9 天より来たりし
女性二人にとってなんの不都合もなかった家の扉は、天人の男の長身には少しばかり窮屈らしい。金色の頭をぶつけぬように首を縮め、屈んでそろりと進むさまは、見知らぬ場所を警戒する臆病な獣にも似ている。
そうして三人目が扉を潜ると、魔女の家は実に狭苦しい空間となった。
アイが入って来た時は気にならなかったが、男のほうは煤に汚れて灼けた匂いがする。
みてくれは絵に描いたような金髪碧眼で、驚くほど整った容姿の男だ。身なりもこんな辺鄙な森の奥深くにやって来るのが不自然なくらい洗練された衣装を纏っている。しかしその腰の剣帯からぶら下がる鞘には納まるべきものがなく、あちこち灰色に汚れた様子はどうにも相応しくない。一言でいうならば、間が抜けている。
マーゴは胡散臭いものを見る目で顔をしかめ、鼻っ柱に皺を寄せた。
「ぼうっと突っ立ってられると邪魔だよ、とっとと座りな」
犬か猫でも追いやるように手を振って、ふたりの客に着席を促す。
小さな平屋の中心に置かれた食卓は相応に小さかった。椅子も二脚しかない。そこへ客ふたりがそそくさと腰かけると、アイの前に来客用の杯が、天人の男の前に間に合わせの縁の欠けた杯が、マーゴの手によって並べられる。
杯には薄い琥珀色の液体が注がれていた。冷めているため香りが弱く、何を煎じたものかはわからないが、おそらくは香草茶の類だろう。
ふたりに椅子を勧めたマーゴは自分が愛用している杯を手に持ったまま、億劫そうにかまどに寄りかかった。
「それじゃ、説明をしてもらおうか」
茶を啜りつつの横柄な家主の言葉に、アイは姿勢を改めた。
肩に乗っていたシャルロはフリルの裾が波打つ膝の上に移り、大人しく丸くなっている。その夜色の鱗が並ぶ背中に手のひらを置き、小竜の隣にガルメディウスの面頬を置く。膝の上の大事なふたつを落とさないよう両手で囲いつつ、どこから話そうかと思案して、視線をさ迷わせた。
黒い瞳に映る景色は、真正面で嵩張っているものがほとんどを占めている。警戒を解かないシャルロの視線と、刺々しいマーゴの視線もそこに突き刺さっている。ならばみなの目につくその異物から、と口を開いた。
「こちらは、ええと……なんだったかしら」
だが立て続けに起きた目まぐるしい出来事を見守るだけで精一杯だったアイは、曖昧にしか残っていない記憶を探るように虚空を見つめ、眉を寄せる。
「確か、ディレ、レ……レン?」
「ディレレレン。変な名前だね」
明らかにうろ覚えの呟きを、魔女はわざわざ棒読みで復唱してみせた。森を脅かした一因を担っているだろう男に対する厭味以外の何でもない。
「──ディレクトス=ベクトレン」
むっすりと、眉間にかすかな谷を作って、嵩張る異物の男が名乗る。
「長ったらしくて面倒臭い。ディレレレンのほうがまだ呼びやすいじゃないか」
魔女はふんと鼻を鳴らして切り捨てた。
アイは以前に自分が名乗った時に魔女が下した「短くて地味な名前」という評価を思い出して、くすりと小さく苦笑をこぼす。アイの名は簡素ゆえにそのまま呼ばれて今に至るが、自分の薄い記憶のせいで天人の呼び名がおかしな名前になるのはさすがに気の毒である。名前はその人の人格と性質とを内包する大事なものだ。敬意を持って尊ぶべきだろう。
「ディレンと呼べばいいかしら。そのほうがもっと呼びやすいでしょう。どう?」
口にし易いというだけで、軽んじているわけではない。他に含みはないことを示すように、アイはなるべく邪気のない表情をつくって首を傾げてみせる。
ディレンと呼ばれた男はむっつりと頷きを返した。
「で。そのディレンとやらが森に火を放ったのか」
少しばかり恨みのこもった魔女の言葉が男に向けられる。
アイが見つめる先で、ディレンはむっつり顔のまま視線を落とした。直接の原因ではないものの、ばつが悪いと感じているらしい。居直るほど厚顔でもなく、無駄な言い訳をしない殊勝な姿に、アイは黙っているわけにもいかなくなって口を挟む。
「いえ、違います。その……ディレンは、わたしをガルメディウスさまと間違えていて、最初はそのことでちょっとした諍いがあったのです。恐らくそれを案じたガルメディウスさまが、人界へ来てくださって」
そしてその後に起きることを思いだし、アイは膝の上に置いた手のひらを握りしめた。俯くアイには見えていなかったが、魔女は信じられないものを見たと言わんばかりに両眼を見開く。
アイのあるじ、ガルメディウスが魔人だということは伝え聞いていたが、天魔が人界に現れたという話は風の噂でも耳にしたことがない。もう二百年近く、顕現した記録も残されていなかった。
「最初はディレンと戦っていたのですが、空を裂いて別の天人が現れて……ディレン、貴方はあれが誰なのか知っているふうでしたね」
別の天人。
広大な森を脅かす規模の戦いがあったのだ。魔人の相手が務まるのは天人以外にないだろう。理屈でそこまで推しはかることは出来ても、魔人に続いて天人まで現れるなどと、簡単に信じられるものではない。
頭を抱えたくなったマーゴの耳に、追いうちをかけるような男の台詞が続く。
「煌の君の御側に侍りし十二の騎士が一人、戦侯ミトラスだ。彼の騎士はかねてよりの因縁を持つ獄炎と決着をつける機会を」
「ああもういい、もうたくさんだ! 天魔になぞ関わりたくない」
つらつらと恐ろしい言葉を並べられ、怖気を感じた魔女は、男の説明を叩き切るように封じる。今聞いたこともふるい落として忘れたいという様子で首を振り、盛大に溜め息を吐いた。
内情を知っているらしき詳しい説明。メイドの「別」の「天人」という言葉。確かめるのが嫌で尋く気にはならないが、今ここにいるディレンという男の素性が薄々と察せられてめまいを覚える。
この森はいつから天魔がほいほいと現れる場所になったのだろう。
「で、のこのことあんた達が歩いて来たってことは、もうその災厄は人界から消え去ってくれてるんだろうね。あたしゃそれだけ聞ければいいよ」
噂話など続けて、当の本人にそれを聞きつけて来られたらたまらない。
恨めしげな魔女の視線を、メイドは少しばかり消沈した様子で受け止めた。
「天人は消えました。天界へ帰ったのだと思います。 ……ガルメディウスさまは、天人の槍に散らされてしまいました」
一度しょんぼりと肩を落とし、それから顎を引き上げて、決意を宿した黒い瞳で真っ直ぐに前を見る。
「わたしはそれを探しに行こうと思っているのです」
「……あんたその御主人とやらをどうやって探すつもりなんだい」
マーゴはアイからあるじの話を聞いたことはあっても、会ったことはない。魔人だということは半信半疑ながらも引き連れている魔獣の存在から感じていたが、アイ自身は実に無害で世間知らずなただの娘だ。
「シャルロに案内を頼みます。もとよりガルメディウスさまにつかわれていたモノですから、あるじの気配を探してくれるでしょう」
星空模様の竜は会話に出た己の名に反応を見せ、周囲を探るように見回してからアイの肩へ駆け上った。
「ね、シャルロ」
鼻先を寄せる竜の顎をアイが掻いてやれば、その小さな鱗の生き物は気持ちよさそうに目を細める。
「それで、いつもは食糧や糸と換えてもらっていましたけれど、今日は別のものでお願いしたいのです」
アイは足元に置いていた籐籠から布の包みを引っ張り出す。
「燻されて煤の匂いがついてないといいんですが」
生成りの布を開くと、その中も布がぎっしりと詰まっていた。だがきちんと折り畳まれたそれらは、細い糸から編んだレースと細かな刺繍が施されている手の込んだ一品だ。
皺が刻まれた魔女の手が伸びて一番上の一枚を無造作に掴み取り、両手で広げてはたはたと揺らした。
「ふん……この程度なら香を焚き染めればごまかせるだろうよ。持ってる石もいくらか出すんだね、代わりに金をくれてやる。しばらくは換金してくれるような場所はないよ」
物の言い方は乱暴だが、アイにとって何よりも有り難い申し出だった。
「助かります」
魔界は地底にあるだけに、輝石の類がごろごろしているらしい。給金代わりなのか、あるじが折に触れて寄越してくれるそれらと自分で作った物を代価に、アイは魔女から生活に必要なものを物々交換で譲り受けていた。魔女は強い魔力が宿った魔界の石と希少な植物の精油、高く売れる織物などを、アイは薬や食糧、自分では作れない加工品などを手に入れる。今まではそれで充分だったが、この先旅をするなら貨幣を持っていたほうがいいだろう。
女二人が煌びやかに輝く宝石のかけらと精緻な刺繍を施された美しい布地で食卓を埋め尽くし、その価値を計ってあれこれと話し合う傍らで、蚊帳の外に置かれて独り黙する男はすっかり端に追いやられていた。
しだいに太陽が茜色を帯びて、日没が近付く気配とともに窓から差し込む光が弱くなると、長々と続いた交渉はようやく切り上げられた。
マーゴは夕食の支度のために野菜の皮むきを始め、アイはそれを手伝って、シャルロと共にかまどの火をおこす。下ごしらえをしていくうちに日が沈み、すっかり暗くなった窓の外を見るアイに、家主の魔女は先を読んで決め事を提示した。
「アイ、あんたはうちの床で寝てもいい。だけどそっちの木偶の坊は駄目だ。裏の納屋へ行きな」
魔女の家はお世辞にも広いとは言えない。かまどがあるこの部屋は土を踏み固めてあるだけで、隣の寝室の床ならば板が張ってあるものの、つましい独り暮らしの部屋に余分な空間もない。横になれるのは寝台でひとり、床でひとりが精一杯だ。
となると剥き出しの土の上で寝るよりは、納屋のほうがいくらかましだろう。あそこはマーゴが飼う驢馬のために藁が敷き詰められている。
家畜と同じ寝床というのは少しばかり気の毒ではあるが、以前から付き合いがあったアイと見知らぬ男では扱いが変わるのも仕方がない。夜露をしのげるだけで十分に有り難いと、アイは素直に礼を言った。
「ありがとうございます。でも追い出す前に少しだけ、いいですか」
「好きにすりゃいいさ。あたしはその必要があるとは思わないがね」
相変わらず険のある態度に、アイは苦笑をこぼしつつ手を動かしていく。
手際よく作業を分担し、並んで淡々と料理するふたりの背後で、所在のないディレンは椅子に座ったまま、ただひたすらに沈黙を守るのみだった。
あらかたのものをかまどの鍋に放りこみ、あとは煮込むだけになると、アイは一度沸かした湯を桶に満たして食卓へと運んできた。そうして魔女との交渉で受け取ったものの中から、小さな陶器の瓶をとりあげる。
「背中をみせてください、ディレン」
感情を押し込めた黒い瞳が天人の男に向けられた。
「……何故だ」
「傷の手当てです。天人に人間の薬が効くかはわかりませんが、何もしないよりましでしょう」
手にした瓶の蓋を開け、中身を確認するように傾ける。こぼれ落ちてこないところをみると、瓶に詰められているのは粘度の高い軟膏なのだろう。
男の背中にあったはずの翼は、獄炎に灼かれて引き裂かれ、今や付け根部分がわずかに残るのみという無惨なありさまだ。もぎ取られた時の激痛は治まっていても、わずかな空気の揺らぎが傷口に触れるだけで、染みるような痛みが全身に響く。
人間相手に弱音を吐くなど認められることではないが、手当てを必要としているのは真実だった。
天人の葛藤をよそに、メイドはてきぱきと働いて着実に準備を進めていく。白い指先が湯気を昇らせる桶の中に布を沈め、軽くゆらがせると、すぐに引き上げて両手で絞る。水気を切ったその布を手にして、ディレンの後ろにまわった。
「さあ、服を脱いで」
背後からの声に、ディレンは身体を強張らせる。
「早く。湯が冷めてしまいます」
責めるように急かされ、強迫観念に近い焦りを感じて、言われるままに服の留め金に手をかけた。
儀礼服は着用に要する手順が多い。その逆も然り。傷の痛みも重なって手間取るさまに、両脇からメイドの指がするりと沿わされてそれを手伝い始めた。
翼を持つ天人の衣服は背中に切れ目が入れられている。裾から上へと昇り、大きく開いた穴に両翼の付け根を通してから、留め金でとめる。ディレンが着ている儀礼服は、穴を覆い隠すために肩の切り替え部分から一対の翼の間を下がる布があり、つくりはより複雑だ。
アイは興味深そうにその縫製を観察していた。レースや刺繍を得意とし、己の着る服を自ら縫って作るだけあって、こういう凝った衣装を見るとその技術が気になってしまう。
わざわざ服を脱がす手伝いまでする理由はその欲求のためだけだったが、アイの事情など知るべくもないディレンにとって、この状況は非常に不可解なものだった。
ディレンは魔人と敵対する天人であり、アイは魔人をあるじとして仕えていた人間である。
わざわざここまでそのメイドを追って来たのは、魔人ガルメディウスの庇護を受けていたという弱き人間を、身の安全が保証されるまで代理として護り、魔人に従い頼る考えを改めさせるためだ。
だというのに、天人のディレンに対し、頑なな態度をとりつつも表立って敵意を向けず、それどころか手当てをしようとする。
魔人への忠誠をなくしたわけでもない。獄炎の魔人ガルメディウスの残滓、黒き兜のかけらは、フリルの白布を下に敷いて大切そうに食卓に置かれている。忙しく働くメイドに代わり、小さな竜が椅子から首を伸ばして食卓の上に顎だけを乗せ、ガルメディウスの兜のかけらをじっと見つめて、目を離さずに見張っていた。
考えを改めさせる。そのつもりが、いま目の前にあるものは、魔人とそのしもべ達の強固な絆と、庇護を与えるべきひ弱な人間から手当てを受ける己という、目的からかけ離れた全くの真逆のものだ。
「傷に触れますよ。痛むと思いますが、少し我慢してくださいね」
結果としてメイドの言葉に従うしかなく、自身の存在意義を見失いそうな現状に、ディレンは苦痛の呻きを噛み潰し、沈黙を守る以外の選択肢を持たなかった。