1 火と継との始原にて
早春の夜明け前。
はるか昔、神々が降り立ったとされる火嶺郷の山々は、まだ深い闇の中に沈んでいた。
風はなく、ただ山の底から立ちのぼる湯気が、白く、静かに空へと昇っていく。
その湯気は、地の奥に眠る火の気配を孕んでいた。
一際高く、存在を示す火嶺山は、かつて噴き上げた火の記憶を今も抱えている。
山肌には噴気孔が点在し、夜のあいだもかすかに赤く脈打っていた。
地鳴りはない。だが、沈黙の奥に、火が息づいている。
それは、語らぬ神の呼吸のようでもあり、
遠い昔に交わされた約束の、微かな残響のようでもあった。
その中心の台地に広がる草原の奥には、この地に古くから根を張る豪族――火巫氏の館があった。
今の長は、火巫高見命という。
政治と儀礼を担うその館は、台地から火嶺の集落と田畑を見下ろす位置に築かれている。
館の最奥には、岩壁で囲まれた半地下構造の小空間――火の間があり、
その中央には石組みの炉(火座)が据えられ、常に火が灯されていた。
高見の娘、火巫久玖里が、その火に向かい合っていた。
火の向こうに見える奥壁には、朱で描かれた五重の同心円が浮かんでいる。
火を信仰する火嶺において、久玖里はその語り部としての役割を担っていた。
火の語り部とは、火を通じてこの地に記憶された語りを聴く者。
代々の語り部は、その役目を継ぐとともに、ある異能を受け継いできた。
久玖里は祈りを込めて手を胸に掲げ、そっと目を閉じる。
すると、五重の同心円が淡く光り始める。
赤い光の中から、薄っすらと老いた女の姿が現れた。
「……ごきげんよう。お祖母様」
「息災か、久玖里」
火巫明羽。久玖里の祖母であり、かつて語り部として生き、久玖里へと役目を継いだ者。
火の語り部は、死後、火に還る。
そして新たな語り部にのみ語ることができる。
その異能によって、火嶺は長らく守られてきた。
火の間の同心円は、その入り口。
火巫氏にとって何よりも重要な場だった。
明羽はこうして、孫の語りを見守り、助言を与えていた。
「火が、騒いでおる」
明羽の声はかすれていたが、確かだった。
久玖里は頷いた。火の揺らぎが、いつもと違う。
まるで、遠くの戦の気配を、火が先に感じ取っているかのようだった。
その頃、山の麓にある迎賓館では、高見がヤマトからの使者を迎えていた。
高見の正面に座る偉丈夫が、無遠慮に口を開く。
「葛城臣清人である」
あまりにも簡潔で威圧的な自己紹介は、不満のあらわれだった。
かつて葛城氏はヤマト王権の重臣として栄華を誇ったが、近年はその権勢に翳りが見え始めていた。
火嶺のような辺境への使者を任じられたことも、中央から軽んじられている証左と受け止めていたのだろう。
旅の道中も終始機嫌が悪く、随行の者たちを困らせていた。
「拙僧は道信と申します。本日は、大王からの書状をお持ちいたしました」
不穏な空気を断ち切るように、清人の横に座った僧衣の男が声を発する。
痩せぎすながら背は高く、眼差しは鋭い。
若いが、その声には重みがあった。
「忍壁首成通でございます。書状はこちらに」
清人と道信の背後に控えていた文官が、如才なく進み出る。
一礼ののち、巻物を差し出すその所作には、無駄がなかった。
書状を受け取った高見は、その場で開き、さっと目を走らせる。
火が、揺れる。
「この地は、ヤマトに属しておらぬ。遠路、ご苦労であった」
高見はまっすぐに清人を見て、言った。
清人の目に侮辱の色が浮かび、口を開きかけたところで、道信が制するように言う。
「すぐに答えは出ぬでしょう。もうひとつの要件から進めましょうか」
「もうひとつの要件?」
高見が尋ねると、道信は頷きながら続けた。
「この地に仏の慈悲を広めたく、寺を建てさせていただきたい」
「それは――」
「場所をどこにするか、火嶺の皆さまで相談ください」
受諾の返事も待たず、道信は言葉を重ねる。
高見は沈黙した。
「それでは、また謁見の機会を」
空気の変わり目を測ったかのように、成通が告げる。
それを合図に三人はすっと立ち、退室した。
あとには、火を見つめて沈黙を続ける高見がいた。
あくる朝。
火嶺郷の南、水守郷へと向かう清人ら一行が、迎賓館を出たそのときだった。
館の正面にみえる広場の中央に、ひときわ大きな火が焚かれていた。 火を囲むように人々が集まり、その輪の中心に、一人の女性が静かに立っていた。
「……あれは何だ」
清人が訝しげに呟く。
だが、道信も成通も答えを持ち合わせていなかった。
そこへ、彼らを接待していた男が後ろから現れ、静かに言った。
「今日は“火の記憶”を迎える日でして。あの方は火巫久玖里様。火の語り部でございます」
「火の語り部?」
道信が低く呟く。
三人の視線が、久玖里へと向けられる。
白麻の儀衣をまとい、胸元には火巫の印――三つ巴の勾玉を模した玉飾りが揺れていた。
やがて、彼女は一歩、火へと踏み出す。
その足取りは、まるで風のように音もなく、
火の揺らぎに合わせて、ゆるやかに腕を広げる。
久玖里の動きは、火の呼吸に寄り添う所作だった。
右手が火の上にかざされると、火がわずかに高く立ち上がる。
左手が円を描くと、火を包むように地面に描かれた五重の同心円が淡く脈打った。
彼女は円を描くように舞う。
その動きは、火巫の血に継がれてきた記憶の再生でもあった。
やがて、久玖里は一度、膝をつく。
両手を火に向けて差し出し、額を地に近づける。
「火よ、語れ。 我が身を通して、 この地の記憶を」
小さく呟かれた言葉は、不思議と、誰の耳にも明瞭に届いた。
「あっ……」
成通が思わず声を漏らす。
久玖里の語りかけに、火が応えた。
ひときわ高く火柱が立ち上がり、同心円が赤く輝く。
久玖里の瞳が、朱に染まった。
人々が火柱の大きさにどよめく中、
火の奥から、火嶺の記憶がささやきとなって久玖里へと届いていた。
久玖里の口が、ゆっくりと開く。 火へと語り始める。
だが今度は、その声は誰にも届かない。
火と久玖里だけの世界。
それを聴くことができるのは、火巫の血を引く者だけだった。
やがて、久玖里の瞳が静かに黒へと戻る。
彼女は顔を上げ、集まった人々を見渡し、短く告げた。
「田起こしを、三日後におこなう」
その言葉を聞いた者たちは、我先にと村中へ知らせに走り出した。
「お気をつけて」
世話役の男は、何事もなかったかのように三人に声をかけ、館へと戻っていった。
「……いったい、何なのだ」
清人がぽつりと呟く。
一部始終を見ていた三人は、言葉にできぬ感情を胸に抱えながら、 火嶺を後にしたのだった。




