仏教がこの地に来る以前、はるか昔より、我らをお守りくださっている方です」
音もなく本堂に入ってきた清澄が言う。
「祖父の話では、水煙菩薩様は元々、象られるものではなかった。
我が水守の一族は、形をもたない水を通じて、その御心を感じていたといいます」
「水の語り……」
道信は菩薩から目を離さず、つぶやいた。
「いかにも」 清澄はうなずき、道信の様子を少し眺めていたが、やがて静かに本堂を後にした。
残された道信は、静かに合掌する。 瞑目したその瞼の裏に、久玖里の舞う姿がよぎる。
火の揺らぎに合わせて動く腕。 火との語りと、そこにある信仰。
(仏になり代わるものがこの世にはあるというのか、いや……まさか)
道信は、疑念を払うように、経をあげ始める。
(仏の救いがあらんことを)




