その31
三十一
九藤の身体は背中から草むらに激しく叩きつけられた。
「!」「!」
萃香は思わず立ち上がり、紫も空間の裂け目から身を乗り出した。
彼らの前で起きた現象は、閃光のようでもあり、噴出する蒸気のようでもあり、何かの爆発のようでもあった。その怒涛の拡がりは一瞬にして飛散し、闇に包まれた空間へと吸い込まれていった。
イヅナは咲夜に蹴られた勢いで横っ飛びに転がったものの、すぐに起き上がる。だが、九藤のほうはぴくりとも動かない。
「……おい!」
イヅナは九藤のそばに駆け寄りかけたが、途中で固まったように動かなくなった。
そこへ、矢のような速さで空中を駆けてきた影が、一直線に九藤のところへと降りてきた。
月の光に浮かび上がったその姿は、紅白の服を着けた少女だった。
袖をなびかせて降り立った少女は、九藤を一目見て棒立ちになった。
そして、そのまま青ざめた顔で見下ろしていた。
林の中からその様子を観ていたレミリアも、なかば呆然とした表情をしていた。
「……お嬢様?」
「腕がね……」
「え?」
「あの男の腕が、ちぎれ飛んだ」
「!」
咲夜の表情がさっと曇る。
「ただ、それがね……戻ってるの。いま、まさに」
「戻ってる?」
「再生しているの、肉体が」
イヅナと霊夢の眼前で、消失していた九藤の肩から先が、まるでパズルのピースが自動的に集まってくるかのように再形成され、次第に腕と手、指の輪郭を取り戻しつつあった。
そして数分も経たないうちに、破けたままになっているシャツの肩口の部分から素肌のままの右腕が元通りに現れて、その再生の過程は完了した。
「…………」
霊夢は緊張した表情で九藤のそばに片膝をつくと、手にしていた大幣を右手に持ち替え、空いた左の手のひらを草むらに横たわる九藤の額の中心にそっと当てた。
すると、九藤の頭がかすかに動き、それから閉じていた眼がゆっくりと開いた。
**********
目の前に、彼女の顔があった。
「……あれ、どうして……つっ」
痛い。
右肩から肘にかけて、ひどい痛みが走った。折れているのだろうか?
背中もかなり打った感じだが……不思議とだんだんと痛みは引いてきている気もする。
「動かないで」
叱るような口調で言われる。
「……気絶していたのか?」
「ほんの一瞬だけです」
彼女はそう言うと、すこし離れたところに立っていたイヅナくんをちらりと見た。
「いずれにしても、この勝負の決着はつきました」
それから彼女は……博麗の巫女は、息を吐いた。
「ひとつだけ、教えてください。戦っている最中に、何か異常なことが起きたんじゃありませんか?」
「起きた」
私は正直に言った。
「魂が人形のほうに移ってしまって……本体が意識をなくしたみたいだ。それで問題が起きたようだ」
一瞬、体の中からすべてが吐き出されるような感覚があった。何が起きたのかは自分ではよく分からないが、おそらく吸い取った力が吐き出されたということなのだろう。
「じゃあ、その間に起きたことは憶えていない?」
「ああ。きみは……見たのか?」
「……ええ。ここに着く直前ですが。相当に大きな『力』があなたの身体から放たれました。それはあなた自身だけじゃなく、相手をも危うくするかもしれなかった。それが術者として、どういうことなのか分かりますか?」
私は、恥じ入った。
「……無責任きわまりなかった」
「なら、いましておくべきことがあるはずですね?」
「そうだな」
私は近くに来ていたイヅナくんに顔を向けた。
「申し訳なかった。まだ自分の能力を把握していない状態で、きみに勝負を申し込んでしまった。もちろん、この勝負は私の負けだ。降参させてくれ」
「いや、ああ、だけど……」
イヅナくんは困ったような顔をしている。動物がベースなのに、こういう表情ができるというところが、ある意味妖怪らしさということなのだろうか。
「いずれにしても、力を持つ者には相応の責任があることは分かってください……」
彼女はいったん口をつぐみ、それからもう一度、息を小さく吐いた。
「それじゃ、これ以上はいらざるお節介ということになるでしょうから」
彼女はふわりと浮き上がる。
「待ってくれ、ひとつだけ教えてくれ」
私は地面に仰向けになったまま、呼び止める。
「きみはこの勝負を初めから見ていてくれたのか?」
すると、彼女はきっぱりとした調子で言った。
「いいえ。そんなことはしませんし、できません」
「……では、どうしてここに?」
一瞬、彼女は虚を突かれたような顔になったが、すぐに返事をした。
「……異常を感じたからです。勘みたいなものですから、それが何なのかは説明出来ません」
「そうか」
そう言われてしまえば、それ以上は追求もできない。
「……それじゃ」
彼女は、まるで天女のようにゆらゆらとした動きで月の光に照らされながら空中へと舞い上がり、闇の中へと姿を消した。
異常を感じた、か。
神社にいたのだとしたら、それを感じてからここに来るまでの速さが尋常じゃないな。
場所と日時は知っていたわけだから、初めから監視していたとしてもべつにおかしくはないのだが……まあ、そこは疑ってもしかたがない。
と、イヅナくんの顔がふたたび視界に現れる。
「……だいじょうぶか」
「ああ。迷惑をかけたね」
「いや、なんていうか……巫女はああ言ったが、正直、これで勝ったことにしていいのか分からねぇな」
「私が未熟だったということだよ。さっきも言ったが、自分の能力を……よく理解できていなかったんだ。『吸い取る』だけではなくて、『吐き出す』方の制御も必要だったようなんだが、分かっていなかった。勝負はきみの勝ちだ」
私は頭を動かして、桜の木の下を見た。いつのまにか、鬼の少女は姿を消していた。
「臨時の観客もお帰りになったようだな……」
すると、イヅナくんが遠くを見るように首を伸ばし、周りをうかがってから言う。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで引き上げるが……お前は大丈夫か、帰れるか?」
「ああ」
私は左腕で身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
「まだ腕に痛みはあるが、歩くには問題ないよ」
「…………」
イヅナくんは、まだ心配そうな様子だったが、やがて言った。
「何かあったときは、またいつでも例の境の石に合図をしてくれよ。俺で良ければ話しぐらいは聞ける」
「ありがとう。約束の件は必ず果たす」
「まあ、それは急がなくていいぜ。じゃあな」
**********
林の樹上では、二つの影がひそやかに言葉を交わしていた。
「まずは、永遠亭よ。あの連中が来る前に手を打つ必要があるわ」
とレミリア。
「あの医者が以前不老不死の仙薬を作ったというのはけっこう知られているわ。だから、仮に新たな不死の者が現れたりしたら、まっ先に疑われるのはあの医者で、そのことを本人も自覚しているはずよ。もし、この事実を知ったら、ことが公になる前に、あの男
について何らかの処断を下すかもしれない。極端な話、どこかに幽閉するとかね……」
「では、どこかで彼を保護してもらう、と?」
「いまはまず人里に帰すことよ。人里は永遠亭といえども無闇に手を出せる場所ではないわ。ただ、策を弄する余地はあるかもしれないけれど……時間稼ぎはできるはず」
レミリアはすこし考えてから、決断した。
「わたしがあの男を連れて帰るわ。いざとなれば、人間ひとり運ぶぐらい、どうってことはないから。咲夜、あなたは霊夢のほうをお願い。霊夢はさっきはなんとか頑張っていたけど、かなり衝撃を受けたはずよ。一人にしておくのはよくない。それに、さっきの件を霊夢が見たことを、永遠亭の誰かに知られているかもしれない。あそこの連中の哨戒体制は半端じゃ無いから、油断できないわ。もちろん、わたしたちのことももう知られていると思ったほうがいい。そう思って移動しなさい。霊夢は、場合によっては紅魔館に連れてきてもいい。そこの判断は任せる」
「かしこまりました。では」
咲夜の姿がすぐに消える。
レミリアは周囲の様子をうかがってからおもむろに空中に飛び立ち、それから桜の木の下へと向かっている人影のそばへと近づいていった。
**********
「良い夜ね」
上から声がした。見ると、翼を拡げた銀髪の少女が夜空に浮かんでいた。
「レミリアさんでしたね。こんばんは」
「なんだか、強烈な気配を感じたから夜の散歩の途中で寄り道をしてしまったんだけど……もしかして、あなたが原因なのかしら?」
「あー……それはすいませんでした」
この吸血鬼の令嬢に今回のことを知られたからといって、とくに何の問題もありはしないが……。
しかし、こちらからわざわざ宣伝することではないか。
私はそこでふと自分の右腕を見る。シャツの袖がまるごと無くなって、肩からむき出しになっている。
こんな状態で、何があったのかと訊かれて、急ごしらえの話ができるほど器用ではない。
「実は、ある妖怪とちょっとした勝負をしまして、それが終わったところなんです」
「……なるほどね。それで、これから家に帰るということね?」
「ええ」
やけにあっさり納得したな。まあ、事実を正直に言ったのが良かったか。ただ、このあいだのやりとりからすると、もう少し好奇心が強い感じではないかと思っていたのだが。
私は桜の下に畳んでおいたコートを片手で拡げたが、右腕を動かすことができなかったので袖を通すのがむずかしそうだった。
すると、いつのまにかレミリア嬢がすぐそばに近寄ってきていて、私に言った。
「右腕を怪我しているの? 良ければ袖を通すのを手伝ってあげるわよ」
「きょ……恐縮です」
「ずいぶん堅苦しい言葉を使うのね。しゃがんでくれる? わたしの背丈ではあなたの肩には手が届かないわ」
「はい」
私が膝を折ると、レミリア嬢は私の右腕をあまり動かさないように注意しながら、後ろから丁寧に袖を通してくれた。
「……ありがとうございます」
「ふふ、こういうのって、なかなか新鮮ではあるわね。わたしはいつも『される』側だし、殿方にコートを着せるなんて機会なんてまずないわ」
「そうでしょうね……」
私はマッチを取り出そうとポケットを探ると、レミリア嬢が訊ねる。
「なにをしているの?」
「ランプに火をつけようと思って」
「ああ、それは目立つからやめたほうがいいわ。人間がここにいると教えるようなものよ」
「ですが、さすがにこの暗さだと……」
「大丈夫よ」
レミリア嬢は私に消えたままのランプを手渡すと言った。
「それじゃついでにもう少し大胆なことをしてみましょうか」
その言葉と同時に、私は自分の身体が浮かび上がるのを感じた。
「えっ?」
「人里まで送ってさし上げるわよ」
後ろから抱きつかれているようだが……むしろ抱え上げられている、ということなのか?
地面がみるみるうちに下へと遠ざかってゆく。
「いや……あの、そこまでしてもらわなくても……」
以前妹紅の背中に乗せてもらったのとは違って、この体勢だといささか恐怖感がある。
「吸血鬼の運動能力は、人間などとは桁違いなのよ」
声が後ろから聞こえる。
「間違っても、あなたを落としたりなんかしないわ」
遠ざかった地面全体がゆっくりと流れるように後方へと移動し始める。シュールな情景だ。
「どうせなら、お姫様抱っこでいきたいところだったけど、それは男性として屈辱的かなとも思ったから」
「…………」
「あら、どうしたの。さすがにいきなりの空中遊泳はお気に召さなかったかしら?」
「いや、思いがけなかったので……」
正直、幻想郷に移住して以来の最大の恐怖体験だった。
その32につづく




