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その四十五
翌日は七時ごろすっきり目が覚めた。
五キロほど朝のジョギングをたのしむ。
シャワーを浴び、さわやかな気分で朝食の用意をしていると、誰かが部屋のチャイムをピンポンピンポンピンポンと必要以上に連打してきた。
「はーい」
とりあえず出てみる。
「あっ、いたのね。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
すると天地小巻ちゃんが靴を脱いで部屋にあがってきた。
現役当時よりだいぶぽっちゃりしていた天地小巻ちゃんは、キャハキャハわらいながら、
「あなたがクロスピンクなの?」
ときいてきた。
「え……」
パニックぎみになっていると、小巻ちゃんはその返事にはこだわらないで、
「エリマキトカゲはあなたがつくってるの?」
とさらにたずねてくる。
小巻ちゃんは、火野きよしさん経由で知った神秘の生物マーシシマイをいち早くおびき寄せるために、マーシシマイの好物とされているエリマキトカゲを求めてこちらにお越しになったようだ。
「例のあれを捕獲するためにですか?」
「そうなの。マーシシマイはエリマキトカゲを主食にしているんですって。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
マーシシマイの極秘情報は、原田くん、火野きよしさん、小巻ちゃんという順で受け継がれていったので、小巻ちゃんのところまで届いたときには伝言ゲームのように若干の狂いが生じていた。
マーシシマイはゲテモノをよくおやつとして食べているが、ほんらいはご飯党なんですよ、とこの生物の成立(?)にもたしょうかかわっているぼくは説明する。
「でも、わたしはエリマキトカゲって、きいたんだけど、キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
小巻ちゃんは下駄箱のうえに置いてあるクロスピンクの金髪付きヘルメットに気づいた。
いちおう脚本では、このプロテクターを身に着けてエリマキトカゲの焼物を作ることになっている。
「じゃあ、いますぐエリマキトカゲつくって」
といわれるかもしれない。ピンチである。ぼくは、
「そのヘルメットは、まよまよまよまよ魔除けなんです」
と小巻ちゃんにいい張ったのちに、
「ですからマーシシマイは、そば屋に行ってもご飯ものばかり注文してるんです。天ぷらそばが有名な店なのにねぇ、ぜんぜん聞く耳もたないんですよぉ。筋金入りのご飯党なんですな」
とくり返し訴えた。すると小巻ちゃんは、
「ご飯はあるわね」
と炊飯器を確認する。
「マーシシマイはおそば屋さんでいつもなにをたのむのかしら? かつ丼? 親子丼?」
冷蔵庫のなかも物色する。
「うーん、これだと、たまご丼くらいしか、できないわね……」
小巻ちゃんは食器棚のほうも勢いよくかきまわす。
「まあ! ホットケーキの元があるじゃないの」
小巻ちゃんは瞳を妙にギラギラさせた。
「バターもあるし、シロップも市販のがあるから、これでいいわね」
小巻ちゃんは「マーシシマイはホットケーキが好物だ」などとはいっさい謳っていないのに独断で調理をはじめる。
「小巻さんは、ショートケーキづくりが趣味だったんじゃないんですか?」
「わたし白雪姫って、いわれてたでしょ? だからそれにひっかけて、そういうことになったの。白で合わせたのね。でもね、あのころわたし、お料理なにもできなかったのよ。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
小巻ちゃんは、ボールに移したホットケーキの粉をシャカシャカやりはじめていた。
ダイエット専門家女史がかつて暴露したホットケーキだかお好み焼きだかをフリスビーのように飛ばしてうんぬんという奇行を、
「やっぱり、本当だったんだろうな……」
と警戒したぼくは、このシャカシャカ中にお玉さんお手製の防災頭巾をはじめて実用を目的に装着する。
しかし小巻ちゃんは、焼きあがったホットケーキをこちらに逆水平式に投げつけてくるようなことはしなかった。キッチンに立ったままそのホットケーキを味見していた。
ホットケーキフリスビーに対応できるよう腰を落として身構えていたぼくにも、
「食べる?」
と声をかけてくる。
「いただきます」
ホットケーキを食べながら、
「あの『若葉のささやき』が入ってるアルバムは名盤ですね」
と話を振る。
「どのLP?」
小巻ちゃんはぼくが差し出したレコードジャケットをめずらしそうな表情でみていた。
小巻ちゃんはそのアルバムに入っている『遠い夏』も『ミモザの花の咲く頃』もいまいちおぼえていないという。
「シングルだったら『水色の恋』とか『ひとりじゃないの』とか『想い出のセレナーデ』などが、とくに好きなんです」
だからぼくは当時散々うたったであろう、代表的なヒット曲をあげてみた。
「ああ『水色の恋』なら、よくおぼえてるわ」
小巻ちゃんはぼくが淹れた紅茶をひと口飲むと、
「ここ、片づけて」
とコタツテーブルのうえを指さす。
すみやかに片付けると、小巻ちゃんはコタツテーブルのうえに乗った。
「コンサートのオープニングは、よくこの曲をうたったのよ」
アカペラで『水色の恋』をうたいだす。
しかし、天地小巻ちゃんは当時のような裏声が出ないだけでなく、水戸光子ちゃん以上に音感もなくなってしまっているのだった。
「つぎは『ひとりじゃないの』をうたってあげるわね。このころのわたし、ホントに白雪姫みたいだったの。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
小巻ちゃんは若いときから太りやすい体質のために苦労していた。
だから内府とも、
「ある程度は太っちゃってるだろ。しかし、たとえぽっちゃりしてても、あの歌声が聴ければ、じゅうぶんじゃないだろうか。おれは声は変わってないと思うんだ。太田裕美ちゃんだって、ぜんぜん変わってないんだからな。アグネス・チャンだって、いまでもみんなにちゃんづけで呼ばれてるわけだし」
「ぼくも、あの歌声が好きなんです。それに太っちゃったことによって、結果的に女ぶりがあがるっていうケースもありますからね。レネー・ゼルウィガーみたいに」
と小巻ちゃん復活の夢を語り合うさいは、太ってしまっていることを前提に話し合っていたのだが、
「わたし、のどをわるくして、もうファルセットは永遠に出せないのよ、キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
ということであれば、われわれがずっと夢見てきた「小巻ちゃん復活」は、ほとんど打つ手を失うわけで、
「どうして小巻ちゃんは声まで失わなければならないんだ……」
とぼくはさすがにガックリ肩を落としてしまった。
小巻ちゃんは、
「もう、声が出ないと知ったときはショックだったわよ」
とさらに凄まじく狂笑していて、そのキャハキャハをきいているかぎりでは、声を失ったこともあの輝きが消えてしまったことも、まったくショックを受けているようには思えなかったが、痛々しいアカペラを休憩してもらう狙いもあって、部屋にある天地小巻ちゃんコレクションをつぎつぎにみせると、おなかのところに紺と黄色と赤の太い線が入っている白いワンピースを着て左手で前方を指さしているご自身のブロマイドに小巻ちゃんはしばし見入っていて、つぎつぎにみせつつも、そのつどそのつど腰を落として身構えていたのは、定期的に妙な光りかたをする小巻ちゃんの瞳にあらためて危険を感じていたからでもあるのだけれど、このブロマイドをみつめていた小巻ちゃんの横顔にはその狂気はなく、ブロマイドの小巻ちゃんとおなじ相がうっすらではあるが、しかし確かにあって、ぼくはそれを見出した途端、まるで小石を落とすと広がっていくあの水の輪のように、あっ、ここにいるエキセントリックな婦人はこのブロマイドを撮影したときから四十年もの年月を過ごしたあの天地小巻ちゃん本人なんだ、世間とか時代とかにではなく、じっさいは自身の才能に振りまわされつづけたあの小巻ちゃんなんだ、と気づいた。
そしてゆうべ沼口隊長は輝きを失ったものは非現実的なものを求めがちになる、というようなことをこぼした汁や水滴をエルモアでマメに拭いたりしつついっていたが、あれだけの輝きを得、まだ若いある日に突然それを失う、というきっといちばんダメージを受けてしまう人生は、宇宙人だとかマーシシマイだとかに没頭したり、凡庸パンチのグラビアですごいポーズをとっちゃったり、二百人も女をだましているあの火野きよしさんに逆求愛したりしなければ乗り越えられないほどきついことだったのかもしれない、あるいはわれわれへの抗議だったのかもしれない、SOSだったのかもしれない、破滅することを才能がもとめたのかもしれない、それを受け入れたのちのキャハキャハはその印象とは逆に体よくヒストリーをまとめていないがゆえに純真さの証なのかもしれないと思った。
奥の寝室には先のブロマイドで小巻ちゃんが着ているものとおなじワンピースが掛けてある。
これは、
「ステージ衣装にしようと思ったんだけど、わたしには似合わないみたい」
「そんなことないと思うけどな」
「こういうの好きな人に着させて、いろいろあれしたら」
「無理ですよ」
「想像だけでもいいじゃない」
と愛子さんにいただいたものである。
この服をみつけた小巻ちゃんは、
「なんだ、ちゃんと小巻モデルのワンピース持ってるのね」
と手に取ると、着替えるのだろうか、襖をピシャリと閉めていた。しかしどうかんがえてもサイズは合いそうにない。
またまたピンチである。ビリビリにやぶかれたら今後想像しにくい。
ぼくは襖越しに、
「あのう、それは借り物なんで……」
と呼びかけた。
小巻ちゃんはそれでも強引にそのワンピースを着ようとしているらしく、
「もうちょっとだから、引っ張り上げるの手伝って」
とやはり襖越しに声をかけてきた。
おそるおそる襖を開ける。すると小巻ちゃんは、白のワンピースをすでに身につけていた。両腰に手の甲をあてながら、こちらをみつめている。
「ああ、ブロマイドとまったくおなじだ……」
小巻ちゃんは光を発していた。ぼくはまるで天恵を受けたかのように、その輝きに圧倒されてしまった。
光に包まれた小巻ちゃんは、
「どう?」
と首をかわいくかしげた。そして白雪姫のように、やさしく小さくほほえんだ。
(完)




